「学歴狂」を見て気が付いた、意外な共通点

 作家の佐川恭一氏が興味深い連載を投稿している。

 学歴狂の詩という連載なのだが、京大文学部卒の佐川氏が人生の中で出会った様々な学歴エピソードを延々と語っている。なんというか、筆者やその他のブロガーが良くしている学歴トークと良く似ているかもしれない。京大入学後にしばらく訪れた高揚感を佐川氏は「スーパー学歴タイム」と読んでいるが、本当によく分かる。ある種の現実離れした万能感と言えるだろうか。自分が自分であるという理由で全肯定されているような、特有の気分である。

 一般的な学歴厨は人間を学歴で評価したり、マウントを取ったりといった人々だろう。そういった人物が嫌われるのは当たり前である。あるいは学歴コンプから学歴への執着が生まれていることが多い。しかし、学歴狂までいくと、一般的な学歴厨のような嫌われ方をすることは減る。もはや何かのマニアのような雰囲気を帯びてくるからだ。人生を掛けたオタ活といっても良い。 学歴的なヒエラルキーを実社会のものごとに持ち込むから問題が発生するのであって、現実遊離の領域まで行けばもはや一般人には理解不能な領域となる。

 学歴狂の出身大学は東大と京大が多い。あまり違和感はないだろう。学歴狂が一橋や地方の医学部に出願することはまず無いからだ。早慶旧帝辺りが下限だろうか。それ以下になると学歴狂の素養がある人間の場合は学歴コンプを発症する可能性が濃厚である。

 他に学歴狂と言える人物はいるだろうか。筆者は間違いなく該当するだろう。大学を卒業して何年も経っているのに、未だに学歴考察を繰り返している。もちろん半端な考察では「学歴狂」とは言えないので、自分なりに精度を高めようとはしているつもりである。筆者の手元には今でも子どもの時に買ってもらって、ボロボロになるまで読み込んだ「東大合格高校盛衰史」という本がある。

 最近のインフルエンサーでは「じゅそうけん」氏などが該当するだろう。

 じゅそうけん氏を筆者は初期から追いかけていたのだが、やはり熱狂的な学歴に関する考察という点で「学歴狂」の素質はある。最近は本も出版なさっているようである。

 有名なユーチューバーとして挙げられるのがwakatteTVの高田ふーみんである。一般的に「学歴狂」といえばこの人物が頭に浮かぶ人が多いだろう。ただし、高田ふーみんの場合の過激な学歴ネタはYouTuberとしての性質も多分に入ってきている。純粋に学歴に興味があるというだけでは無さそうである。

 さて、筆者が考える学歴狂のナンバーワンは誰か。それは高田ふーみんではなく、この人物である。

 castdiceTVのコバショー氏は間違いなく「学歴狂」だろう。一般人ではあり得ないレベルで学歴の考察動画を上げている。学歴自慢とかそういった水準は遥かに凌駕している。というか、学歴が好きすぎて個別指導塾まで立ち上げてしまった。そんな人はなかなかいない。学歴考察動画の時のコバショーの屈託のない笑顔を見るに、この人は本当に学歴の話が好きなのだろう。コバショーの脳内では未だに「スーパー学歴タイム」が続いていると思われ、受験生を指導しているモチベはこの素晴らしい感覚を生徒に共有してほしいというものではないか。

 さて、コバショーは色々と筆者に遍歴が近いところがあるので、何かと興味を持ってしまうのだが、このあたりについて考えているとある共通点が浮かび上がった。学歴狂の多くは東大や京大のような難関大の出身だが、そこではない。学歴狂と思しき人物を思い浮かべていると、なぜかこれらの難関大で多くを占めるはずの中学受験組が少ないのである。

 コバショーは高校受験で開成高校に入っており、じゅそうけんは東海高校のやはり高校組である。佐川恭一も洛南高校の高校組だ。高田ふーみんは公立高校である。筆者も中学受験は未経験だ。筆者の知人を考えても、日本中の進学校を知り尽くしているようなタイプは高校受験組ばかりである。

 高学歴YouTuberには中学受験組は数多くいるが、やはり学歴狂という感じはしない。ベテランちとか、河野玄斗もそこまで学歴について熱狂的に考察するという感じではない。学歴狂の有名人で中学受験組といえば和田秀樹くらいだろうか。ドラゴン細井は良くわからないが、やはりコバショーのようなマニア性は乏しいのではないか。

 中学受験組が穏やかな人たちということだろうか。確かにそういった人はいるかもしれないが、筆者の実感としてはむしろ中学受験組の方が激しい競争社会にさらされた結果、競争心やエリート意識が強い印象である。となると、違いを生み出している要因は一体何か。

 佐川恭一の連載を見ていると、筆者と同じだなと思う。小学校の時は特に目立った取り柄は無かったが、中学校辺りでメキメキと成績が伸び、周囲から一目置かれるようになる。そこに思春期特有のモテたいという欲求が加わる。そうやって、思春期のアイデンティティの中に学歴要素が入ってきて、学歴狂へと変貌していくのである。

 中学受験の場合は親主導といったケースが多い。激しい競争社会で勝ち抜くためのモチベは、親に褒められるとか怒られるといったものが多い。自我が確立された状態で既に難関校に入ってしまうため、中学校で抜きん出ることが出来たというアイデンティティはそこまで生まれなくなる。東大等の受験は大変だろうが、その過程に関してもレールの上といった感覚が強く、学歴への妄執とはちょっと違う。

 なお、高校受験組とは言っても、地方の公立中高の出身者の一部に見られる「学歴格差ネタ」とは別種である。「地方の公立中高の優秀層が東大等に入り、有名中高一貫校の出身者と格差を感じ〜」みたいな話はここ最近のブームだ。格差社会にルサンチマンを感じている人は多いので、一般的にはこちらの方が遥かに多くの人に刺さる。しかし、学歴狂は基本的にこの辺りのネタにはあまり興味がない。「スーパー学歴タイム」の人間にとって、眼の前の高学歴が貧困層だろうが富裕層だろうが、そんなことはどうでも良いのである。

 レールの上で厳しい競争を繰り返してきたタイプは独特のシビアな世界観を持っていて、学歴に関してもプライドと虚無感の入り混じった雰囲気になりがちである。一方、「学歴狂」に学歴の話を振ると、純粋に楽しそうである。この手の強烈な自己肯定感はなかなか消えないものなのかもしれない。

 余談だが、「東大合格高校盛衰史」と打つと、「東大合格高校生水死」という大変痛ましい変換がされてしまう。東大は入ってからも面白いので、こんな半端なタイミングで死んではいけない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?