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「もったいない」という呪い

「東大生なのに学校の先生になるなんてもったいない」
「そんなに英語がしゃべれるのに日本で働くなんてもったいない」
進路に悩む大学4年生の私が、幾度となくかけられてきた言葉。

うるせえよ。私の人生に口を出すな。
苛々してそう思うことも少なくはない。

でも。でも。私だってそう思うときがある。

***

恵まれた人生を送ってきた。決して裕福とは言えないけれど経済的に安定した家庭で、教育に惜しみなくお金をかけてもらえ、いつだって家に帰ればほっとする空気があって、時に十分すぎると感じるほど愛してもらって育った。

習い事をたくさんした。器用な私はどれもそれなりにこなした。ピアノ、英語、そろばん、水泳、書道。

勉強もできた。学校で習うことは先生の話をちゃんと聞けばわかるし、テスト前に教材を読み返して理解を確認し、演習をそれなりにやっておけば、そこまで苦しまずに9~10割取れた。大学受験も、大変だったけど、勉強をすれば手応えはあったし、得意な科目は放置しても良かったし、気がつけば合格点を超える成績に安定していた。

大学も、授業を聞いてノートを取ってレポートを書けば満足のいく成績が来た。バイトもすぐに慣れた。ダンスを始めたときも筋がいいねって褒められた。留学先でもなんだかんだ言いながらとても充実した日々を送っている。

たくさんのものを持っている。適応能力があってなんでも器用にこなせるし、すごく親しい人が何人もいて、コミュニケーションも楽しく取れるし、知識も多い。

学生としては申し分ない人材。就活市場に出ればそれなりにいい内定が貰える、と思う。同期の多くはコンサルや商社、銀行などの国内外のトップ企業、官庁などに就職する(した)。


でも私は就活はしない。高校の先生になりたいと決めている。
ここで冒頭の台詞に戻る。

一流の企業に就職する学歴も能力もあるのに、それを生かさないのはもったいない。世界を股にかけて国際機関で活躍するポテンシャルまであるのに、世界のすみっこで子供のお守りをして誰にも知られずメンタルをすり減らされながら過労に耐えて人生を終えるのか?(こう言われる度に私は反抗してきた。教員を目指す自分を誇りに思っている。)

さらに、留学中にできた恋人に卒業後はモントリオールに帰ってきて自分のところにいてほしいとも言われた。

私が知る限り、モントリオールで働く日本人は、政府職(領事館とか)、ITとか技術系の専門職、パティシエなどの調理製菓系専門職、フランス語がしゃべれる一握りの事務職、その他大勢の飲食業。こっちの人と結婚してパートで働くみたいなのが圧倒的に多い、少なくとも自分の身の回りでは。教育職は、日本人の補習校があるけれど、週1回の勤務に過ぎず、できることはいろんな意味で少ない。移住して仮にそれができたとしても、週の大半はそれこそレストランで働くとかになるだろう。きっとそれでは、私のしたいことはできない。だから、留学を終えると同時にお別れすることになる。恋人も、私のその気持ちを尊重してくれる。そんな素敵な人と離れなければならない。

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ここで、ある東大院生の記事を紹介する。

常に成果を求められる日々から飛び出して単純作業を淡々とこなすことだけが求められる日々に身を浸し、心が解放され、自分を取り戻す彼女。

誰でも働けるように完成したスキームの中で、淡々とルーティンとして働くだけだ。働く中で、成長したいとか自己実現したいとか創造性を発揮したいとか、一ミリもない。
ラブホテルで働いてみて、私は他の何よりもそのことに衝撃を受けてしまった。こういうふうにも人々は生きているのか……と思った。

時田桜 (2024)

一方で彼女はその解放感に疑問も持つ。

それとも、川上未映子が言うように私が東京大学の大学院生という”豊かな観察者”の立場だから、「選択」できる立場にいるから、そう思うだけなのだろうか。

同上

いつだってラブホを辞められるし、本気を出せば修士なり博士なり取っていい職に就ける。そんな人とラブホしか働く場所がない人を比べてもいいのか?という疑問。

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「もったいない」という言葉は、日本人の美徳の好例として持ち出されることが多い。お皿に食べ物が残っていたら、その栄養が、その食べ物がお皿に乗るまでに力を尽くしたたくさんの人の頑張りが、その食べ物に宿る神様が、無駄になってしまう。それをしっかり生かし切るためにも残さずに食べましょうね。

ここで時田の記事に戻る。

ビョンチョル・ハン『疲労社会』によれば、<無為とは、能力があるのにそれを現実化せずにいられること、つまり「〜しないことができる」というより高次の能力「潜在力」を意味することもある>そうだ。

同上

ある生き方を選ぶことで、能力を現実化せずに生きることになる。でも、それは、私の能力を、スキルを、それが身につくまでの努力を、それを身につけるのに協力してくれた保護者や先生などたくさんの人の努力を、時間を、思いを、無駄にしてしまうことになるのではないか。

血の滲むような努力をしてその能力を手に入れようとする人を尻目に、既に手にしているその能力を使わずに生きることは「もったいない」のではないか。

カナダの仕事社会はすごくジョブ型だ。経験を積んでスキルを手にして、それを持って即戦力として次の仕事を得、より高い給料を得る。攻略型のゲームみたいで、自分の持っているもので勝負する姿は多くの日本人の憧れになりつつあると思う。


持っているものを余すことなく使う。それで自分にも他人にもいいものが還元される。それが当たり前の社会なんだと思う。

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留学からの帰国に向けて、いろんなモノを片付けるフェーズに入っている。

いらないモノ、使わないモノはどんどん売ったり人にあげたり捨てたりする。私のいらないモノを他の人がよりよく使ってよりよく生活できるのなら嬉しい。それに、ミニマリストって、なんだかかっこよさそうな響き。来たときよりも軽い荷物で帰れたらいいなと思ったりする。

***

「形あるモノはいずれは壊れるしなくなるけど、知識だけは生きている限りなくならない。だから勉強しましょうね。」
この言葉に納得して生きてきた。自分がたくさんのものを持つことが、自分の負担になるなんて思いもせずに。形のないものを持つということは、それを捨てられないということを意味することなんて知らずに。


まあ所詮全部傲慢な考えだ。「持てる者」の贅沢な悩み。


でも、でも。


本当にこうやって生きていいのか。23年積み重ねてきたものをもったいないままうっちゃって、次の1年を全く新しいものにする勇気が持てない。

誰かが言う。今は人生100年の時代。人生の1/4も生きていないあなたは、今から何だってできる。

そうは言われても、今の私にとってはこれまでの23年が私の人生の100%なんだよ。

***

ずっと叶えたかった夢が貴方を縛っていないだろうか?
それを諦めていいと言える勇気が少しでもあったら
本当に欲しかったものも鞄もペンも捨てよう

ヨルシカ「チノカテ」

この曲を聴く度にしんどい。全てを捨てて愛する人と暮らす決断に踏み切れない自分。教員の仕事を選ぶことにためらいを覚える自分。

それでも、「もったいない」という呪いは解けない。


まあ、そんなに簡単に解けるなら呪いではないか。


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