古文漢文不要論というが・・・

 定期的にネット上で議論になるものがある。それは古文漢文は不要というものだ。前回の記事では東大入試の能力があまり実社会で生きないということを説明したのだが、今回はその中でも最もいらない科目である、古文漢文に焦点を当てたいと思う。

 学校の勉強は役に立たないという文脈で必ず悪者にされるのが古文漢文だ。ただ、これはやや偏った意見だと思う。文系の場合、数学はあまり使わないし、現代文も高校レベルは不要である。理科や社会の場合は選択科目であるという事実を取っても必要性は乏しい。文系にとって必要な科目は基本的に英語のみである。

 理系の場合はこうはいかない。数学や理科は理系にとって必須だ。ただ、コンサル等に就職した場合は数学や理科はやっぱり無用の長物となる。医学部の場合も入ってから数学や物理は全く役に立たない。こう考えると、別に無駄なのは古文漢文だけではないのではないかという風にも思える。

 古文漢文が悪者になりがちな原因はマクロ的にも社会の役に立っているイメージがないからだろう。数学や理科はサラリーマンの役には立たなくても、理系専門職やその他人類の進歩には不可欠だ。仮に一部の人しか使う機会がなかったとしても、高校段階で広く学習を進めていくことと、科学者・技術者の卵が生まれやすくなるだろう。そういった意図は見出すことができる。一方の古文漢文はというと、まったく役に立つイメージが持てない。そういうことだろう。

役に立つ立たないで言えば、大学受験の技能の大半は役に立たないし、今更古文漢文だけをやり玉に挙げても仕方がない気がする。三角関数も力学も文系や文系就職した理系にとっては全く必要がないだろう。歴史も必要ない。普通の人間にとって歴史の授業は織田信長がどうのといった事項を暗記させられる退屈な教科である。

 また、理系タイプの場合は古文漢文が嫌いというケースがある。やっぱり嫌いな科目はやり玉に挙げがちだ。Xの場合は数学が苦手な人間が少ないので、数学不要論を唱えている人間は皆無なのだが、世間では数学不要論はそこそこ需要があるのではないかと思う。

 学歴厨で古文漢文不要論を唱えている人間は少ないと考えている。なぜなら、社会の役に立つか否かは彼らにとって無意味だからである。大学受験で出題される限り、問題に取り組むのみだ。いや、むしろ学歴厨にとっては科目が多いことは自慢材料なので、なおさら古文漢文を否定する材料にはならない。

 ちなみに、古文漢文は縮小の方向に向かっていると思う。1990年代の東大入試を見てみると、国語の分量が現在よりもはるかに多く、レベルも高かった。旧制高校の入試を見てみても、やはり国語のレベルは高い。日本社会の方向性は次第に国語を縮小する方向に向かっているようである。

個人的にサラリーマンに不要な科目を考えてみると
全く不要 物理・化学・生物・地学・世界史・日本史・古文・漢文・芸術
微妙 数学・地理・政経・現代文
必要 英語・体育・情報・家庭科

といった感じだと思う。

 筆者の感想になるが、高校の勉強は確実にnoteの執筆において役に立っていると思う。しかし、実社会で役に立つかというと答えはnoだろう。社会人になると金を生む活動以外は無駄だという風潮が出てくるので、教養やら芸術やらに精を出しても遊んでいるだけという風に言う人がいる。少なくとも家でゲームをやっているのと変わらない扱いではないか。ただ、ブルシットジョブ以外に世界を見つけられるという点では価値があるのかもしれない。

 なお、筆者は古文漢文は苦手であり、半ば捨てていた。特に古文は内容がつまらないと感じた理由も大きかった。平安時代の日本は辺境の後進国で、ロクな文明がなかったのだ。だから古文の内容も誰と誰が付き合っていただの、下らない内容が多い。漢文と比べると明らかに書き手のレベルが違うと感じていたまでである。ただ受験科目を選り好みするのはカッコ悪いと思っていたので、口には出さなかったし、一応何とか点が取れるようにはしていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?