田中美知太郎『人間であること』(文春学藝ライブラリー、2018年)を読んで。

 『人間であること』。この書名は「人間ということ」でも「人間とは何か」でもなく、やはり「人間であること」でなければならないのだと改めて思う。本質探求を旨とする科学万能の観を呈する現代世界において、本書が問いかける問題は全く古びていない。それは本書が「人間であること」の問いに貫かれているからである。本書は人間であることの探求の書であることは当然である。しかし、人間をある一つの枠組みの中に同定することを排するがゆえに「人間ということ」でも「人間とは何か」でもなく、「人間であること」でなければならなかった理由があるのである。
 本書は一見、人生論のような観を呈しているため、哲学的な論考から離れてしまうと思う読者もいるかもしれない。八つの講演録と二つの論文からなる本書は著者が折に触れて語った探求の軌跡を生き生きと再現する。軽快な語りかけで進んでいく叙述とは裏腹に、著者の綿密なテクスト読解と問いかけの深さによって読者はおのずと哲学的問題群の深部へと案内されるであろう。人間であることをめぐる問いかけを通して読者自らがどのような人間存在であるのかを確かめることになるのである。
 本書では著者の専門であるギリシア古典の引用はさることながら、近代哲学の古典であるカントやヘーゲルが今なお容易に汲み尽くし得ない問いかけを孕んだテクストとして引用されていく。その引用を通して私たちがいかにテクストと対峙しうるのかを問いかけていることがうかがえる。ギリシア古典に馴染みのない読者にとっては、プラトンやアリストテレスはともかく、随所に引かれるヘロドトスやトゥキュディデスの引用は専門に引き付けた読みなのだと思われるかもしれない。しかし、実はその引用の数々が古代ギリシア文化を決定づける意味を蔵した言葉の数々であることにその論述を通して気が付かされるであろう。さしずめギリシア古典精華集に著者ならではの解説が付された珠玉の一冊なのである。
 著者は書き言葉においては粘り強い叙述が特徴的であるのだが、本書は語ったものであるからこその律動を湛えたたぐいまれな講演集である。若松英輔氏の解説でも言及されているように「書かれざるもの」を語る著者のその語りかけをこそ私たちは聞かなければならないのであろう。著者の語りかけを通して、哲学が本来、人生と関わりのあるものであることに読者の一人一人が否応なく思い至ることであろう。繰り返し手に取る一冊である。

追記)評者は古典ギリシア語の学び直しに水谷智洋著『古典ギリシア語初歩』を用いていたのだが、ヘロドトスやトゥキュディデスが練習問題に採録されており、『古典ギリシア語初歩』は『人間であること』で引用される文章を選んだのではないかと思われるほどの選定に驚いた。しかもトゥキュディデスの戦史冒頭の、「かつて起きた出来事の中で(過去完了分詞属格、与格ではないため比較級ではない)、最も特筆に値する大きな戦いになるであろう(未来不定詞)から書き記した」という文法的な時間のゆがみが、読者にとっても現在の出来事として読み解かせようとしているのだという田中美知太郎のトインビー評を見つけたときにはぞくっとした(田中美知太郎『人間であること』文春学藝ライブラリー112頁参照。より詳しい記述が「古典学徒の信条」にも書かれている)。


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