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身内との永遠の別れから、「生と死」「悲しみの乗り越え方」を考えた


※ここでいう「生」「死」「命」は主に人間に対してのことを指しています

今までの思考への気づき

この世に生まれてから出逢った人、世間で起こったこと、学校で学んだこと、読んだ本や観た映画・・・
すべての人、すべてのことからたくさん教わり、感じて、いつからか私は「命がこの世で一番大切なものであること」「生きていることが最大の喜びであり、究極、生きてさえいれば幸せだということ」「死ぬことが最大の悲しみであり、究極、死ぬこと以外は怖くないこと」という考えが確立していた。


思い返すと、中学生の頃には毎晩、「今日も生きさせてくれてありがとう。明日も自分が、大切な人がどうか生きていられますように」と祈り、眠りについていた。
気づけば毎年、初詣にお参りするときも、一年生きさせていただいたことへのお礼と、「今年も一年、どうか自分と、皆の命をお守りください。他のことは自分の力で頑張ります。」と願うようになっていた。


この世からいなくなってしまうことがとてつもなく悲しく、怖い。
あの世から戻って来た人はいないし、自分自身も経験したことがないから。
逆に生きてくれてさえいれば、もう会えなかったとしても、どこかで笑顔でいてくれると思うと幸せな気持ちになれる。
自分自身も、生きてさえいれば、楽しいことも辛いことも、なんでも経験できることに幸せを感じる。
そして、死ぬこと以上に怖いものはないから、そうなる可能性が高いこと以外は挑戦できる。
その点では、悪い考えではなかったと思う。


しかし、身内の死を通して気づいた。
最も不可能で、贅沢極まりないお願いをしてしまっていることを。
命ある者、生まれたからには、いつかは死ななければならない、
それはどうしても変えられない現実なのに。
私は命を大切にすること、生きることを願うことについて、はき違えていた。
現実を受け入れず、どこかで「死」の存在しない世界を願ってしまっていた。
ずっと自分と、大切な人の死によって訪れる悲しみや恐怖心から、逃げていたことに気づいた。



「生」も「死」も受け容れること(思考の変化)

もちろん「死」はとっても悲しいこと、怖いことに変わりはないけれど、皆に必ず訪れることに、それだけの思考でいることは、きっと無礼だったし、自分自身も苦しめていた。
「死」がないと素晴らしい「生」、「命」は存在しないため、それらを輝かせる要素を持っていて必ず訪れるべきであることに納得がいく。
生があるから死があるように、死があるからこそ生が存在し、生きていることが素晴らしいと思える。「生」と「死」があってこその「命」。
この世に生まれて、いつかこの世を去るという一連の流れがあるから(人間の場合)、素晴らしいたくさんの人生が実存し、ずっと繰り返されている。
それなのに、生きることについては輝く目で見つめて、一方で死ぬことについては、目を瞑るか、くすんだ色のレンズを通して見つめるだけなんて(私は、身内の死が近づいていることを知ってから、しばらく世界がこう見えてしまった)、
不自然であるし、本当の意味で生き物、人間(自分も含め)のこと、命のことを尊重できていなかったかもしれない。



「死は必ず訪れる」という現実をこの目で見て、やはり何よりも悲しいことを身をもって実感し、悲しみも受け容れた。
「生」と「死」はどちらか一方だけでは存在できないということが腑に落ちた。
そうした今、初めて、不可能なことを願うわけではなく、悲しみや恐怖心からだけでもなく、死ぬこともしっかりと見つめた上で、本当の意味で、
この世で一番大切だと思う命を大切にできるのではないか、
生きることを願えるのではないかと思う。
命のことを尊重していれば、死のない世界を願うことはない。
決して死を悲しい、怖いと思ってはいけないということではないし(どう考えても、いつまで経っても悲しいと思うし、経験したことがないことだから、ひたすら怖い)、
逆に、それだけの感情に支配されて生きることではない。
今、生きていることに幸せを感じて、感謝して、自分のことも人のことも大切にする。そしていつになるか分からない、死が訪れても後悔しないような生き方をしたいと改めて思った。


生死のはっきりとした定義は存在しない(生き物、そして国や法律、宗教、哲学によって違う)し、皆違う人生を送っているから、それぞれの考えや答えがあるべきだし、生きていくうちに変わっていくものだとも思う。
現時点の私が、こう考えただけだけれど、このように考えられたことで、くすんだ色のレンズを取ることができた。


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悲しみの乗り越え方

まず、本当に辛かったときは、一人の空間のときに、「そっか、今は悲しいよね。悲しくて当然だよ。大丈夫、誰もいないし、いっぱい泣いて良いよ。」と自分に優しく言い聞かせて、自分の気持ちと向き合って、たくさん悲しんだ。
今回のことだけでなく、経験したことのない悲しみや苦しみ、もしくは怒りなどが訪れたそのときは、本当に乗り越えられるか不安になるけれど、
自分の感情を素直に受け容れて(悲しみの場合はとことん悲しむこと)、
そして今よりも強くなりたい、前向きに生きたい、また笑いたいし、人を笑顔にできることをしたい、という想いを忘れないでいると、気づけば少しずつ落ち着いてくる。

そして、少し落ち着いたら、自分と人にプラスのことを与えることでまた心を満たしていく。

この世を去ったあとのことは、一度も経験したことがないから分からない。
もしかしたらこの世の記憶は全てなくなってしまうのかもしれない。
けれども、その人が生きていたこと、もらったもの、残された私たちは覚えているし、手にしている。
それは間違えなく事実であるから、感謝の気持ちを常に持って、もらった愛を少しづつ、人、物に与えていく。そうすることで、その人が存在していなくても感じられたり、愛情や優しさで満たされる感覚になったりする。
そうして今の私は前を向けている。

(愛や優しさを与えることは、決して大きなことではなくて、日々の小さなこと、ほんの親切ではないかと私は思う。
例えば、
・電車で席を譲る、前に歩いている人が何かを落としたら拾って届けるなど、故人と関係ないことだとしてもきっとつながっていると思うこと。
→これは主に自分以外に与える行動・・・結果自分にも返ってくるのですが♡

・生前好きだったものをお店で見つけて心が温まって、「同じように美味しいな。幸せだな。って思う人がいますように。」と願うことなど。
→想う対象は故人や、自分以外でも、心を満たすという意味では主に自分自身に与える行動かな。

例えが漠然としすぎ・・・?でもそのくらい、愛も優しさもはっきりした形はないし、大それたことではないと思う。
自分の心が満たされるものと考えたら良いのかな。
求める方ではなく、与える方を意識すると、日々の小さなことに幸せを感じられるようになるし、気づかないうちに愛や優しさをもらっていることに気づき、感謝の気持ちを持てるようになる。
これは世界平和につながることだと考えている・・・けど話がずれてきたのでまた別の記事で書きたいな。)


また、悲しみを乗り越えるための方法、そしてそれの見つけ方、課程も人それぞれであると思う。

もっとも(大きな括りで見たら、人生に優劣はないと思うけれど)、事情は本当にひとりひとり違う。
(悲しい事件など、無くさないといけないことはたくさんありますが、ここでは容易に発言できません。)
一方で、悲しみは比べるものではないと思うし、感じ方も違う。

それぞれの考え方や、宗派によっても違うし、無宗教の方だっている。
誰かに話を聞いてもらいたい人もいれば、話すことで逆に苦しくなってしまう人もいる。
そして、どんな人でも、助けは借りたとしても、悲しみを乗り越えるのは他人ではなくて、自分である。

これは「死の悲しみを乗り越えること」だけではなくて、どんなことでも、結局は自分自身が腑に落ちないと解決できない。
いろんな人が助けてくれるけれど、最終的には自分でなんとかするしかない。

そのため、私は、各々が「自分の乗り越え方はこうだから、何かがあったときは、こういう風に助けてください」って周りの人に言えるようになったら良いのかなと考えた。(そして最終的には自分で解決!)
私は言ってほしいな・・・そのためまず私が、聞いていただいたわけではないですが、申し上げます。

今の私は、本当に悲しい、苦しいときは一人でとことん悲しみ抜きたい、苦しみ抜きたい、事後報告タイプです。
人には、悲しい顔より、笑顔にしたい気持ちや、自分のことは自分で解決したい気持ちが強いです。
そして弱さを見せることに恥ずかしさ、申し訳なさみたいなものを感じてしまう、おそらく未熟な部分があります。
そのため、乗り越える前では正直に伝えられず、明るく自分を偽って、もっと苦しくなってしまいます。
それゆえ、一人の方が自分を偽らず悲しみ、苦しみ抜けて、そのうち自分なりの「前を向く方法」を見つけられて、結果的に回り道せず立ち直ることができる気がします。
もし何かあったときは、乗り越えるまでなるべくそっとしておくことで、助けていただけたらとても有り難いです。
けれども、(悲しみ等に限らず)「これは一人では乗り越えられないな・・・」と途中で思ったら、頼らせていただきます。
そのときはご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが、よろしくお願いします。


つまりこれを書いているときはもう大丈夫。
悲しいのは変わらないし涙も出るけれど、生きているという幸せな気持ちで満たされている。(悲しくて当然、とそれも受け容れているし、基本的に前向きに生きることしか頭にないような人間なので・・・)
(今回の場合は、四十九日が過ぎて、自分で気づかないうちに悲しみをばらまくこともないだろうと思ったから、私はこのタイミングだった。
でもまさにこれも人それぞれで、四十九日を過ぎないと外に向かってはいけないとは思っていないし、四十九日で完璧に乗り越えないといけないとも思っていない。)

また、乗り越える前に話してしまうから、弱い人間だと思ってしまう子が周りにいるけれど、そんなわけない。
ただ悲しみや苦難の乗り越え方が違うだけだと伝えたい。
それが苦手な私からしたら、弱さを見せられることもことも「強さ」だと思う。
(なんて言ってしまったけど強いか弱いかは一旦置いておこう。まずは解決、回復できることが最優先。)
もしも話すことで逆に苦しいのだとしたら、自分の楽な方法に変えるべきだと思う。

それから、事後報告タイプの私、後から知ってもらうことで、結果悲しませてしまう場合もある・・・それぞれ長所も短所もあるのだろう。
それでも、悲しみや苦難を乗り越えるときは(それだけではないけれど)、自分の気持ち、自分がなるべく楽でいられることを最優先させるべきだ。わたしもそうさせていただく。

そして、私の場合だと、話を聞いてもらう以外のところで、たくさん助けてもらっているわけで、この世はただただ、お互い様なだけだと常々思う。
(いつもありがとうございます。)


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こうしていろいろ偉そうに言っているけれど、
命を大切にできていなかったこと、優しさや愛を与えられなかったどころか傷つけてしまったこと、人を助けられなかったこと、上手く助けを求められなかったこと、たくさんある。気づいていないこともあるだろう。
たとえ子どもだった、未熟だったからだとしても、関係ないし、法律で罪に問われることでなくても、大きい小さいはあったとしても、ずっと背負うべきことに変わりは無い。

けれども大切なのは今であるから、うつむいて生きなくても良いと思っている。そもそも完璧な人なんていないことも知っている。間違えてしまったから反省して、学べて、考えられて、今はこの生き方をしている。それがどんな評価を受けたとしても、うつむいたりせず、受け止めるしかない。評価は、傷つけてしまった人、迷惑をかけてしまった人がしてくれるかもしれないし、もしかしたら神様がしてくれるのかもしれない。




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これまでも個人的な考えを述べていますが、
ここからはもっと個人的な話を、少しだけ失礼します。



6月の終わりに亡くなった祖父。
生まれたときからずっと一緒に暮らしてきて、私を可愛がってくれて、たくさん写真を撮ってくれた人。故郷を離れるときにお見送りをしてくれた人。帰省すると、私の顔を見ただけで笑顔になってくれた人。最期何も食べられなくなっても、私の作ったものを美味しいよと言って食べてくれた人。

自分のことを全然好きになれなかった頃も、
おじいちゃんがまっすぐ愛してくれたから、私は前向きに生きてこられた。

また一人暮らしの場所に帰るときには、「もう帰るのか。身体にだけは気をつけて。それが何よりだから。」と毎回言ってくれた。
これからも私は、自分と、周りの人の健康にだけは絶対に気をつけようと思う。

最期まで素晴らしい人生を見せてくれて、どれだけのものをもらったか分からない。
おじいちゃんのおかげで私はどれだけ幸せだったか。

私も生き抜いて、いつかこの世を去って、そしたらまたどこかで会えますように。



最後まで読んでくれた方がいらっしゃったら、
本当にありがとうございます。




《ちょっぴり不思議体験》

亡くなる前日、夢を見た。
おじいちゃんは病院のベットで「終命」「永眠」どちらかの題名の本を読んでいた。(そこは曖昧。笑)
そして私は、おじいちゃんにこれ読むか、と言って幼児向けの絵本を笑顔で薦められ、いつまで私のことを小さい子どもだと思ってるんだろう、と笑う夢だった。

(入院してから毎日のように、おじいちゃんの夢を見るようになったけれど、これきりぱたりと見なくなって、久しぶりに四十九日の日に見た)