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52ヘルツの物語 読書感想文 後編



⚠️注意


・ここでは町田その子さんの「52ヘルツのクジラたち」のネタバレを含みます。未読の方はご注意ください。
・一個人の感想であり、主観的な意見です。
後編では、否定的な内容を含みます。この本が良かった!好き!と思っている方はブラウザバックをお勧めします。
・前編を読んでいなくても、後編だけ読むことも可能です。前編と繋がっている内容はありません。

それでもよければ、どうぞ!



率直な感想(前編と同じ内容)

この本はYouTubeで紹介されていたり、映画化されていたり、話題性のある本だったので気になって読みました。
読んだ後に大絶賛してるレビューも多かったり、感動した!という本屋さんでの広告でよく見ました。

一個人としては、
好きか嫌いかで言われたら好き。けど、個人的に気になる点が多い。
が、自分の中での感想です。
確かに感動もしたし、内容としてもいろんな現代の社会問題を描いている素晴らしい作品だとは思ってます。
ただ、自分の中で引っかかったところがあってしまった。
こういうのはちゃんと言語化した方がいいというのはなんとなく私の経験則であるので、お付き合いいただける方だけお付き合いいただけたら幸いです。

前編では個人的に良かったところ、肯定的な意見を。
後編では個人的にモヤっとしたところ、否定的な意見を載せています。

52ヘルツのクジラたちを読んで自分の抱いた感覚に合わせて、記事を読んで頂けたらと思います。



個人的にモヤっとしたところ

・現在の主人公に好感が持てない。

この小説は大きく分けて二つの時間軸で進行していきます。
主人公の三島貴瑚が一人で海の見える田舎町に引っ越してきて、少年と出会う現在の話と貴瑚が自分の家族と決別して、アンさんと出会ってからからの過去の話。
この二つの話が同時進行で進んでいきます。

私はアンさんに感情移入できたし、過去編の貴瑚には感情移入できました。
でも、田舎町に越してきてからの貴瑚はあまり好きになれませんでした。
理由は大きく2つあります。

一つ目は、物語冒頭で初対面の人に手をあげて、暴言を吐いたこと。
しかもその後、謝罪も何もなかったこと。


最初は主人公に人に手をあげて文句を言うまでに主人公の心を廃れさせたことはなんだったのだろうか、という疑問を抱かせたかったのかなと思いました。
でも、貴瑚の過去を知れば知るほど、手をあげたことにも、暴言を吐いたことも、それに対して謝罪もしなかったのも、納得できませんでした。
彼女には両親からの暴力、暴言の虐待をされていた過去があります。
なら、貴瑚には暴力を振るう意味を、暴力が振るわれる被害者側の気持ちも痛いほどわかっているはずではないでしょうか。
相手の態度を暴力で支配しようとすることの愚かさを知っているのであれば、その愚かな行動をした自分がいたと気づいた時に、ちゃんと反省して欲しかった。

作者としては、虐待されて育った子供は虐待するという片鱗を見せたかったのかもしれませんが、そうだとしても胸糞悪すぎます。

もし、暴力を振るった理由である男性の言葉が貴瑚に対してあまりにも酷いことだったとしても、貴瑚だけは、暴力を、それを反省しないことを、やってほしくなかった。

私的に暴力を振るう前の男性の言葉「風俗やってた?」という発言は正直とっさに手が出るまで腹を立てられるような言葉ではないと感じていたというのもあるかもしれません。
確かに男性の聞き方は最悪ですし、女性に対してなんて失礼なことを聞くんだという気持ちはありますが、初対面の人が自分に何もかも配慮してくれて話してくれるなんて少ないです。
もし、この発言がまだ常識を知らない子供相手だとしても、貴瑚は手をあげたのでは、とまで思ってしまいます。
貴瑚は確かに、母親と一緒で妾の立ち位置だったとか、自分のせいで二人の男性の人生を狂わせてしまったとか、一瞬で過去によぎることがあってその一言でとても傷ついたとしても、暴力を振るうまでだったのか私にはわかりませんでした。


しかも、今後の貴瑚はその土地で虐待されている少年と出会い、その少年の家族から解放してあげようと動き、最後には一緒に暮らせるよう頑張ろうというところで終わります。
私は少年のことを本当に思うのであれば、せっかく虐待から逃れられた少年を、暴力を振るうような大人に預けて任せることはできるとは思いません。

この物語では、暴力を振るう大人は何人か出てきますが、その姿は悪者として描かれることが多いです。
そうであれば、主人公である貴瑚にもそれは適用されるはずなのに、貴瑚の暴力に関しては、暴力を振るわれた側がひたすらに謝罪して許しを乞うています。
それに対し、貴瑚は渋々許しはしますが、その後その男性のことを邪険に扱い、自分の行いを振り返って反省することはありません。

ここから私が読み取ってしまったこととしては「可哀想な人は何をしても許される」ということです。
貴瑚の境遇は確かに同情できますし、辛かったのだからと貴瑚に歩み寄ろうという気持ちもありますが、でも納得できませんでした。

この物語の中には勧善懲悪の概念も感じられるが故に、主人公が悪い側に回った時、それを看過して見逃されるのは、自分の中でどうしても理解できませんでした。


現在の貴瑚に好感を持てない理由の二つ目は、少年に「52」という名前をつけたことです。

いや、ネーミングセンス無さすぎやろって率直に思ってしまいました。
人の呼び名に対して数字を当てるのは、奴隷とか機械の型番とか囚人のようで自分は受け入れられませんでした。

ただ貴瑚のネーミングセンスがない、だけでここまで不快感を抱いたのではありません。
この物語において名前を呼ぶということは、重要な意味を含んでいると思っているからこそ大切に扱って欲しかったのです。

アンさんが貴瑚のことをキナコと呼ぶように、祖父が自分の孫のことをムシと呼ぶように、岡田安吾がアンさんという名前を名乗るように。

アンさんが貴瑚のことをキナコと呼ぶのは、親に与えられた名前とは違う名前で呼ぶことで、貴瑚に第二の人生を歩めるように、貴瑚が新しい自分に変えられるように、まずは名前から変えてあげようという優しさを感じました。

貴瑚の元に逃げてきた虐待されている少年の本当の名前は愛(いとし)という名前です。
愛の祖父である品城さんは、自分の娘の琴美の名前は何度も呼びます。が、愛の名前は一度も呼ばず、ムシと呼び、愛情を決して注がなかった。
自分にとって煩わしい存在、消えて欲しいからこそ、人間ではなく虫扱いをする酷い人間というのを描き上げていると思いました。

岡田安吾、本名岡田杏子は生まれた時の体は女性、生まれてた精神は男性という、自分の中で二つの性が存在する人物。
そんな岡田が自分のこと周りに「アンさん」と呼ばせているのは、性別が変わっても名前の共通の読み方である「あん」を性別が変わっても捨てられなかった想いを感じます。
親に授けられた命を大事に思う反面、親は自分の生き様を認めてくれないことに何度も何度も岡田は悩まされていたのだと思います。
例え性別は変えられても、親は変えられない。でも自分は変わりたい、自分は自分の生き方を選びたいと思っていたからこそ、男性でも女性でも使える「アンさん」という名前を自分で名乗っていたのかなと。

この作品において名前は重要な立ち位置だからこそ、人の名前に52などという不自然な名前をつけてほしくなかった。
アンさんが貴瑚のことをキナコと呼んで新しい人生を歩んでほしい、親に縛られてほしくないという思いと一緒で、貴瑚が愛と呼ばないという選択は良いと思いますが、その内容をきちんと考えてあげるべきだった。
第二の名前として重要な場面で、どうして52なのでしょうか。
52ヘルツのクジラから名前をとりたかったなら、「クジラ」とか「ヘルツ」とかで良い気がしますし、52をもじって「コニー」とかトランプの総数からジョーカーを抜いた数が52枚であることから「ジョーカー」とか(?)考えられる名前は52よりもあったと思うんですよね。

貴瑚は過酷な家庭環境からまともな教育を受けられなかったから安直な名前をつけるって表現なのかもしれないですけど、色々理由があったとしても人の名前に数字はやっぱり自分の中で受け入れられませんでした。

あとは、単純に現在の貴瑚の言動が乱暴すぎるっていうのも自分はなかなか受け入れられなかったです。
私は主人公に対して当たり強すぎなのかもしれませんが、勧善懲悪に沿った物語の描き方をされているように見えるからこそ、主人公が悪側に振り切れるのか、善側に振り切れるのか、はっきりして欲しかったな、と個人的に思います。


・周りの人間が主人公にとって都合が良すぎる

この小説で描きたかったのは個人的には、「人はそれぞれ苦しい問題を抱えて生きている。」だと思っています。
物語を読んでいて苦しくなるのは、その文章が自分にとって想像がしやすい、身近な話に思えるからこそ共感できていたから。
主人公である貴瑚はその中の第一人者として描かれているとは思うんですが、貴瑚以外の人物が貴瑚にとって都合が良すぎる。
それも不自然なほどに都合が良く、現実性がないな、と私は感じてしまいました。

一つ目は、貴瑚に関わる若い男性が全員貴瑚のことが好きというところ。
具体的に挙げると、アンさん、主税、村中です。
貴瑚は環境が3段階で変わっていると思います。最初は実家で家族からの虐待を受けながら過ごしていた頃、次は実家から抜け出して自分で工場で働き始めた頃、そして今まで築いたものを全て捨てて田舎暮らしに移行した頃。
それぞれの段階で一人ずつ男性を理由もなく魅了しているのです。
自分はこの事に関してはどうしてもリアリティのない描写だと思ってしまいました。

確かに男性を魅了する女性は確かにいるとは思います。
しかも、その女性は身なりに気を遣える程の気力がなく、不健康そうな状態で男性を魅了しているのです。
私の中で、現実で男性を魅了する人というのは、それなりに自分に身なりを整えていている人だと思うんですよね。
無条件に、出会った瞬間、一目惚れが3回も起きるものなのか?とモヤっとしてしまいました。
私が読みたかったのはシンデレラストーリーではなかったというのが大きいのだと思います。

流石にその設定は無理やろ……って思った瞬間にその物語から距離を置く感覚をここで味わってしまいました。


主人公にとって都合が良すぎる人物として、次に上がってくるのが田舎町で出会う少年です。

この少年は、雨の中でうずくまっている貴瑚に対して傘を刺してあげるところが最初の二人の出会いです。それから貴瑚が無理矢理少年を貴瑚の家まで引っ張って風呂に入らせようとして、少年は逃げ出します。
本当に助けの声を上げたい人には少し強引にでも行動に出なければならない場面もあるかとは思います。だから貴瑚もそうしたのだと理解はできます。

でもこの時点で、正直私は、少年にとって、貴瑚は良い人物には見えませんでした。
ただ、少年はこの後、自分の足でもう一度貴瑚の家に訪れるのです。
理由としては、風呂の時に脱がされたTシャツを返してもらうためでした。
しかし、そうだとしても少年はいきなり家に連れて行かれ、嫌がっている意思を無視されて、服を剥ぎ取った人の家にもう一度行きたいと思うでしょうか。

私の違和感とは裏腹に、少年が貴瑚に懐いていく様子を見て、「あぁ、私はこの少年の気持ちはわからないな……。」と気持ちが離れていくのを感じました。
それからは少年が貴瑚にとって「救いやすい人物」として都合の良い設定が並べられていくのを見て、私はこの本は合わないんだろうな、と察しました。


・貴瑚は人を救える人ではない

貴瑚は、確かに今までの人生を一生懸命、全力で足掻いて生きている人物だとは思います。
貴瑚の全てを否定したいわけではありません。

ただ、自分自身がしっかりしている、人を助ける余裕がない人が他人を助けると共倒れします。
他人を助けるのは決して簡単なことではありません。

これは私の経験談もあるので割愛しますが、他人を救える人間は、ある程度余裕がなければ、途中で放り出すしか無くなってしまいます。
他人を助けるのには、時間もお金も労力も何もかも無償で提供しなければいけないからです。

貴瑚はお金はたくさんあったとしても、精神的に辛い出来事が多すぎた。
だからこそ、しっかり時間をかけて休んで、自分のための自分の人生を歩んで欲しかった。

貴瑚は余裕のある人間だとは私は思いません。
愛と一緒に暮らすためにこの先の2年間は必死に働く事になります。
それが生まれてからずっと親からの愛情をもらえず、虐待されていたところからやっとのことで抜け出したのに、付き合っていた人に軟禁され、暴力を振るわれ、心の支えだった人の自殺を見て、何もかもから逃げ出してきた貴瑚にできるでしょうか?
貴瑚は愛にとっても「アンさん」になれるのでしょうか?
私は人間はそこまで強い生き物だとは思えません。

ただこれは本当に一個人の意見ですし、決めつけは良くないとはわかっています。
でも私は、この物語の2年後貴瑚が、愛と暮らせるという続編が出たら受け入れられないだろうな、とはっきりと思っています。

総評

私的には、正直田舎町に引っ越してきた現在の貴瑚編はまるまるなかった方が受け入れられたと思います。
私は52ヘルツのクジラたちは貴瑚とアンさんの物語だとなのでは?と思ってます。
愛の話も感動はできますが、どうしてもツッコミどころが多い。
個人的にはもっとアンさんが何を思って、何を考えていたのか知りたかったです。

色々と文句みたいに言ってしまいましたが、「52ヘルツのクジラたち」は良い作品だと思ってます。だからこそ感想を残したいと思って、こうして書いているつもりです。
良い作品だからこそ、私がこの作品とどこの考え方が合わなかったのか、わかりました。感想文を書きながらふわっとした自己分析もできてとても有意義な時間でした。

ここで感想文は終わりとさせていただきます。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!

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