はじめてのロシア文学
一昨日、『カラマーゾフの兄弟』を読み終えた。
ジュエリーの個展を終え、少しまとまった時間が生まれたので、改めて最初から読み直してみたのだが、あまりの面白さに、頁を捲る手がとまらなかった。読んでいる途中から、感じ出でるものが多く、思わずノートにメモをしながら、読んだ。心に響くシーンも多く、たくさんの頁の耳を折りながら、驚くほどあっという間に、読み終えてしまった。
合理的になりきれない人間という存在のリアリティが、わずか三冊の中に丸ごと詰まった作品であったし、ほぼ全ての登場人物に感情移入することができた。頭ではわかっているのに、どう考えてもそうした方がいいのに、そう動けない、素直にそうできないのが人間だよな〜と、心がキュンとなってしまう物語であったし、どうしてそうしちゃうのかな、いやいやさすがにそれはダメでしょ!と、頭では分かりながらも、同じ失敗を繰り返したり、調子に乗ったり、意地を張ったり、面倒な方に惹かれてしまったり、人間の性が丸ごと描き出されていた。圧巻だった。
そして、感情移入に留まらず、物語をありありと、それはまるで実際に体験したかのように思える素晴らしい時間だった。少しアップテンポな感じもしたが、そのスピード感がまた癖になり、楽しかった。G・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』も昨年末に一気読みしたのだが、こういったある種の複雑さを持つ長編文学は、私の場合、集中して勢いで読むに尽きる。
作品や翻訳によっては、登場人物と私の心の間に何らかの距離が生まれてしまい、スッと物語に入り込めないものもあるのだが、原さんの翻訳は相性がとても良かったようで、登場人物がどんな調子で話しているか、その顔つきや声のトーン、身振り、唾が飛んでくる感じさえも、不思議と見えてくる作品だった。
読み進めれば、読み進めるほど、登場人物みんなのことが愛らしく、好きになっていった。長男ミーチャの極端な感情と行動に、初めは嫌悪感を覚えながらも、あまりのはちゃめちゃぶりに途中からあんまりにおかしくて声を出して笑ってしまい、最後はなんだか憎めない奴ってなってしまったし、理性や知性の囲いで、自分を守っている堅物な次男イワンにも、なにかこうむず痒さを感じ、無神論者である一方で、譫妄になって悪魔が見えてしまう場面では、頭が良くて合理的に思考ができる人も気の毒だよなぁ、と同情したり、三男アリョーシャはやはり、この作品の中で最も何か、特別な感情を齎す人物だった。
アリョーシャについては、こんなに魅力的な人物を生み出せるドストエフスキーは、やっぱり天才だな、と思った。
だって、きっと、誰もがみんな、アリョーシャのような優しさを自分の心の中に持っていると、思わず信じたくなってしまう人物であったし、実際、アリョーシャという鏡に照らし出される人物は、善良な自分の側面を思い出し、微かな希望を信じたい!という強い力、それは「生きたい!」という活力を取り戻す。聖人のように強く、無条件の愛を修業を経て、精神的に獲得した者でなければ、本来、人間なんてのはみんな、弱くて流されやすい性を持つ生き物だと思う。アリョーシャに触れた人は皆、自分のどこかにある、こうありたいという理想の自分、清く正しく愛に保証された強い自分を、一瞬でも、信じることができる。だから、みんなアリョーシャを好きになってしまうし、彼といると善良な自分でいれるような気持ちになってしまう。
私は、リーズが婚約者のアリョーシャを試すような場面、思春期の暴力的で恥ずかしい自分を、リーズがアリョーシャに曝して見せるところや、リーズが自傷行為をするなにか恐ろしく、激しい衝動に、人間が持っているどうしようもなく残酷で、暴力的で、破壊的な一面を見つけるし、人をめちゃくちゃにしてやりたい、という人間の業の深さや好奇心、それはアリョーシャの中にもきっと存在するものであろうが、そんな人間のどうしようもなさや、恥ずかしさに、なるせなさを感じる(私たちは、そういった人間の心の奥深くに眠る暴力的な好奇心を、文学や物語という装置のなかで追体験し、発散することで、人間社会の規律をある程度、守ってきたように思う)。
アリョーシャを前にすると、みんな心の弱さを告白してしまうのだ。ああ!なんて愛らしいやつなんだ!
他にも、イリューシャと父スネギリョフの金と人間の尊厳の話*、ゾシマ長老の回想録、四男のスメルジャコフの愛に縁のなかった人生の行方、貴族で良識のあるカーチャの複雑な心模様、グルーシェニカとアリョーシャの会話、色ボケ爺のフョードルの話、
もう、それぞれの話に引き出される感情があったし、悲しくもなり、感極まることもあった。魅力に富んだ章はたくさんあったのだが、書ききれないので、ここでは触れない。
*長男ミーチャが、理不尽に弱者のスネギリョフを吊し上げるところを、息子のイリューシャは目撃してしまう。彼はなんとか父スネギリョフの威厳を守ろうと奮闘する。イリューシャは父スネギリョフに対し、お金をもらって、この一件を解決しないでほしい、決闘を申し込んで父さんの強いところを見せつけてやってほしい!(ミーチャを成敗してほしい)と、頑なになる。しかし、スネギリョフは決闘で自分が死んだら家族が路頭に迷うことが目に見えているし、お金をもらわないと家族を養い、生きていくことすらできないことを悟っているため、次男アリョーシャから渡されたお金を一度は拒否する(このシーンは胸が震えた!)ものの、そのお金で生活を立て直す。
人間が失った尊厳を、金で解決できるわけがない。しかし実際問題、お金がなければ生きていくことが難しい社会であることも事実であり、これは、私たち人間が今なお、抱える大きなテーマのひとつだと思う。
(『カラマーゾフの兄弟』を読んでみたいと思ったのも、この番組がきっかけだった。「大審問官」の下は、キリスト教徒じゃない人には、私も含め、理解が難しいところがあるので、性格的に読み飛ばせない人は、なにか助けになる解説にあたると、随分と読みやすくなるはず。)
色々と大変なことや苦労のあったこの数年の経験を持ってして、『カラマーゾフの兄弟』は、私にある種の救いを齎してくれる作品となったことは、間違いない。もうね、文体崩しちゃうけど、他者に相談しても分かってもらえない深い悩みや、悲しみ、相談したがゆえにさらに傷つく経験(トラウマ)、何をしても癒やされずに苦しくてやるせない時、そんなどうしようもなくしんどい時期が、人生には何回か、やっぱり誰にでもあるのよ。相談する適当な人が思い浮かばない時や、誰かに救いを求めて依存してしまいそうな時、私は文学に救いを求めて、読んできた。
きっと、この本を中学生の頃の私が読んでも、登場人物の苦しみや葛藤を理解するのが難しかっただろうし、いろんなことがこの32年の人生であったからこそ、ここまでしっかりと感情移入できたことは確かであり、本当に、今のタイミングで読んで、適当だった。大好きな、大切な一冊になったし、ここには様々な愛が描かれているけれど、私がずっと求めていた愛の描写が、この物語にはあるように感じる。
ドストエフスキーは、他の作品も面白そうだから、読みたいな。
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