見出し画像

ヤベェやつらから逃げ出したヤベェやつの話②

私の記憶の中の母はいつも、ゴミの中に埋もれて眠っていました。


暗くて汚い部屋の中で、化粧もそのままで綺麗な格好のまま眠っている母は、なんだか人間というよりも死にかけている動物のようで、ただただ悲しかったのを覚えています。


両親が離婚して数ヶ月後、ようやく入居先が決まった私たち親子は、しばらく身を寄せていた母の実家を出てアパートでの新しい生活を始めました。
日中はレストランの厨房で調理の仕事をし、夜はホステスをしていた母と顔を合わせる頻度は以前よりも少なくなっていったのですが、それを寂しいと思うようなことは不思議とありませんでした。

三年ほど経った頃、母は知人と共にスナックを開業しました。それに伴って、徐々に家に帰ってこない日が増えていき、そのうち電気やガスが止まるようになりました。
私たちきょうだいは1番上の姉のアルバイト代で食べ物を買い、天井にぶら下げた懐中電灯の下で食べ、冷たい水で頭や体を洗い、水道も止まってしまってからは公園や駅のトイレ内の用具室にある小さな洗い場で手足や頭を洗い、そうやって人間の形をかろうじて保っていました。

しばらくそんな生活をしていた時、日に何度も知らない大人が代わる代わる訪ねてくるようになりました。
『親の姿が最近見えない』『子供が着ている服が汚れている』『出したゴミを見ると買い食いばかりしている』といったような話が近所に出回り始めていました。

あの時来ていた人たちが近所の人だったのか、その類の施設の人たちだったのか定かではありませんが、かけられる言葉は純粋に心配してのものではなく、好奇心からくるものが多い印象であったように思います。なんとか生きようと足掻いている自分たちの生活を何も知らない人たちに面白おかしく噂されていることがショックで、恥ずかしくてたまらず、初めて他人の目が怖いと感じました。

それからの私たちは、何をするにも誰かに見られているのではないかと常に気を張るようになっていきました。ゴミを出せば隣の家の人に勝手にゴミ袋を開けられ、窓を開けていれば向かいの家の人が覗きにくるようになりました。使っていた自転車や車に、知らない間に廃品回収のチラシをガムテープでベタベタに貼られることもありました。


何がおかしくて、何が普通なのかわかりませんでした。
私たちの生活が普通ではないことはわかっていましたが、それを取り巻く環境や人は果たして普通なのか、その人たちに言われることが本当に正しいのか、誰に助けを求めればいいのか、そもそも助けを求めていいのか、私たちにはわかりませんでした。



たまに、母は思い出したかのように家に帰ってくることがあって、そんな時は私たちを連れて居酒屋やファミレスに連れていったり、自分の店に呼んでおつまみ用のお菓子や簡単な料理を作って食べさせてくれました。
その頃から母には『親しい男の友達』がいて、それがいわゆる愛人なのだと察してはいたのですが、嫌だと思うことはありませんでした。彼の存在が、言葉が、母の心を支えてこの世界につなぎ止めているのだと、なんとなくそう思っていたからです。

家に帰ればまた真っ暗な部屋の中でゴミにまみれて眠らなければならないけど、母たちとご飯を食べているその時だけは『家族』でいられているように感じて、安心しました。母はまだ私たちを忘れていないのだと思えて、心から嬉しかったのです。私たちにとっては本当に数少ない、唯一の家族団欒の時間でした。


今思えば、彼女も独りで戦っていたのだと思います。

私たちをまるっきり放置するわけでもなく、かといって常に気にかけてあげるわけでもない。自分一人では育てられないと誰よりもわかっていて、かといって実家に預けたり親権を譲ることもしない。

どこまでもプライドが高く、破綻していて、無謀で、それでも『母』として生きることを捨てきれない、誰よりも人間らしい人間なのだと、少なくとも私たちだけは知っていました。


事件

母から離れて過ごす時間が増えるにつれ、私たちきょうだいはそれぞれの職場や学校で沢山の人たちに出会いました。いろいろな境遇で育った人の話を聞き、自分のことを話していくうちに、『自分たちの母』に対して違和感を抱くようになっていきました。


私が高校一年生の時のことです。
もう少しで二年生になろうとしていた頃、担任に呼び出された私は職員室に居ました。進級会議で私の名前が上がっていたのです。

私が入学してから約一年の間、授業料は一切払われておらず、学校から何度も保護者へ電話をしているが連絡がつかない状態だと、その時初めて知りました。
母はもともと私が高校に入学する前、授業料の支払い充当という名目で私名義で社協から借入をしていました。それは私自身も一緒に面談に行き説明を受けていたので把握はしていたのですが、母の口座に振り込まれた私の教育助成金は学校へは支払われず、知らぬ間にどこかへ消えていました。

何に使ったのかなんとなく見当はついていて、そしてその予想は当たっていました。
私が生まれて初めて借りたお金は私のためには一銭も使われず、自転車操業のよくわからない店の維持費と、母の生活費として形を変えてしまっていました。

後日、学校に呼び出された母がなぜかその場に愛人を連れて来たことで火に油を注ぐ状態になり、いろいろなクラスの午後の授業が潰れ自習騒ぎになりました。

なんかこの前の自習事件はあの子の親が学校に乗り込んできたかららしいよと他の生徒が話しているのを聞きながら、私は借りたくもなかった奨学金の説明を受け、今度こそ絶対に持って行かせないと強く念じて、振り込み口座欄に自分の口座番号を書いたのでした。



そんな母のもとで育った私たちが当たり前に進路を選択するようなことなどできるはずもなく、奨学金を借りて大学に進学する予定だった姉は高校卒業間際になってから資金不足を理由に母に入学辞退させられ、東京の観光会社に就職が決まった私もまた、同じような理由で内定を辞退することになりました。

『早めにお母さんから離れた方がいい』と、先生や友人はよく言いました。
施設に行けばそれなりの援助をしてもらえ、病院に行けば何かしらの名前がつく人間だと、みんなは気づいていたのだと思います。それは母だけでなく、私も。


ただ生きているだけなのに、必ずといっていいほど母のことがいつも問題になっているような気がして、自分の人生が嫌で嫌で仕方ありませんでした。
私は我慢ばかりしているのに、子ども以上に好き勝手に生きている母が憎くてたまらない。私はこんなにも恥ずかしい思いをしているのに、今ものうのうと生きているあの人が許せない。いっその事、この世界からいなくなってほしい。それが無理ならば、遠くへ行きたい。もう一生縛られないように。そう思うようになりました。


数年後、全てのライフラインが止まり家賃の支払いが滞り、ゴミ屋敷と化した私たちの『家』だった場所は、最終的に強制退去という形で無くなりました。

私たちきょうだいは姉が借りたアパートに身を寄せそれぞれ職場や学校に行き、母は自分の店に寝泊まりするようになり、親子で会うことは次第に無くなっていきました。



気づき

私が社会人になり数年が経ったある日の夕方、端末に知らない番号から着信が来ていました。母の愛人からでした。


″お母さんがくも膜下出血で倒れて救急車で運ばれた″
″目の焦点が合っておらず、話も出来ない″
″ひょっとするかもしれない″


頭が真っ白になるってまさにこれか、と思いました。
あんなにも憎くて憎くて、いっそこの手でどうにかしてやりたいさえ思っていた母が、死ぬかもしれない。

涙が溢れました。

言葉では憎いだのなんだの言っておきながら、どうあっても自分はあの人を嫌いにはなれずにいることが苦しくて、ただただ認めたくありませんでした。


病院に着くと、連絡を受けた母の親族が集まっていました。
私たちだけでなく沢山の大人がこの場に居てくれることに心から安堵した矢先、お医者さんから先に状況説明を受けていた親族から『ちょっと聞きたいんだけど』と切り出されました。


『手術するかしないか、最終的な判断はそっちで決めてくれる?私達はもうどっちにするかは心の中で決めてるけど、あくまであの人の子どもであるあなた達に決定権があると思うから』


ふざけるなと、声が出そうになりました。
同時に、母含めこの親族達への長年の違和感がようやく形となって浮き出て来たのがわかりました。

親族達とはそれまでも、たまに顔を合わせることはありました。

その度、私たちから家の状態や母のことを聞く彼らは『頭がおかしい』『信じられない』と言いつつも、具体的に何かしてくれるような素振りはありませんでした。
みんなそれぞれに自分の生活があって、他人のことを気にかけることの方が貴重で、何かをしてくれることだけが心配や応援の形ではない。彼らにとっては『心配していると言うこと』が一番の気持ちの表し方なだけで、それに多くを求めてはならないと、ずっと思っていました。


高校の時、『炊飯器で炊いた白ごはんが食べたい』と言った私に、目玉焼きを乗せたお弁当やカレーを作ってわざわざ持って来てくれた友人がいました。
『うちで採れたんだけど食べきれないからもらって』と、包丁や皿を使わずに食べれるような野菜を届けに来てくれた先生がいました。


何かをしてくれることだけが『助け』ではないけれど、本当に苦しい時に寄り添ってくれたのは誰だったのかを考えれば、そんなものはわかりきっていました。

ここにいてはいけない。心まで壊れてしまう。初めてはっきりと思いました。


母が手術をして無事退院してから、私は地元を離れることだけを考えるようになりました。資金がないことも問題ではあったのですが、それよりも大きな悩みは親族による引き留めでした。

あの人たちは世間体を気にし過ぎるところがある、と母はよく言っていて、お前は気にしなすぎだ、と思いながらも確かにそうかもと感じていました。
自分以外への関心が異常なまでに強く、自分の言うことは絶対に正しいと疑わない。そういったまっすぐな思考の人が多く、ずっとチグハグな生き方をしていた私にとっては苦手な人達でした。

″ここを出たら誰かに騙されて泣く羽目になる″
″都会は危ないからここに居なさい″
″きっとお前の母親の二の舞になる″
″ここにいれば安全″

顔を合わせればそんなことを繰り返し諭されていた頃、関東に住んでいる父方の親族から連絡が来ました。部屋が空いているから引っ越してこないかという誘いでした。私が母の影響で東京へ就職できなくなったことをずっと覚えていてくれていたのです。

チャンスだと思いました。
その運命的とも呼べる機会を得て、私は地元から、親族から、さまざまなしがらみから逃げ出しました。


(まだ続きます)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?