能力主義社会のディストピア: 努力すれば成功できるという幻想

能力主義、という言葉をご存知だろうか?
イコール実力主義、またはメリトクラシーともいうが、この思想の理念はシンプルだ。

人は能力に応じて評価されるべきである。そしてその能力は、努力により獲得できる。
すなわち、努力すれば誰でも成功できる。これが能力主義である。

そして、アメリカではこうした思想に基づき教育・政治がなされている(日本もそれに近い感覚がある)。
果たしてこれは真実だろうか?
今回は映画レビューではないが、このことについて考えていきたい。

能力主義社会はユートピアか?

年功序列もなく、誰もがその実力に見合うだけの評価を得る社会。これは一見理想的である。
なぜなら、年齢のいっている能力のない上司に従わなければならないというストレスが減るし、差別もなく、全員が平等に評価されるからーーこう考える人も多いだろう。
なぜなら、能力というのは努力で獲得できるものであり、それをしない人は怠け者だから。だから能力のある人を評価するのは当たり前である。前提はこういう価値観である。
実際に自分も、学生時代、頭の良い人はそれだけ努力しているから偉い、というようなことを教師に言われてきた。

だが果たして、これは真実だろうか?
賢い人はそうでない人よりも努力の絶対量が多いのだろうか?
能力、実力、学力とそれに付随する社会的地位、経済力は努力で獲得できるものだろうか?
否、というのがマイケル・サンデルと、ピエール・ブルデューの答えである。

実力も運のうち

これは、サンデルの著書のタイトルである。彼が伝えたかったことがそのままタイトルになっている。
現代アメリカにおいては、新自由主義政策により格差社会は進行し、階級の固定化が進んでいる。
すなわち、富裕層と貧困層である。かつてメインだった中流層は没落してしまった。
この階級社会の中で、階級の壁を超えるのは至難の業である。なぜなら、アメリカでは社会保障が手薄で、一発逆転のとっかかりすら掴めないからだ。

アメリカ政府は、医療も教育も市場に売り渡してしまった。
その結果、大学の学費は高騰し、貧困家庭の子は大学にすら行けない、多少収入のある家庭出身でも多額の学費ローンを背負って卒業、という事態になってしまった。
結果的に、まあまあいい会社に就職したとしても借金返済と莫大な医療費で生活はカツカツである。
他方で、大学すら行けなかった人たちには低賃金の仕事しかない。
どちらに転んでも余裕を持って暮らせない。これが、中流層が没落したといわれる所以である。

さて、この貧困スパイラルから純粋な「努力」で抜け出せるのは、狭い奨学金枠をゲットして名門大へ行き一流企業に就職するか、企業して一発当たった超超超ラッキーな一部の人だけである。
つまり、努力というより運である。
学歴に関しては、全く同じだけの努力をしても、そもそも家庭に文化資本がなかったり(文化資本については後述)、学校で良い推薦状がもらえなかったり、奨学金枠に滑り込めなかったりすれば、同じ結果とはならない。
また、企業して当たるかどうかはそれこそ運である。(コネも財力もない人が成功できる確率は非常に低い)

つまり、現代アメリカにおいては、富裕層、貧困層の階級間移動は非常に困難になっており、端的にいえば「努力しても成功できない」。
であるにも関わらず、なぜかアメリカ人の大半は「成功に最も必要なのは努力である」と勘違いしており、それゆえに社会保障は手薄となっている、これが現代アメリカの悲劇である、とサンデルは言う。

学歴差別は最後の許された差別

サンデルはまた、「学歴差別は最後の許された差別である」ともいっている。
人は、生まれ持ったもの(性別、人種民族、性的指向等) で差別されてはならないとされている。
これは、広く共有されている価値観であり、アメリカの民主党が全面に押し出している思想でもある。
男女差別、人種差別、lgbt差別はいけない。これはごもっともである。
しかし、民主党は、学歴差別だけはしていいとしている。
いや、差別という意識すらなく当たり前のことになっている、とサンデルは言う。

なぜか。それは、民主党自体が高学歴のエリートばかりの政党だからだ。
彼らは、自分達は努力して高学歴を得た、だから努力した人がそれ相応の報酬を貰うのは当然である、と思っている。
だから、学歴により社会的地位や収入に格差があっても、それは本人の責任なのだから救済したやる必要はない、と考える。

しかし残念ながら、学歴というのは本人の努力いかんによりどうこうできるものではない、というのが社会学の定説である。

学歴はだいたい生まれた家で決まる

こう主張したのがフランスの社会学者ピエール・ブルデューである。
彼は「文化資本」という概念を提唱し、社会学の世界に大きな影響を与えた。
それは簡単に言うと、「文化資本は親から子へと受け継がれ、それに付随する社会的地位・経済状況も受け継がれる」というもの。
ここでいう文化資本とは、読書や楽器演奏・絵画鑑賞等の趣味や普段の言葉遣い等の文化的素養、学歴といった非金銭的資産のことである。
そしてこの文化資本は、高学歴世帯ほど豊富という。

簡単に言うと、親が読書を好む子は読書好きになりやすい、ということである。
そしてこの読書というのは、学業達成に有利な趣味であり、こういった文化資本を持つ子は勉強で他の子よりもアドバンテージがある。
つまりそもそものスタートラインが違うのだ。
それを無視して低学歴は自己責任だと言うーーそれが米国民主党であり、それゆえに人々はトランプに投票した、とサンデルは言った。

また日本においても、努力と工夫で高学歴を勝ち取れるという神話は多くの人に信じられており、その代表例が『ドラゴン桜』であり、『ビリギャル』であり、『偏差値◯◯の私が東大合格した勉強法』といった書籍だろう。
この類のサクセスストーリーが流行ること自体が、大衆が能力主義を信じていることの証左である。

だが残念ながらこれらは真実ではない。
岡田斗司夫氏が言うとおり、『ビリギャルは地頭がいいのに勉強してこなかった子がすごく良い先生についてもらってたまたま名門大に合格した話』なのである。
残酷な現実は、ほとんどのギャルが名門大に行けないのだ。

能力主義と社会保障

さて、このように見てくると、能力主義社会の問題点が明らかになってくる。
しかし、能力主義・実力主義の真の問題はそれだけではない。
社会保障縮小の理由づけにされるところが、実は最大の問題点である。

例えばアメリカ社会の社会保障はかなり手薄である。
国民全体をカバーする国の健康保険制度もないし、教育費も高く、私立高校と公立高校では教育レベルも、学費も天と地ほど違う。
このような状況で不満が出ないわけもないし、大規模な暴動が起きても不思議ではない。
しかし、それを抑え込める魔法の思想が「能力主義」である。

あなたの人生がうまくいかないのは政府の政策のせいではなく、あなたの能力(努力) 不足のせいである。
民衆にこう信じ込ませられれば、政府は責任を取らなくて済む。
そして、政府が負うべき社会保障、インフラ、農業を市場に売り渡し、大企業に儲けさせることができるのだ。
能力主義の最大の問題点はここにあると思っている。

能力主義社会のディストピアーー孤立した貧困層の絶望死とジョーカーの出現

さて、このような階級制能力主義社会の中で貧困に落ちた者は二度と抜け出せない。
そして、そのような者たちはアルコールやドラッグによる散漫な死や自殺、すなわち絶望死を選ぶ、とアン・ケースとアンガス・ディーンは言った。
貧困で孤立し、人生がどうにもならない。しかし、それを誰のせいにもできない。なぜなら成功できなかったのは自らの努力不足のせいだからーーそのような状況に陥った人は絶望し、死を選ぶ。
そうして、その際に他人を道連れに拡大自殺をすることもあり、これが昨今増加する無敵のひと/ジョーカーであると、個人的には思っている。

人々がジョーカーを恐れるのは単に社会不適合の凶悪犯罪者だからではない。
それは、現代の残酷な能力主義社会から生まれた歪みであると、薄々感づいているからだ。

以前の記事で、私は映画『ジョーカー』は虐げられた者が暴力革命を起こすという予言の書だと書いた。
このまま能力主義社会が進めば、それはいずれアメリカでも日本でも起こりうるのではないかと思う。
人を絶望させる能力主義社会のディストピアは、もう目の前にあるのである。


以前書いた『ジョーカー』の映画レビューはこちら→ https://note.com/lucky5667/n/n952920041a19

参考動画



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