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ルチアがルチアとして生まれ変わる瞬間〜死の淵から自分を取り戻すまでのライフストーリー29〜

第29話 立ちはだかる壁〜介護の始まり〜

聖なる誓いを解除して間も無くのことだった。
仕事が終わって、職場のあるお台場でチューリップが見頃なので久しぶりに寄り道をしていた時だった。父からの電話だった。
母がまた買い物帰りに転倒したこと。様子がおかしいことを伝えてきた。
混乱している上に耳が遠い。会話が成立しない。私の中で、イライラと困惑、不安、動揺・・・
とりあえず今は落ち着いているとのことで様子を見ることになった。

ラスール認定にエントリーしたばかり。これからだと言う時。またか・・・
「なんで、私が大事な時にばかり邪魔をするの?」
「この1年だけは、待って!」
そう叫びたかった。
このラスール認定だけは譲れない。これ以上後回しにはできない。と言う切羽詰まった思いがあった。
そして、つい半年前にもローマ教皇が来日したタイミングで父の血液検査に異常が見られてかかりつけのお医者さんから呼び出された。心不全で肺に水が溜まって入院しなければならない。時パニックを起こして入院を拒んだため、楽しみにしていた温泉旅行(招待してもらっていた)にも参加できず、周りにも迷惑をかけてしまった。
ローマ教皇の来日ミサには参加できず、病院からの帰りの電車でYouTubeを見た時の悲しさが残っていた。
親不孝な子供だと思う人もいるだろう・・・
今までずーっと両親の意向に合わせてきた。自分の気持ちや考えは後回しにしてきた。だけど、くみくみの長期講座で自分を大事にすることを学んで、それは、誰のためにもなっていないこと。それだから鬱になったことを身をもって体験したことで感情が爆発した。
お台場の片隅のベンチに座って、仲間に共感を求めた。そうせずにはいられなかった。そんな時に共感してくれる仲間がいることのありがたさを全身で噛み締めていた。

翌朝、救急車で母は大学病院へ運ばれた。
脳梗塞だった。4〜5年前に父も脳梗塞で入院したが幸い麻痺も残らなかった。だが、今回の母の病状は、厳しいものだった。左半身麻痺が残ることは避けられなかった。寝たきり・・・介護が現実となった。いつか来ることと覚悟はしていたけれど、この1年は、待って欲しかった。
そこへ、コロナでの初の緊急事態宣言が重なった。
私の内なる課題がいくつも出てきた。

その時、ラスールになるとはそう言うことなのか。と悟った。私は試されているんだな?と。それでもやる気があるのか?覚悟はあるのか?と意思確認を求められている様に感じた。

そんな時、私を支えてくれたものがあった。
コネプラソングを作ろう!プロジェクトだった。
デイリーコヒーランスで、アメリカでマスターラスールの綾さんから、講座中、受講生のお子さんがぐずってしまった時歌を歌ったらその場が和んでとても温かい場になったことから「コネプラの歌があったらいいのにね」と話した。と言うエピソードが語られた。
その瞬間、私は手をあげて「コネプラソング作りたい!」と言っていた。自分でもびっくりしていた。今までの私ならそんなことできなかったからだ。正にハートからの行動だった。言った後に、「私、何やっちゃたんだろう・・・。作曲なんてできないのに・・・。歌は歌っていても作曲に関する知識なんて何もない。どうするこれから。」
そんな時、なんと玄さんがミュージシャンだったことが判明。そして、ゆみさん、玄さんのお友達でデイリーコヒーランスにも参加されているはじめさんと言う方がミュージシャンであることからくみくみがつないでくれた。

そこから始まった、コネプラソングを作ろう!プロジェクト。のちにソング部となる。あの時、ソング部があることでどれだけ助けられただろう?あの曲の最初の歌詞、『曇りの朝も 涙の夜も・・・』は正に私自身のことだった。玄さん、はじめさん、そしてたくさんの仲間に支えられて、沢山の人が関わってできた歌。何より、音楽知識ゼロの私では到底叶わなかった作曲、編曲、PV全てはじめさんが形にしてくださった。どう感謝しても仕切れない。コネプラソングについては、またの機会にゆっくり書いていきたいと思う。

ラスールを目指す中で様々な出来事と感情がジェットコースターの様にアップダウンしながら現実と向き合う時間。そこに、コネプラのワークを練習することで自分の課題をクリアにしていく。そんな時間を繰り返していた。

『初めにらスールありき』

その言葉の意味を理解するにはまだまだ学びが必要だった。


                         次回、最終回へ続く

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