お前はあいつらの担任の先生だ ~学校エッセイ17~

「お前はあいつらの担任の先生だ」。いつぞや流行したドラマで先生が言う決め台詞の、主語の人称を変えてある。この台詞をここで叫ぶのは私だ。そして「お前」が指し示すのも私だ。つまりもう1人の私が、生身の私にこの言葉を突きつけるのである。

「先生の言うことを聞きなさい」「先生はこう思うよ」

生徒の前で自分のことを「先生」と自称する教員を、これまでに数人見た。私が長く勤務したのは高校単独校。その光景を見て小さな違和感を感じるのは、「(もう)高校生である生徒」を「子ども扱い」している匂いがあるからであろう。そういえば生徒たちのことを「子どもたち」と言う先生もいた。

そもそも、大人と子どもの境目はどこにあるのだろう。先生と生徒の区分はシステム的には、はっきりしているけれど。

18歳が成年、20歳が成人式。でも大人は大人の都合で、「まだ子どもなんだから」「もう子どもじゃないんだから」などと言う。子ども・若人の側だって、「親なんだから、大人なんだからちゃんとしてよ」「もう子どもじゃないんだから、好きにさせて」などとうそぶく(時に、ほざく)。お互い様だ。

光源氏は現代でいう中学校1年生(小6とは敢えて言うまい)の時に元服し、高校2年生の葵上と結婚。そして嗚呼、高校3年生の時に、実父の後妻との間に子をなした。12歳で大人。18歳でオトナ。生々しい(作り話なのに何度読んでもリアルな物語よ)……。ともかく、昔は早くにおとなにならねばならなかったのだ。

古今東西、大人と子どもの定義はぼんやり。じゃあ「先生」って誰だろう。古代中国で「学問・技芸に優れた人」を「先生」と称し、それが日本で拡大発展して「学問や技芸を教える人」という意味になったともいわれる。

先生は教科を教える。そして何故だか、時に考え方や生き方も教える(教職課程に、人格を涵養する授業はなかったのに)。では生徒に対し自分が「先生」であると称する人は、自分はそれらにおいて充分に生徒を上回っている、と思い上がっているのだろうか。たぶん違う。きっと彼らは、「生徒の前で『先生』であろう」と誓い、努め、その役を務めようとしているのである。その姿勢なくして、どうして己を「先生」と呼称できようか。

考えてみれば教員は学校で、「学問や技芸に優れている人」と毎日呼称されまくり続けている。ほぼインポッシブルにも思われるミッションを、日々コンプリートすべきであるらしいのだ。「先生」は職分でもあるから、「私を先生と呼ばないでくれ」と言う(言える)教員はまずいない訳だが、自らを敢えて「先生」と自称する教員は、恐らくなけなしの覚悟や矜持を絞り出している、または「自信」がある。或いは、まだまだ幼き生徒を、大人である自分が守り導いていこう、と、年少者を愛しく思っているか(そちらもまた良きことだ)。うつくしきもの。

自分よりよっぽど学問や技芸において優秀だったり、人間ができている生徒も結構いることを考えると、自分が「先生」だなんて恥ずかしい。こう思ったことがない先生は、皆無だと思う。それでも生徒に、「先生はな(先生はね)」と冠して語りかけられる先生は立派だ。

私には、「担任の私がこう言っているんだから、ちゃんとやりなさい」と言うのがせいぜいだった。私でしかいられなかったことが、私の限界だったのかもしれない。

若い先生や、これから先生になる若い人。生徒の前で自分を「先生」と言うことで自分を律し、鼓舞してみて下さい。或いは、言えるようになって下さい。私は心の中で唱えるだけのダメ教師だったけれど。

お前はあいつらの担任の先生だ。

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