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No11 灯 (ともしび) 2023年7月 

“ともし火に我もむかはず ともし火も我にむかはず 己(おの)がまにまに”光厳院 北朝最初の帝である光厳天皇が、乱世に翻弄された晩年、上皇になってから詠んだ歌です。

この歌に昔初めて出会った時、天皇の歌とは思わず、作風と思惟の方向から当然近代短歌と思ったのですが、実に14世紀の半ばに作られた連作の一首なのです。光厳院が灯の中に何を見たのか、灯とあえて向き合わない自分、灯も自分を照らしているようでいて、照らしていない自分がいる姿。両者は自在であります。

普通に考えれば戦乱や権謀術数に明け暮れた結果、隠棲し今ある自分の境遇を冷静に見つめる心情の歌であろうし、何ものにも着かない、与さない、孤高の決心を静かに表した歌にも聞こえますが、私がこの歌から連想するのは、「待つ力」「耐える力」です。「灯」も「己」も客体視し、部屋の中空からその両者を見ている詠み人がいます。「得意淡然 失意泰然」という私の座右の銘にも通じる境地です。

とはいえ、人間は僅かなそして微かな灯に願いをかけ、夢や希望を抱き、救いや癒しを感じてきた存在です。人類が初めて火を道具として使うようになった50万年以上前から、我々人間は灯の原型と向き合い、その変化と軌を共にしてきたのです。スマホもTVも電気も無い時代の方が遥かに長かったのであり、日本人に限ってみても、ランプが電灯に置き換わる1880年代(明治10年代)、即ちたった140年前までは、「大いなる闇」と「ほのかな灯り」と「自分」という空間や時間とずっと暮らしてきたのであります。不思議なことに今でも例えば停電で一本の蝋燭に頼る事態になった時、或いは一本の蝋燭をケーキに立てて、他の灯りを消した時、又、キャンプファイアや薪能の焚火に対して、人間は浪漫や畏敬を感じることがあります。

私たちのDNAに刻まれた、灯への慕情は揺るぎません。 ライフシフトに臨む我々は、この関係をどのように考えたらよいのでしょうか? 内なる灯、外なる灯、導きや目標の灯を自らともすか、それとも何らかの灯を見つけるのか、どちらも重要であり目指すべきことです。しかしもっと大切な事は、聖火のように灯を繋いでいくことではないでしょうか。 世代を越えて、境を越えて!


写真は東京タワーの灯と芝増上寺のライトアップです(筆者撮影)

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