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初めてその字を見たとき、書きづらそうだなと思った。



″たちばな″と読むその漢字を、何回か紙に書いてみた。



やっぱり書きづらかった。

でも、ちょっとだけ可愛く思えた。







わたしの父方の祖父は大酒飲みで、言葉も態度も、いつも破天荒だった。

喧嘩っぱやくて非常識で、尊敬できるようなところはひとつも無かった。でも、きっと根から悪い人ではないのだと、なんとなく思っていた。



テレビで流れている国会中継に野次を飛ばしていたかと思えば、「こんな奴になるんじゃねえぞ」と笑って百円を渡してきたり、祖母と喧嘩をして怒って外に出ていったのかと思えば、庭に来た野良猫に食パンを与えていた。

幼かった私たちをよく海や公園に連れて行き、気の済むまで遊ばせた。一緒になって遊ぶことこそ無かったけれど、少し離れたところに一人座り、ただ穏やかに笑っていた。

わたしを軽トラックに乗せる時は抱っこをして乗せてくれた。

友達と迷子になって夜遅くに帰った時、ものすごく怒られた。

母と父が離婚した後、誰よりも後悔し、私たちに会いたがっていた。



記憶の中の祖父は、いつもテレビの前に居た。革が剥がれて綿もぺたんこになっているソファに座り、焼酎を飲んで笑っていた。


わたしが大人になって実家を訪ねるたび、祖父はそこで眠っている時間が多くなっていった。ソファの周りには新聞や本が増えていった。国会や相撲の中継を見ていても、野次を飛ばすことも少なくなっていった。



そして三年前の夏、祖父は亡くなった。肺炎だった。



祖父について、亡くなってから初めて知ることが多かった。


子供の頃に結核を患って、生死の境を彷徨ったこと。その後遺症にずっと悩まされていたこと。
樺太で産まれたこと。疎開が始まり、養子として引き取られた後、離れ離れになった家族をずっと探していたこと。

地域の青年団の団長を務めていた祖父に一目惚れした祖母が、お見合いを根回しして結婚までこぎつけたこと。

父が産まれ、母と出会い、私たちの命へ結びついたこと。

そして、長い間探し続けた家族を見つけ出し、再会したこと。



祖父が自身の家族の行方を調べ、集め続けてきた資料の中に、数枚の写真があった。祖父の先祖であり、わたしの先祖でもある、ずっとずっと昔の人たちについて纏められた記述を写したものだった。



彼らは今の兵庫県と大阪府の境あたりから長い年月をかけて北上し、東北までやってきていた。途中で病死をした者。結婚した者。養子に出た者。まるで花火のように思い思いに広がり、そこから舞い落ちる火の粉のように各地方へ散らばっていた。

そして彼らは、″橘″という姓を名乗っていたらしかった。


全く馴染みのなかったその字が、わたしの中で急に意味をもったものになった瞬間だった。









なぜ今この話をここで書いているのかというと、″ちょっと不思議なこと″があったからです。


実は、今わたしは仕事で東海地方に来ているのですが、用事で街へ行った時にちょっとだけ迷子になりました。

地図アプリの通りに進んでいたはずなのに、曲がる角を間違ってとんでもない場所に辿り着く。そんな出来事はわたしにとってもはや通常運転のようなものなのですが、全く知らない土地ということもあってその時ばかりはかなり焦りました。


そしてようやく辿り着いた、目的地の郵便局は休みでした。そういえば日曜日じゃん!と気づいたのもその時でした。



外は酷暑。帰りのバスの時間まで約二時間。

なんでお前はいつもこうなんだ!と脳内で自分の首元を揺さぶりながら、怒りとやるせない気持ちでいっぱいになりました。


戻るのも進むのも同じくらい疲れるんだからちょっとくらいいいだろうと、誰も通る気配がないのをいいことに道端に座り込みました。


かすかに響く踏切の音と鳶の鳴き声を聞きながら、ふと思いました。


ここでの仕事が終わったらどうしようか。
ここまで来た意味あったんだろうか。
これからどこへ行こうか。


ほぼ勢いで仕事を辞めて自分の決断に自信をもてないまま、とりあえず来てしまった。そんな感じでした。まだ慣れない海の匂いと土地の空気感に、知らず知らずのうちに心細さを感じていたのかもしれません。



バスを待つより歩いて帰ったほうが早い!と意を決して歩き始めた時、歩道に埋め込まれた石畳に何かが描かれていることに気づきました。

それは地域の天然記念物の絵で、″やまとたちばな″という植物のようでした。



縁もゆかりもない土地だと思っていた場所が、だんだんと色づいていくようでした。

周りの景色は何も変わっていないように見えても、あの日の自分が、自分を創り出したすべてが今に繋がっているのだと言われているようで、嬉しくなりました。



わたしはまだ見たことがないけれど、ずっとずっと昔に生きていたわたしの先祖はどこかで本物の橘の花を見ていたのかもしれない。″追憶″という花言葉をもつその植物に自分や過去を重ねて、力をもらっていたのかもしれない。


ここでの日々も、これから先のわたしにとって力をもらえる追憶の一つになるといい。そして最期の瞬間を迎えるその時まで、この世界にあの木が残っていたらいい。自分の傍に添えてもらうのはあの木の、あの白い花がいい。自分のからだは消えてしまっても、ほんの少しだけ誰かの記憶に残れるように願って。


いやでもやっぱり実の方がいいな、美味しそうだし。そんなことを考えながら、照りつく太陽から逃げるように帰った、ある夏の日のできごと。







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