森秋彩選手の「低身長で届かない問題」はアンフェアと言えるのか?

 今回も色々と炎上続きのパリ五輪である。このような五輪の性質は視聴者や関心層の大半がその競技に普段関心のないライト層が占めることが原因であるという議論を前回は行った。それに加えて国威発揚といった政治性をはらむことも炎上の原因の一つである。

 そうした騒動の一つがクライミングの森選手の騒動である。森選手はかなりの実力を見せていたのだが、低身長が故に最初のルートに手が届かない時があり、ここが0点だったことが理由で4位となってしまった。もし手が届いていればメダル獲得の可能性が大きかったがゆえに非常に残念である。今回のルート設定には批判が多く、人種差別であるといった意見すら見られる。

 ところで、筆者はこの騒動をかなり俯瞰的な視点で見ていた。そもそも「身長的なハンデ」は「不当」と言えるのだろうか。この手のロジックはスポーツ以外の様々な道徳論争に関してもつながる側面がある。今回はこの問題についてちょっと抽象的・メタ的な考察をしてみたい。

身長も実力のうち?

 議論あるところではあるが、スポーツは生まれ持った身体的な特徴に大きく左右される。どう考えても生まれつき足が遅い人間や、反射神経に劣る人がんはいるはずだ。努力と言っても限界があるだろう。スポーツにおいては身長をはじめとするフィジカル面の優位は重要だし、尊重される気風もある。 

 こう考えると、果たして「身長が足りなくて手が届かなかった」はアンフェアと言えるのかという問題が発生してくるだろう。例えば大相撲は最近まで身長制限が存在した。身長170センチという基準を満たさなければ土俵にすら上がれなかったのだ。クライミングにおいても、例えば骨形成不全で身長90センチという人はコースには登れないだろう。このように、どうしようもない身体的なハンデによってスポーツの優劣が決まるのは当たり前であり、森選手が届かなかったとしても、それが直ちにアンフェアとなるわけではないのだ。「身長も実力のうち」という主張も可能なのである。

 スポーツ界は身体性を重んじる。体が大きいとか、力が強いといった形質はそれだけで評価の対象となる。となると、説明がつかないのは女子競技や階級制の競技である。女子選手や軽量級の選手は肉弾戦では優勝することは不可能だろう。それにもかかわらず、ある種の「アファーマティブ・アクション」が行われる背景に潜む論理とは何だろうか?

スポーツは結局「面白いかどうか」

 スポーツのルールは個別の試合に関しては厳正に審査されるべきであり、例外や裁量の余地は少なくすべきである。「こっちの選手が勝ったほうが面白いから」といった理由で審判を操作することなどあってはならない。それはフェアプレー精神に著しく反するだろう。

 一方、個別の試合にとどまらない、大局的・メタ的な観点では様相が異なる。競技の面白さは実のところルール設定に依存している面が大きい。もしある競技が面白くないとなれば、ルール変更をして競技性を変えるというのはよくある話である。

 仮にスポーツが身体的優劣と切り離せないとしても、競技が面白いかどうかは全く別である。例えば「背比べ」という競技があったとしよう。この競技は面白いだろうか?いや、面白くないに違いない。スポーツの面白さの根源である「やりこみ要素」や「駆け引き」が全く存在しないからだ。

 仮に身体的能力に依存する面が大きいとしても、「やりこみ要素」や「駆け引き」が存在する競技は「面白い」と認識されやすい。スポーツの根源的価値は結局のところエンタメ性である。健康増進や精神修練もあるが、それだけではプロスポーツは収益化できないだろう。例えば老人のラジオ体操をテレビ放映しても誰も見ないだろう。それはつまるところエンタメとして面白くないからなのである。

アスリート性とエンタメ性

 スポーツをエンタメと言ってしまうと、おそらく違和感を感じる人間は多いと思う。アスリートは高みを目指して修練している存在であり、その実績は大変な尊敬を持って見られるものだ。だから彼らの価値を世間一般のエンタメ性に由来すると断じるのは冒涜ではないかというものである。

 筆者もこの手の主張に関しては理解している。社会におけるアスリートの立ち位置は芸能人やユーチューバーとは異なっているだろう。エンタメ産業の人間は視聴者に受けて金が儲かるかどうかが価値である。一方、アスリートはそういった経済的価値や娯楽的価値を越えた価値を社会的に認められている。

 筆者が言いたいのは、個別の選手や試合といったミクロ的な見方と、もっとスポーツ競技全体を見通したマクロ的な見方は異なるということである。競技のルール制定はマクロ的な作業であるので、エンタメ性とは切っても切り離せないのではないかと思う。一方、個別の試合や選手の努力といったものに関してはエンタメ的な価値観を持ち込むべきではない。テレビで人気の選手よりも、競技で上位に来れる選手を評価すべきだし、そこは収入や知名度とは切り離すべきだろう。

エンタメ性に立脚した価値判断

 このようにマクロ的な競技の価値判断の基準をエンタメ性に立脚したものと定義すると、スポーツを巡る価値観は一気に明確になるだろう。

 例えば女子選手は男女混合で競技を行ったらまず優勝することはできない。それにもかかわらず、女子競技という枠が設けられるのは、そちらの方が競技が面白くなり、普及に役立つからだ。もしプレイしているのが男性ばかりなら、女性の多くはその競技に興味を持たないかもしれないし、参加に敷居を感じてしまうかもしれない。女子競技のような存在は広い意味で競技のエンタメ性を上げているし、普及に役立っているのである。

 これは観戦に重きを置く競技に男性優位の気風があることとも一致するだろう。例えば相撲は一般人に普及することがあまり求められていないので、女人禁制を続けても大きな問題にならなかった。野球やサッカーのような莫大な収益が得られる競技も同様である。これらは「やる競技」である以上に「見る競技」としての性質が強いのである。「見る競技」で女子競技を導入する場合はどうしても「女としての価値」すなわちアイドル性になってしまう。これの是非に関してはかなり議論あるところだろう。

 アイドル性が問題にならない競技も存在する。例えばフィギュアスケートがそうである。フィギュアは本質的にショーという側面を持ち、見栄えを競うという観点は問題にならない。格闘技や球技と違って女性と相性が良い競技と言えるかもしれない。

 同様に、階級制に関しても当てはめは可能だ。重量級の人間しか勝てないとなれば、その競技にチャレンジしようという人間は少なくなってしまう。しかし、階級制が導入されることで、体格が小柄な人間であっても競技を楽しむことができる。体の大きさよりも技術や駆け引きといった要素を極めたほうが「面白い」と感じる人間が多いのである。

 森選手の件も同様のロジックで考察できる。身長154センチの人が糸口すらつかめないという競技は一応成立はするだろう。問題はその競技を多くの人間が「面白い」と思うかどうかである。競技の普及にとってはどう考えてもマイナスではないだろうか。相撲のような一般への普及を前提としない競技とはわけが違うのである。

 フェアネスとは全く違った観点になってしまうが、「エンタメ性」ないしは「普及可能性」に焦点を当てるとスポーツの是非がかなり明確になる。スポーツをメタ的に俯瞰するとエンタメ性は重要であり、そのために競技のルールや設備を工夫する必要があるのである。

普及可能性基準の応用

 これらを踏まえて「普及可能性基準」といった概念を考えてみたいと思う。「競技はその競技の普及が最大化されるように工夫されるべき」という基準である。この基準を使えばスポーツのフェアとアンフェアは面白い具合に論じることができるだろう。

 フィギュアスケートを考えてみよう。この競技は年齢制限があることが有名だ。女子は20代になると体つきがふっくらとしてしまうため、自重と戦う競技の場合は不利である。フィギュアの強豪選手を見ても、ピークが軒並み10代なかばだ。15歳で金をとったザキトワが良い例だが、他の選手も似たようなものだ。ロシア選手の多くは20歳までに引退してしまう。特に最近は4回転女子が現れたため、この傾向に拍車がかかっている。

 女子フィギュアスケートは欠陥競技であるという議論がある。もっと歳上の選手が優勝できるようなルールを作るべきだというものだ。筆者もこの意見には賛同したい。なぜなら、優勝者が15歳や16歳ばかりという競技は普及可能性に乏しいからだ。表現力や発信力という観点を考えると、10代の影響力は非常に弱い。親とコーチに芸を仕込まれたサーカスとして捉えられる可能性は否定できないだろう。やはり業界の第一人者は20代か30代であって欲しいし、選手寿命も長いに越したことは無いだろう。筆者の個人的見解だが、女子の4回転は廃止すべきだと考えている。

 これはドーピングの問題も審査できる。身体能力が重要というのなら、理論上は薬物によって増強することが自明に問題とは言えないはずである。地道な筋トレや特殊体質の人間と何が違うのかという訳である。ドーピングが追放されるべきなのは、ドーピングが重篤な身体的副作用をもたらすからだ。現に東ドイツでは訴訟が頻発している。競技の第一人者がドーピングばかりとなると、「薬を打てないと勝てない競技」ということになり、普及はおぼつかないだろう。むしろ競技自体が社会に有害になってしまう。

 その点では筆者は健康を害する競技に関する印象は良くない。典型例は相撲である。力士の平均寿命は60歳であり、その理由が無理な身体的増強にあることは議論の余地がない。舞の海や炎鵬の活躍を見れば、小柄な力士であっても技術や駆け引きとった側面で競技性を高めることは可能なはずだ。だから階級制にしても面白さは損なわれないと思っている。相撲部屋の閉鎖的な雰囲気や土俵の危険性なども同様である。相撲が未だに旧態依然としている理由はこの競技が一般に普及することを前提としない観戦競技だからだ。もし相撲をもっと一般的な競技にしたければ(したくないかもしれないが)、相応の改革は必須であろう。(ついでに言うと、観戦競技としての相撲の完成度は高いと思う)

まとめ

 今回は森選手の身長問題を端緒にスポーツのフェアネスに関して考察を行った。個別の競技のフェアネスとは全く違った次元で全体論は動いており、スポーツのルールに関するメタ的な議論はエンタメ性ないしは普及可能性を基準に決められているという構造が考えられそうである。

 森選手の身長問題がなぜ問題と言えるのか。それは身長によって結果が決まる競技が不公平だからではない。それは身長の低い人間が参加の糸口すら見いだせない競技が世間に普及しないからであり、観戦者の多くが選手の身長の高さよりも技術を見たいと考えているからだ。だから身長が原因で手が届かない競技は視聴者に不快感を与えるし、問題であるといった議論が可能なのである。

 余談だが、陽キャの好む球技はかなり体格が重んじられる部類の競技である。日本人が国際試合で勝てないのはそのためだ。だから国際大会目線ではもっと違った競技に力を入れるべきなのだが、本当に陽キャは球技が好きである。思えば陽キャは身体性に価値観を置いている傾向が強い気がする。陽キャは身体的な「いじり」が好きだし、身長の高さや筋肉量にやたらと価値観を置いてそうである。彼らに言わせれば「身長も実力のうち」ということになるのだろう。

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