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食事とアイデンティティ(個性・自己同一性)

南西ドイツの小さな田舎町にある我が家では、年末の大晦日には年越し蕎麦を食べ、お正月にはちょっとした日本料理を用意して日本酒と一緒に楽しむことを慣わしにしています。

日本に住んでいれば、年越し蕎麦や日本酒、お正月の日本料理を用意するのはあまり難しくないことでしょう。でもドイツの小さな田舎町では、ちょっとした日本料理の食材を用意することだって簡単なことではありません。

僕が住んでいるドイツ南西部は内陸にあり海は遠く、日本と比べるとドイツは物流があまり発達していないため、お正月で魚介類を使った日本料理を食べたいと
思っても、食材として魚を入手すること自身、容易なことではありません。

それでも我が家では、年に一度の年末年始くらいは真似事でも良いから日本料理を楽しむことにしています。

たかが食事。されど食事。

外国旅行の後、日本に帰国してすぐにお寿司屋さんや蕎麦屋さんなどの和食料理店に駆け込んだ経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。

ドイツにいるんだからドイツの食事を食べればいいじゃないか。
そうお考えの方もいると思います。

ドイツに住み始めた当初、僕もそう考えていました。
現地の生活に慣れるため、現地のものを食べる。
パン・じゃがいも・ソーセージ・ハム。。。

そんな生活を続けていたある日、知人の日本人の方がこんなことを仰っているのを聞きました。

私たちは、ごはんやお味噌汁のような和食を食べて育ってきましたから、ドイツにいても、今まで食べてきた日本の食事を食べることはどうしても必要なんですよ。

ドイツにいるんだから・ドイツに来たんだから、ドイツの食事を食べなきゃいけない。そんな風に考えていた僕は、このお話を聞いてちょっと肩の荷が降りたように感じました。

食べたいものを食べる。
ドイツにいても、どこにいても、白いごはんとお味噌汁が食べたいことがある。
そんなときは、自分で工夫して日本食を用意する。
そして楽しく食べる。

たかが食事。されど食事。

食事というのは、自分自身の存在・アイデンティティに密接に関係しています。
懐かしい家庭の味や、ふるさとや地元の独特な料理など、記憶に残っている食事や料理というものは誰にでもあるのではないでしょうか。食事というのは自分自身の由来や記憶と強い結びつきがあります。

極端に合理的や視点で食事を捉えるなら、食事を単なる栄養の摂取と考えることもできるでしょう。食事で単に栄養を摂れれば良いと考えてしまえば、サプリメントや栄養剤の摂取で食事を済ませてしまうこともできるでしょう。

僕は、食事というのは自分自身がなにものなのかを自分自身で考える良い機会なのではないか、と考えています。食事の好き嫌いも、過去の思い出や経験が由来しているのかも知れません。

食事というのは、食べてしまえば目の前から消えてしまいます。財産や資産のようにいつまでも残るものではないため、何を食べるかということは、さして大切なことだと捉えられないこともあるでしょう。

でも、僕たちの身体は、自分たちが食べたものでできています。
何をしていてもどんなことがあってもおなかは空くし、誰だって、わんこやにゃんこだって、生きているものはみんなおなかが空きます。
そしてみんな、何かを食べます。

食事というのは、自己同一性(アイデンティティ)や過去の記憶と密接に関連しているのと同時に、今を生きること・生存することにも直接関係しています。

たかが食事。されど食事。

今年の大晦日は、乾麺ながら蕎麦を茹でて年越しそばを食べました。
お正月には、パックの切り餅をフライパンで焼いて、海苔を巻いて磯部焼きを食べました。また、塩抜きして出汁に浸した数の子にかつをぶしをふりかけ、日本酒と一緒に楽しみました。

ちなみに今夜は、豚バラ肉を下茹でしてから、しょうゆと砂糖で作った煮汁でじっくりと煮て作った豚の角煮を食べました。プルプルした食感がとて美味しく、ごはんが進みました。

ここは南西ドイツの片田舎。
日常生活では100%ドイツ語だけを話し、日本語を使う機会は全くありません。ここは日本からはとてもとても遠いところだけれど、我が家の食卓にはこうして時々、日本が現れて、食卓の上だけですが、ちょっとした一時帰国を楽しんでいます。



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