<地政学>ピラミッド一発屋?エジプトの鳴かず飛ばずの歴史について語る
フォロワーの方のリクエストに応じて書いた記事である。今回はエジプトの地政学的立場を解説したいと思う。
エジプトという国を知らない人はいないだろう。エジプトはアフリカ大陸の北東部に位置する国で、ピラミッドが有名だ。古来から文明が栄え、ナイル川の下で繁栄してきた。人口は一億人を優に超え、中東最大の人口大国だ。当然アラブ世界での存在感は大きい。
しかしエジプトという国は古代が全盛期で、それ以降はあまりうだつが上がらない国でもある。今回はそんなエジプトの低空飛行の歴史について語ろうと思う。
エジプトの地勢
まずエジプトの地勢について考えよう。エジプトはアフリカ大陸の国だが、一般に北アフリカの国はサハラ砂漠以南のアフリカではなく、ユーラシアと同じ仲間だと考えられている。エジプトは中東の国であり、中東で農耕文明が開始されてから真っ先に文明化した地域だ。エジプトのヒエログリフは独自に開発されたともメソポタミアに触発されたとも言われている。
エジプトはほとんど雨がふらない砂漠地帯だ。なぜ人が住めるのかと言うと、それは外来河川のナイル川が流れているからである。雨がよく降るエチオピア高原の水をナイル川が運んできてくれるのだ。シリアに攻め込んだエジプト兵は雨が降っているのを見て「空から川が降ってくる」と驚いたという。ヘロドトスも言っていたようにエジプトはナイルの賜物であり、荒涼とした砂漠に一筋の緑の線が通っているように見える。
この写真を見てもらえばエジプトという国の本当の姿を分かってもらえるだろう。エジプトとはサハラ砂漠に浮かぶ、細長くて狭い島なのだ。したがってエジプトの人口密度は極めて高い。ジャワ島やバングラデシュとあまり変わらないと思われる。近世までのエジプトは世界で最も人口密度が高い地域だったと思われる。それはもちろん穀倉地帯あってのものだ。エジプトの豊かな農地は多くの征服者もまた惹きつけて来たのだ。
エジプト征服の歴史
エジプトという国は世界でも最も多くの征服を受けた国かもしれない。国という単位を古来から考えられる地域の中ではおそらく最高クラスだ。
古代エジプトの時代からエジプトは既に征服を受けていた。リビアやスーダン辺りの民族が攻めてきて王朝を建てたこともあった。シナイ半島を通ってヒクソスが侵入してきたこともあった。比較的平和なこの時期ですら征服が繰り返されてきた。古代エジプトも末期になってくると、アッシリアの征服地として蹂躙されるようになった。
古代エジプトが終焉を迎えるのはアケメネス朝ペルシャのカンビュセスの征服を受けた時だ。これ以降、エジプトの現地人が主導権を取ることは殆どなかった。アケメネス朝はマケドニアのアレクサンドロス大王の征服を受け、大王の没後はプトレマイオス朝としてギリシャ人の支配下に置かれた。エジプト第二の都市であるアレクサンドリアはこの時に建設されたものだ。国一番の古都に外国人の名前が付いている辺りもエジプトの被征服地としての性質を表している。
ギリシャ人の後にやってきたのはローマ人だ。アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラを破ったアクタヴィアヌスはエジプトを征服し、皇帝の直轄地とした。クレオパトラというとエジプト風の格好がイメージされるが、人種的にはギリシャ人である。クレオパトラを黒人にしたドラマが炎上したのは記憶に新しい。ローマ帝国分裂後はエジプトは東ローマ帝国の重要な穀倉地帯となる。
続いてやってきたのがアラブ人だ。イスラム帝国は東ローマ帝国を打ち破り、エジプトを征服した。これ以降、エジプトはイスラム世界に入ることになる。イスラム帝国が分裂した後は西からやってきたベルベル系のファーティマ朝がエジプトを領土にする。この時に建設されたのがカイロだ。エジプトの歴史を考えると意外に新しい。その後もエジプトの歴史は延々と征服が続く。アイユーブ朝はクルド系、マムルーク朝はトルコ系だ。エジプトの都市文明は続いていたが、支配者は常に外国人である。マムルーク朝はオスマン帝国によって打ち破られ、またまた帝国支配を受ける。
オスマン帝国支配が19世紀になって崩れてくると、エジプトは半独立状態になる。ナポレオン戦争のドサクサにまぎれてマムルークの支配者層を打ち倒したムハンマド・アリーはエジプトに開発独裁を行って近代化を開始しようとした。ムハンマド・アリーはアルバニア人のオスマン帝国の役人で、やっぱり外国人だ。ムハンマド・アリーはアラビア半島に侵攻したり、列強と戦ったり、オスマン帝国と二度に渡る戦争を戦ったりもした。一時はオスマン帝国に変わりうる中東の盟主にならんという勢いだった。しかし、オスマン帝国の弱体化を恐れたイギリスの手によってエジプトの試みは頓挫した。エジプトは次第にイギリスに圧倒されるようになる。19世紀後半になるとエジプトはイギリスの実質的な植民地となってしまった。建前上はオスマン帝国だったが、有名無実だ。
第二次世界大戦までエジプトは基本的にイギリスの植民地であり、第二次世界大戦中はエジプトに攻め入るナチス・ドイツの軍とイギリス軍が死闘を繰り広げた。未だにこの時の大量の地雷がエジプトには残っており、世界最大の地雷埋蔵国らしい。戦後にイギリスが世界覇権を失うと、エジプト支配はほころびを見せてくる。1952年、ナセル大佐がクーデターでムハンマド・アリー朝を滅ぼし、エジプトの2000年に渡る外国人支配は終了した。カンビュセスからナセルまで、長い道のりだった。始皇帝から溥儀までよりも長い。
エジプトの支配される歴史は文化にも現れている。エジプト人は自分のことをアラブ人だと考えている。しかし、彼らはもともとはエジプト語というセム系の言語を話していた。7世紀にアラブ人の征服を受けた時に独自の文化を失ってしまったのだ。それまでキリスト教を信じ、ギリシャ語を公用語としていたエジプト人は、イスラム教を信じ、アラビア語を公用語とするようになった。いつしか一般市民からもエジプト語は消え失せてしまい、一部のキリスト教徒の生き残りが典礼に使うだけになった。
エジプトの近代史
エジプトはアラブ世界の中心地として長年栄えてきた。アラブ世界の文化的中心は一にも二にもエジプトである。実際にアズハル大学やカイロ大学といったアラブ世界を代表する機関を抱えている。アズハル大学はイスラム世界の最高権威として知られる。小池都知事を輩出した(疑惑あり)カイロ大学は世俗の方の大学である。テロリストの多くはカイロ大学の出身であり、イスラム過激派が宗教運動よりも政治運動であることを示している。サダム・フセインもカイロ大卒となっているが、どうにも学歴詐称らしい。あの大学はどうなっているんだ。
それほど経済的に栄えていない中東地域の地政学的重要性は石油・聖地・海峡の3つに絞られる。このうちエジプトはスエズ運河と航海のシーレーンを抑えており、それなりに重要な価値を持つ国である。イギリスがエジプトの支配にこだわったのはそのためだ。この運河は後に重要な戦争の舞台となる。
クーデターで政権を奪取したナセル大統領は再びエジプトを中東の偉大の国にしようと試みた。当時のエジプトはアラブ世界のリーダーとしてふさわしい国として思われていたし、実際にそうなろうとした。ナセルはソ連と同盟を組み、汎アラブ主義の名のもとに数々の中東の紛争に首を突っ込んだ。シリアと合併してアラブ連合共和国を名乗っていた時期もある。しかし、イスラエルとの四度の戦争に敗北した結果、エジプトは失墜してしまった。1979年のイスラエルとの平和条約以降、エジプトは地域大国であることをやめ、不活発な状態が続いている。ソ連との同盟は破棄され、西側の友好国となっている。
ナセル時代のエジプトは左翼的・解明的な気風だった。アラブ世界の中心がエジプトだった時代は今とは別のアラブ世界の潮流があったのだ。ナセル時代の教育ある女性はこぞってミニスカートを履いていた。そういう時代があったのである。この時代のアラブ世界は他の第三世界の国とそこまで変わることがなかった。貧しい民衆は熱心にイスラム教を信仰していたが、エリート層は西洋志向が強かった。
ところがエジプトが失墜すると代わってサウジアラビアがアラブ世界の中心になってしまった。この国はイスラム原理主義とオイルマネーが合わさった異形の国であり、到底近代化の手本にできる国ではない。サウジアラビアが中心になってからアラブ世界の右傾化が激しくなり、後進性に拍車がかかるようになった。
エジプトの政権はナセルのクーデター以降、一貫して事実上の軍政だ。ここから逸脱したことはない。2011年のエジプト革命で一時的にムスリム同胞団の政権が打ち立てられたが、すぐに軍政に戻った。
エジプトの地政学
これらの歴史を踏まえてエジプトを取り巻く地政学について考察しようと思う。エジプトは周囲を砂漠に囲まれた島のような地域だ。しかし、砂漠は自然の障壁としては弱く、エジプトを外部から守るうえでは役に立たなかった。2000年以上に渡って外部勢力は難なくエジプトを支配下に置いてきたし、特に支配に苦労した形跡も見られない。常に支配される側の民族として、時の支配者に従順だったのだ。
エジプトは地政学的に可もなく不可もなくの国である。まず国内の人口密集地帯は一箇所にまとまっており、均質性が高い。古代エジプトのときからそうだったが、この国は内戦によって引き裂かれるリスクがかなり低い。実際、中東地域にありながらエジプトは近代において一度も内戦が起きたことがない。 見方によってはエジプトはかなり平和な国とも言える。近代においてエジプトは多数の人間が死ぬような悲惨な戦争を一度も経験していないのだ。ついでにいうとエジプトは自殺も殺人も少ないので、事実上世界で最も「平和」な国と言えるかもしれない。
国外の脅威はどうか。エジプトの対外関係で特に重要なのはイスラエルとの平和条約だ。1979年以降のエジプトの地政学的問題の全てと言っても過言ではない。和平の見返りとしてエジプトはソ連と断交し、西側の仲間入りをした。アメリカはイスラエルとの平和条約を守らせる報酬として財政援助と近代兵器を与えた。これはアメリカにとっても重要な利益となった。重要なシーレーンであるスエズ運河を確保できるからだ。第三次中東戦争から第四次中東戦争にかけては戦争によってスエズ運河が通行不能の状態に陥った。このような事態は避けねばならない。
エジプトはエジプトはスエズ運河に面し、重要なシーレーンを抑えている。本来なら経済発展には有利な国のはずだ。ところがエジプトはその立地を生かしていない。エジプトの経済発展のレベルはトルコやイランに比べると遥かに劣り、中進国にすらなっていない。フィリピンとそう変わらないのである。最近はインドにも追い抜かれようとしている。一方で人口は増加し続けている。増加する人口に雇用が追いついていないので、エジプトは慢性的に不安を抱えているのである。
エジプトは歴史上何度か東の中東地域に進出しようとしている。しかし、いつも途中で頓挫し、アフリカ大陸に押し戻されてしまう運命にある。これは近代になっても変わらない。ナセルは再びエジプトを地域大国にしようとしたが、同様の壁に突き当たった。ナセルの構想する統一アラブ国家の真ん中に食い込んでくるイスラエルは邪魔者以外の何者でもない。エジプトは地域覇権国になるためにはイスラエルを破る必要があり、幾度となく戦争を仕掛けた。しかし、イスラエルを滅ぼすことはできなかった。
現在のエジプトは特に積極的な戦略を打ち出しているわけではなさそうだ。アラブの春以降、エジプトはサウジアラビアの財政援助に依存するようになり、サウジアラビアの子分のような状態になっている。イスラエルとの同盟は揺るぎなく、エジプトはハマスを敵視している。ハマスはエジプトの反体制派から生まれた組織だからだ。2023年ガザ戦争においてもエジプトはガザの難民を一切受け入れるつもりがない。シナイ半島はジハード主義者が暴れている紛争地帯であり、そんなところにハマスが入ってきたら大変だ。というわけで、エジプトは明言こそしないものの常にイスラエルに協力し続けている。エジプトの国民感情はイスラエルを憎悪しているが、それが政策に反映されることはない。
エジプトが鳴かず飛ばずの理由
エジプトの低空飛行の歴史の原因は何なのだろうか?正直、地政学だけで完全に説明することはできない。エジプトは国内に深刻な亀裂も無ければ、大国に圧迫されているわけでもない。本来は島国のように有利な立場になってもおかしくないはずだ。しかし、エジプトは妙に鈍重なのである。
エジプトはユーラシアから切り離され、周囲を砂漠で切り離されているので、島国もどきと言っても良いだろう。しかし、エジプトは海洋国家とはいい難い。この国が外洋進出に積極的に乗り出したことは殆ど無い。では大陸国家かといえば、それも違う。エジプトは大陸国家というにはあまりにも狭いし、周辺諸国を征服したこともあまりない。南のスーダンに進出したことはあるが、エジプトにとって役に立つ資源は特にはない。海洋国家でも大陸国家でもないのがエジプトである。むしろ海からも陸からも攻められるという点で半島国家に近い可能性もある。
エジプト人が主体となって何らかの勢力拡大を図ったり、戦争を戦ったりという事例はかなり少ない。ムハンマド・アリーの時もナセルの時もエジプトは一時的に成長を見せたが、途中で失速してしまった。現在のエジプトはアメリカ・イスラエル・サウジアラビアの従属国のような状態で、主体的に地域を定義する存在でもなければ、地政学的戦略を持っている訳でもない。エジプトは古代から征服者に従順だったが、そのメンタリティは現在も続行しているのかもしれない。
エジプトという国について長々と書いてしまったが、個別のネタは沢山あるのに、一貫した地政学的特徴はあまり見つけられなかった。こんな国は珍しい。内戦は起こりそうもないが、かといって安定した立場から地域大国として乗り出す訳では無い。大国として振る舞うには軟弱だが、小国のように生き残りに狡猾なわけでもない。中途半端な中規模国はバトルアリーナにされることが多いが、エジプトはその可能性も低い。生き残ったり、勢力拡大に走ろうというガッツが本当に見えないのだ。そういう意味では地政学的に面白そうでつまらない国である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?