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画廊喫茶マヨヒガ:Special act レヴィアタン 〜汝は吾なり〜



『嫉妬する人は理由があるから嫉妬するんじゃありません、嫉妬深いから嫉妬するんです。嫉妬というのはひとりで種をはらんでひとりで生まれる化け物です。』

エミーリア、ウィリアム・シェイクスピア『オセロー』より



 ひと通り投稿をチェックしてリアクションとコメントを送り、女はノートパソコンを閉じた。終わった。これで見なくて済む。これでもう、あの忌々いまいましい女の投稿を読まなくてもよいのだ。心が軽くなるに違いない。軽くしなければ。

 そんな思いとは裏腹に、女はつい先程まで舐めるように貪り読んでいた「忌々しい女」の投稿した時事ニュースについて語るエッセイの内容を反芻はんすうし、咀嚼そしゃくを繰り返しては胸の内にくらい熱をたぎらせていた。頭の中にすっかり刻み込まれてしまった、あの女独特の言い回しや顔文字が終わりの無い渦を巻いて心に引っかき傷をつけ、毒を注入してゆき、いやがおうにも彼我かがの知的水準の絶望的な差を見せつけてくる。そのいつ終わるともしれない繰り返しはいつしかおのれの自尊心を握り潰してバラバラにしてしまうというのに、奇怪にも今となっては自ら望んで行う毎日の習慣ルーティーンとなってしまった。

 かと言ってその女の書くものが他者をおとしめたり、誰かを声高にそしる攻撃性に満ちるものであったりするわけではなく、もちろんいやらしいやり方で自分をそれとなく指して批判するものであるわけもない。

 非の打ち所の無い文章。短時間でまとめ書き上げる能力。他とは一線を画す洗練された目の付け所。深く広い膨大な情報量に裏打ちされたユーモアのセンス。投稿するやいなや積み上がってゆくコメントとグッドリアクションの山。それでいて自分より一回りも下のまだ20代だという若さ。くだんの投稿以外にも、気さくなコメント返しに見える気立ての良さ、突飛にも見える愉快な企画を思いつく意外性、多くのフォロワーに愛されるカリスマ性など、そのどれもがおよそSNSの物書きとして理想であった。気に入らないのはそれが自分には無いものであり、なおかつ狂おしいほど腹が立つのは、そのどれもが自分が欲して止まないものばかりであることだった。

 自分でもどうかしていると思う。どうあがいても届かない存在なのは分かりきっている。自分とてこのブログ型SNSサービスを利用し始めてから数年を数えており、それなりにフォロワーもついて仲良くしている相互フォローもいる。しかしあの女がここに参入してわずかに数ヶ月。状況は一変した。最初は活きの良い新人の女の子がいると聞いて当人のページを訪問し、親近感を覚える似たような好みの内容を、まだまだ肩に力の入った文章で書いている様子を微笑ましく思っていたはずが、段々と彼女の記事を見る目が変わっていったのだ。

 同好の士としてうまくやっていけそうなものだったのに、なぜかその新人女の書くこと全てが猛烈に気に障り始めた。辿々たどたどしく初々しい主義主張に年長者として落ち着いた意見を出すことも穏当に出来たはず。しかし文字にはしないまでも口をいて出てくるのは、

──生意気なんだよ。
──知った風なクチをききやがって……
──お前の知識、っさ。
──こんなもの、私にだって書ける。
──調子に乗るなよク〇〇ッチが!つまんねえんだよ!

 などという聞くに堪えない悪口あっこうばかり。暗い部屋の中に響く罵詈雑言はしかし、徐々に精度を上げて輝き始めた若者の才能と比例するように感じ始めた敗北感、劣等感を覆い隠すためのものであったことに気づかないほど、女は愚かでもなかった。

 新人の女はやがて彗星のごとく現れた才能の持ち主として話題となったが、同属嫌悪というものだろうか、彼女がカバーしている分野がよりにもよって自分の好きな分野と丸かぶりしており、その全てで確実に自分の知識を上回っているのみならず、その興味はさらに広範囲に向けられていることを知るに至って、胸の内に燃え盛る黒い炎熱を消すことは最早もはや不可能となった。

 同時に、女には奇妙な癖が付いた。これほど嫌っているのに、あの若い女の投稿を読むのをめることができないのだ。読むことによって得た敗北感と劣等感で自ら自尊心を傷つけるという限りなく自傷行為に近いことを止められない、と言った方がより正確だろう。違う、自分はこんな人間ではない、と女は思った。そんなはずはない、と。

 しかし容赦なく心を侵食してくる事実──優れた才能が輝くその余波を受けただけでぐらつき、沈みそうになるちっぽけなプライドしか持たぬ自分という事実──を認めたくないという気持ちは、40年の人生で培ってきた良識や常識といったものを吹き飛ばした。腹の底からの憎悪が胸に満ち、喉をさか上がり、口からあふれた。いや、口だけではない。目からも鼻からも耳からも、頭部の開口部全てからグロテスクな黒みが溢れた。その黒みは自らの内に入る情報すべてを汚濁し、昼も夜もなく、女の感じ取るものを全て自分に害なす有毒なものへと変性させ、逆に女から出てくる意思は全て、相手を侮り、軽視するものばかりとなった。

 だが、止められない。女は例の若い新人のブログ記事に常に特別なタブを付け、いつでも閲覧できる状態にし、どことなく卑屈な態度で過去記事を少しずつ盗み見た。時には過去記事にコメントすることすらした。その全てが、髪の毛一筋ほどにも思っていない激励の言葉であった。偽りの親愛を表す言葉を書き込む頻度は日々増していき、やがて女は若人が最初に書き込んだつぶやきに辿りついた。

『みなさん、はじめまして!初投稿です!これから、好きなこと、興味のあることをいっぱい投稿するので、どうぞよろしくおねがいします!』

 このクソ面白くもないつぶやきにコメントし終わると、今度は自分のコメントに返された返事を丹念に読み始めた。若者らしい向こう見ずな挑戦、甘い見通し、少し生意気な物言い。しかしそのどれもが未来への希望とコメントをしてくれたことへの感謝に満ち、眩しく見えるものばかりだった。

 折り返すように初回から読み始めたコメント返しを全て読み終えた時、女は新しい記事がアップされているのを見て取り、それを読んだ。そこに書かれたものを読み終えた後、女は嘔吐した。

 長い、長い嘔吐だった。吐瀉物を撒き散らしながら便所まで這いずって行き、便器に顔を突っ込んで吐いた。吐き出すものが胃液しかなくなり、胃酸が喉を焼いてもなお、吐き気は収まらなかった。読んだ記事には、全ての記事を読んで、全ての記事にコメントした自分に感謝する内容が綴られており、あまつさえ自分を尊敬する先輩として紹介し、自分のページへのリンクまでご丁寧に貼られていた。

 何に対しての吐き気なのか。心の片隅でこちらに顔を向けている事実を、女は認めたくなかった。意地でも認めたくなかった。その事実がどんな顔をしているのかを見てしまえば、立ち直れないほど決定的に打ちのめされるかもしれない。それが怖かったし、怖がっていることを認めたくもなかった。

───クソッ! クソッ! ク……ゥエエッ!……ゾッ! クソッ! グゾッ! 

 女は吼えては吐き、吐いては吼えた。

───グゾッ、なんで!なんでなんだよ!なんで!オマエは!私にできないことができるんだよッ!ウブ……!
───私の方がッ!フォロワー多かったのに!
───私の方がッッッ!リアクションたくさんもらえてたのにッ!
───ヴェ……エ……オマエなんかが……!
───なんで!オマエなんかが!私より評価されるんだよォッ!!!

 固く握りしめて振り上げた拳を便所の不衛生な床に叩きつける。ゴシッ、ゴシッ、ゴシッ、と、肉が潰れて骨が打ち付けられる嫌な音が開け放たれたままの便所の扉から飛び出してくる。嘔吐えづく音と呪詛の声と破滅的な打撃音とは止むことがない。

 最新の投稿──そのコメント欄は、記事の主と、そして自分に向けられた賞賛の言葉に満ちていた。その中には、自分がブログを始めた頃から付き合いのある相互フォロワーたちがたくさんいた。自分だけに温かい言葉をくれていると思っていた人たち。自分とだけ仲良くしてくれていると思っていた人たち。その人たちが、てのひらを返したように、自分から乗り換えたように、どこの誰とも知れぬ若い女を褒め称えている。

 やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。
 私のことを書くな。
 私を添え物みたいに書くな。
 私を脇役みたいに書くな。
 私を過去のものみたいに書くな。
 私の方が、……わた……わ、私のほうが……

 えた臭いにせながら、女は泣いた。

───なんでもできるんなら、こっちに来ないでよォ……
───私の知らない所でやってよォ……
───わたしのともだち、盗らないでよォ……
───わたしの、い、居場所……わたしの、いるところが、なくなっちゃ……

 突っ伏して泣いていた女は突如、人間の喉から発せられたとは到底思えない咆哮を上げ、大声が遠慮なく反響する便器に苛立ち、便器の内側に激突するのも構わずに吼えながら頭を振り回した。5度、6度と、鈍い音が響いた。

 便器の底に溜まった水が赤い色をしていることに気が付くと、ようやく暴れるのを止め、女は水の滴る髪を振り乱し、湿気た干物みたいな体を持ち上げた。顎をぶつけた拍子に切ったのか、口中に鉄臭い味が充満している。頭を下げたままあまりにも長い時間吐き続け、また叫び続けたせいだろう、噴き出した鼻血が止まらずに脳の奥が痺れている。頬を伝って足の甲に滴る感覚がするのは、涙だろうか。凄惨な姿となり、女は動く死体のように便所からよろめき出ると、洗面所の鏡に映る自分の顔を見た。鏡の中で、どこか他人事のようにぼんやりと自分を見つめるその目から幾筋も流れ続けているのは、涙ではなく、生々しい血液だった。

 それ以来、女の生活は変わった。あれほど一生懸命にやっていた毎日のSNSへの投稿も滞るようになり、それまで交流していたフォロワーたちとも段々と疎遠になっていき、たまに当たり障りのないやりとりをするに留まった。だが、女はSNSの閲覧を止めたわけではなかった。相変わらず塗炭の苦しみの発端となった若い女の投稿を読み続け、これで見なくて済むと独りちた直後に内容を繰り返し脳内で反芻し、憎しみと焦燥感と敗北感の中で暮らすことを常とした。それでありながら、彼女の投稿に対しては親密な間柄を感じさせるコメントを欠かさず、一番の理解者である風を装っていたのである。

 そのような歪んだ精神の影響が私生活に及ばぬわけもなく、女の同僚は、顔の右半分と左半分で交互に笑う女の様子に恐怖し、また不意に涙が止まらなくなり、トイレに駆け込む姿を見ては気の毒そうな、しかし見てはいけないものを見てしまった顔をして目を反らした。年老いた父母は、平静を装って会話する娘を見ていられなくなり、心療内科の受診を勧めたが、女はこれを断固として拒否した。そんなことをすれば、きっとネット環境から遮断されてしまう。そうしたら、あのクソ女の書くものを見られなくなってしまうではないか。

 女の妄執はさらにその度合いを強め、注目を集め続ける例の若い女の正体を探ろうとしたことが一度ならずあった。頻繁に画像をアップしているが、被写体の反射も含めて自分が写ったものは一枚も無い。動画を上げる場合は必ず合成音声を用いている。オフ会を開催しても、参加したことは一度も無い。実在が疑わしい、そう思ったことは何度もあった。こいつはもしかするともっと、ずっと年嵩としかさの人間かもしれない。そいつが若い女のフリをしているのかもしれない。いや、たとえそうであるにしても、その知識は、質においても、量においても、広範さにおいても、やはりひとりの人間が持ちうるそれを遥かに凌駕しているように思えてならない。
 では、この女……いや、このアカウントは、複数人のスペシャリストが共同で運用しているとしたらどうだ。だとしたら、これほどの量と質を維持できるのも納得できる。現にそういったスタイルで運用しているところは、公開しているにしろ非公開にしろ、他にもある。
 それでもまだ、女の胸には一抹の疑念があった。今まで、彼女の全ての投稿を暗記するほど読み続け、自分の心を自ら抉ってきた自分だからこそ、複数人説を完全には信じきれない点が一つだけあった。

 根底に流れる魂が全く同一なのだ。

 どんなに似せようとしても、他人同士が一つの人格を演じるのに完全はあり得ない。多少はブレというか、細かいところで差異が出るはずなのだ。他の者ならいざ知らず、投稿内容を一言半句違わずに憶えている自分がそこに気が付かないはずがない。何人かのブレーンがいて、ひとりがそれを文章化しているのだとしても同じことだ。いくら取り繕おうとも、自分ならその背後にあるものを必ず感じとれるはず。だが、どの投稿を読んでも、感じられる魂は常にひとつであると確信できる。病んだ女の奇妙な自信は、それゆえにさらなる迷いを招いていた。

 何の因果か、ちょうどそのあたりのタイミングで、共通のフォロワーから「注目の○○さんとお会いしました!」という、例の若い女性投稿者と実際に会ったという内容の記事が投稿された。満面の笑みを浮かべるそのフォロワーの横にいたのは、顔こそ写っていないものの、手肌のハリ・ツヤから見て、確かに若い女性であることが見て取れる人物だった。

 その投稿を読み終わって、女はしばらく動かなかった。PCデスクの上からずるり、ずるりと両手が膝の上に落ちても、瞬きもせずに画面を見つめたままだった。画面から空間に滲み出るような青白い光が、落ちくぼんだ目や、浮き上がった頬骨を弱々しく照らす中、女は呼吸すらも忘れ果てていた。

 こいつはいったい、なんなんだ。
 なにがなんだか、わからない。
 もう、どうでもいい。
 どうにでもなれ。




~10年後~




 ジャズアレンジされた沖縄テイストの音楽。
 ギターが奏でるゆったりとした音色。
 天井から吊り下げられたファンがゆったりと回る、南国風味の内装が落ち着いた雰囲気を演出するお洒落な店に、現在では美術ライターという肩書を持ち、50歳となった女がいた。
 辺りはとっぷりと日が暮れ、昼間の熱気そのままに、真夏の夜の夢はこれからだといわんばかりの喧騒が盛り上がろうとしている。
 そんな喧噪を逃れようとして偶然見つけたのが、表通りから離れた小さな路地裏にあるこの店だった。「Gallery Cafe Meiga」と流麗な書体で書かれた小さな看板を出しているこの店は、ガラスの扉越しに見るに、どうやらマスターとウェイトレスの2人で切り盛りしているらしく、先客も女性ひとりしかいないようだ。

 年代物のガラス扉を押し開けて入ると、扉に付けられていたチャイムが琉球音階で客の来訪を知らせ、内向きに跳ねたくせ毛のウェイトレスが元気よく反応した。

「はいたーい!いらっしゃいませーこんばんはー!」
「おひとりさまですかぁー?」

 元気な、それでいてなんとなく間延びしたウェイトレスの声は、女を思わず笑顔にした。雰囲気の良さそうな店だ、と思った女は、ええ、ひとりで、と言い、好きな場所に座るよう勧められると、カウンター席の端に腰を下ろした。反対側の端には店の外から見えていた健康的な褐色の女性が腰かけており、長い脚を組んで爪弾くギターの調子をわずかに変え、輝くような赤銅色の短髪を揺らして微笑んだ。粋なあいさつだ、と女は思った。宝塚歌劇団の男役と見紛うばかりの大変な麗人で、客なのか、店のアーティストなのかよく分からないが、すぐそばに古酒クースーの大がめが置いてあり、時折手酌でっているのを見ると、おそらく客なのだろう。

「いらっしゃい、ようこそ。」

 赤髪の麗人に見とれていた女に背後から野太い、しかし優しそうな声がかけられる。振り返って見れば、腹の出た中肉中背の中年男が、手拭いで手を拭きながらニコニコしていた。いかにも南国風のアロハシャツとハーフパンツというラフな格好なのだが、酔狂にもその丸い顔はヴェネツィアのカーニバルで見られるような銀色のハーフマスクで半ば隠されており、沖縄のバンド「BIGIN」のボーカルよろしく白と黒の市松模様のハンチング帽をかぶっている。男は仮面の下の目を細めて人懐っこい笑顔を見せた。

「ウチは見ての通りのギャラリーカフェでしてね。今は、清世さんっていう日本画家の特集をしてるんですよ。よかったら、自由に見てってください。注文は、決まったら私か、ウェイトレスの酎ってやつに。」
「なあに、これまた見ての通り、他にお客さんなんていないんでね。のんびりくつろいでってください。」

 カウンターの端の麗人から、堪えた笑いをはらんだ、低くよく通る抗議の声が上がった。

「ちょっと。常連の私をなんだと思ってるんだい?」

「んん?ああ、いつもそこにいるから、そういう形のジュークボックスかと思ったよ。こりゃあ失礼。」

 ははは、と笑いあうその様子をほほえましく眺め、二人とも声優か舞台役者みたいにいい声をしているな、と思いながら、ウェイトレスから受け取ったお冷やのワーラーwaterを持ち、女は今しがた座ったばかりのカウンター席を立って、店の中にかけられている絵を見に行った。額に収められた絵画を幾つも掛けた店内は、沖縄の樹々やグスクの石垣をイメージしたどっしりと落ち着いた佇まいでありながら、なおかつちゃんとしたライティングレールを備えるなどした、思いのほか本格的なギャラリーだった。騒がしいのを嫌ってなんとなく入った店だったが、仕事柄、ギャラリーカフェ、そして名画という響きにつられて入ったところもある。どうやら大当たりだったようだ。

 清世という名の、壁や柱に掛けられている作品の作者は確かな腕前の持ち主と見えた。日本画と聞いて想像するものの既成概念をことごとく打ち砕くようなそれらは、上辺だけの綺麗さを訴えたり、まして単に奇をてらったりしたものではなかった。実験的な試みあり、抽象を具現化したものあり、オーソドックスなポートレートありとバラエティに富んでおり、そしてそのどれからも感じられるのは、静謐な祈りにも似た感情──人と人との間に思いが伝わることへの願い──といった感情だった。

 これは、有望株だ。そう考えながら歩いていたその時、


 ───……ッ!?


 女は一枚の絵の前で息を呑み、立ちすくんだ。







 深い青緑色の背景に描かれた女の子の肖像。つややかな黒髪を持つ、端正な顔立ちのその女の子はしかし、人工的な色をした不自然な肌の下から、爬虫類のごとく縦に裂けた瞳孔を持つ不気味な緑色の目をこちらに向け、口の端を持ち上げて薄く笑っている。

 吹き出す脂汗。真夏の沖縄の熱帯夜も、全身に立つ鳥肌と寒気を抑えてはくれなかった。女は思わず顔を背け、後ずさってよろめいた。

「気に入った作品は、購入することもできるんですよ、まあ、もちろん、押し売りとかはしませんのでね、どうぞご安心なさっ……」
「……って、どうしました、お客さん?顔色悪いですよ?」

 冷水の入った銀のポットを持って近づいてきた沖縄テイストあふれるマスターが、女の異変に気づいたようだった。彼は女が見ていた絵を一瞥するや、ため息をついた。

「ははあ、『レヴィアタン』。またこの絵か。」

───レヴィ……また……?

「そうなんですよ。この作家さんの絵ってなぁ、どれも、見る人に強烈に働きかけるものが多いって、もっぱらの噂でしてね。」
「特にこの作品、『レヴィアタン』は、たまに、お客さんみたいにショックを受けて体調をくずしちゃう人もいるんでさぁ。まま、とりあえず座りましょうか。」

───そう、……そうなのね。ごめんなさい、取り乱したりして。すみません。


 絵の影響力。それにしては。


 手近な椅子に腰を下ろした女の脳裏には、もう何年も前に克服したはずの暗い記憶が一気にフラッシュバックしていた。羨望。嫉妬。憎悪。劣等感。敗北感。焦燥感。無駄なプライド。無駄なあがき。ボロボロになるほどの心身の不調。それらを覆い隠すためにつけた蝋人形のような偽りの笑顔、そこまでしても止めることのできない狂気が漏れ出す視線。

 震えが止まらない。周囲の色があせていき、自分だけが取り残される印象がまとわりつく。

 あれはまるで自画像だ。あの頃の自分の自画像。少しも笑っていない目。他人を羨みながらも見下し、記号でしかない上げた口角の下に嫉妬を隠した顔。長いあいだ格闘して、ようやく折り合いをつけることができた、かつての自分。今、こんな所で、こんな形で思い出させられるとは夢にも思わなかった。


 低く、美しいギターの音色が、舞った。

 色は瞬時に戻った。いや、先ほどまでよりも鮮やかにすら思えた。


「心に刺さったとげは、酒の肴として飲み下してしまうのが一番さ。形の無い不安なら、形を与えてしまえばいい。」

 赤銅色の髪をした麗人が、慈しみに満ちた目を向けている。

「こうして出会ったのも何かの縁というもの。回し飲みオトーリでもないけど、共に酒を酌み交わして、身の上を語り合うのも旅の一興、」
「……伴奏つきでね。」

 褐色の麗人の爪弾く弦の音色は優しく、力強く、パニックに陥りかけていた女の心をこの上もない安心感で支えた。マスターはまだ注文してもいない大皿の料理を次から次へと持ってきてはカウンターに並べている。ウェイトレスは、麗人の脇に置かれた大がめから酒を汲み出し、それを大地の生命力を思わせるモスグリーンに染められた琉球ガラスの小さな酒器に注ぐと、女に差し出した。

 ほうっ、と深呼吸した息をつく。そうね、そうよね。私はもうあのころの私じゃない。大丈夫。大丈夫。誰も知らない遠い土地だし。いっそ盛大に愚痴ってもいいかも。

 女は、美しい酒器を両手で受け取った。

 えも言われぬ芳醇な香り。

 強い酒を、ちびり。口に広がるどっしりとした味を、ごくり、飲み込む。

 かっと喉の奥が熱くなる感覚。地から湧き出し、年経りた甘露とはかくのごとしものか。もう二度とほどけないようにときつく結ばれた古い記憶が、不思議なほどに優しく、やわらかく、ほころぶような味がする。

 勧められるまま、酔いに任せるままに、女はかつて抱えていた苦しみを──過去の自分がもがいていた時の記憶を、ぽつらぽつらと語り始めた。






───……もう、どうでもいい。どうにでもなれ、ってね。そう思ったのよ。

───それで、どうしたのかって?んー、まあ、ここにこうやっているからには、なんとかかんとか、やってこれたってことよね。

───なんだか、気が抜けちゃった、というか。何日か抜け殻みたいになって、そのSNSもしばらくやめちゃったのよね、そのときからしばらくは。

───……でも、転機になったのは、やっぱりその人の投稿だった。ううん、投稿じゃない。コメント。それも、私じゃなくて、他の人にあててのコメントだったの。

───私のやってたSNSって、ツイッターとかと違って、フォロワーの誰が誰にコメントしたとか、リアクションしたとかは表示されないものだったのよ。もし、その機能があったら、あの時の私はもっと悲惨なことになってたわね、きっと。自分のフォロワーが私以外の誰をほめているのか、丸わかりになっちゃうんだから。今思えば、最悪ね、私って。自分だけを見て、自分だけをほめて、って。

───だから偶然、見つけたの。その人のコメント。あ、おかわりね?ありがと。それで、最初は、どんな人にコメントを送ってるのか探ろうとしたのよ。

───最初は、あの人のフォローしている人をあたってみたの。でも、結果は意外だった。そんなにコメントをしている風じゃあなかったのよ。今度は、彼女のフォロワーを調べてみたわ。その頃にはもう、彼女のフォロワーは千人以上いたから、骨の折れる作業だったわ。でも、結果は同じことだった。そんなにコメントしていない。でも、全てしらみつぶしに調べたら、別のことが浮かび上がってきたのよ。

───多くコメントしている相手と、そうでない相手がいる。つまりコメントする相手を選んでいる、なんていやらしいやつだ!って、ええ、その時はそうとしか思えなかったわ。ほんとに考え方が歪んでいたの、そんな風にしか受け取れなかったのよ。でも、よく見てみて、気が付いたの。

───人気があって、コメントがたくさんある人のところには、ほとんどコメントしていない。反対に、フォロワーが少なかったり、始めたばかりの人のところには毎回のようにコメントしてる。こいつ、初心者を囲い込もうとしている、自分のファンを増やそうとしている。そう思ってた。

───でも、読んでいくうちにだんだんとわかってきたの。彼女にはそんな気持ちは一切なかった。自分の利益になるように誘導するものなんてひとつもなかった。力になり、勇気づけ、寄り添うものばかりだった。彼女のコメントからは、愛しか感じられなかった。私、必死になって粗を探したわ。そんなはずはない、必ずどこかで欲をかくはずだって。こんな人間がいていいわけがない、与えるだけで見返りを求めない人間なんているはずがないって、ね。

───……そうしているうちに、私はいつのまにか泣いてた。でも、それは今までの、嫉妬にまみれた悔し涙じゃなかった。与え続けられる彼女の強さに、彼女の愛の深さに、心から打たれてた。

───私はあの子の何を知っていたんだろう……才能。人気。そんなものばかりと自分を比べてばかりで、一番大切なこと──自分が何をやりたくてこの世界に入ったのかも見失って、ひとりでのたうち回ってたのよ。

───今ならわかる。今の私ならできるって言える。あの子のなしたことは、決して不可能なことじゃない。人間、試行錯誤とか、七転び八起きとかして、努力の方法をいろいろと試して、その努力が自分にバッチリあったものなら、年齢なんか関係なく成長できるんだって。

───私、あの時、あの子に会えて良かった。あの時、傷ついて、苦しんで良かったと思う。でないと、きっと死ぬまで、つまらないプライドを抱えたまま、他人を羨んでばかりで成長もしなかったでしょう。他人を見下して、くだらない自己満足に浸っていたでしょう。この歳になってさえ、去年の自分は未熟者だったなぁーって思うんだもの。あの時の自分のまま一生を終えたかもしれないと思うと、それこそゾッとするわ。

───あの時を経験したからこそ、好きな美術を勉強しなおして、彼女の博識に少しでも追いつこうと思って努力したから、今のお仕事をしている私がいるの。本当に感謝してるわ。本当に、お礼が言いたい。

───ふあぁ……あら、ごめんなさい。もうこんな時間なのね。眠くなってくるわけだわ。ありがとうね、こんなおばちゃんの自分語りを聞いてもらっちゃって。でも、おかげですっきりしたわ。もう、あの絵を見てもショックを受けたりしないから、大丈夫。ありがとう。






「いやはや、なんとも数奇なお話ですなあ。」

 BIGINリスペクトのマスターは空になったグラスを下げ、丸い顎をつるりと撫でてみせた。ウェイトレスは話の途中で、おつかれさまでーす、ごゆっくりー、と言って帰っていった。時計はすでに午前0時を回っている。

「成長に年齢などは関係ない。けだし名言ですなあ。」
「しかし、失礼ながら、何かまだ、心残りがあるようにも見えますな。今は、その方とは、どうなんですか。交流は続けてらっしゃる?」

 女は寂しそうに笑い、首を振った。

───それがね、もうあの人の投稿を読むことはできないの。私が、なんとかかんとか、自分で自分の人生をやり直すことができてしばらくした時、あの子は引退宣言を出して、SNSからいなくなったの。みんな彼女を惜しんでたわ。そりゃ、そうよね。あれほどの才能を持っていれば、SNSだけじゃなく、多くのジャンルで活躍できるクリエイターになったでしょうに。でも、これで役目は終わった、帰る、って言って。いなくなったわ。きれいさっぱりね。

───心残りがあるとすれば、そう……彼女に直接会って、お礼が言いたかった、ということね。もう、彼女の正体が誰かなんて、どうでもいい。ずっと年上の人生の先輩でも、素敵なチームでも、そんなのは些細なことよ。あの時、あなたにそんなつもりはもちろん無かったでしょう。けど、あなたは、私を救ってくれたのよ、ありがとう、って、言いたい。もし、あの頃に戻れたなら。あの子が書く場に居合わせることができたなら。一言、お礼を言いたいわね……

 最後の小節を弾き終え、褐色の麗人はにこやかに笑って言った。

「その想いが、叶う夢。見られるといいね。」


 夜は更け、女はマスターと麗人に丁重にお礼を述べて店を後にした。あれだけ飲み食いしたというのに、お代は驚くべき安さだった。
 少し飲み過ぎたようで、若干、足元がおぼつかない。
 真夜中だというのに街はまだまだ活気に溢れている。流行り病や第三次世界大戦の危機を乗り越え、世界は安寧を享受している。
 しみじみ、平和はありがたい。そう思いつつ、女は宿に帰りつき、意識のあるうちにシャワーを浴びてメイクを落とすと、ベッドに倒れこんだ。明日は、修復完了した首里城の完全復興レポートを書くために朝早く出なければならない。早く寝なければ……






 翌朝、飲み過ぎでむくんだ顔と二日酔いの頭を抱えたまま首里城に訪れた女は、自分の見ているものが信じられなかった。

 首里城が、無い。

 否、無いのではない。まだ修理の途中なのだ。

 いったい、自分は何を見ているのか。修復自体は数年前に完了しているはずだ。今回訪れたのは、周辺も含めた完全復興の様子を記事にするためであり、昨日、自分の目で確認するために下見にも訪れている。こんなことがあるはずがない。何が起こった。
 道行く人々に目をやった。みな、マスクをしている。スマートフォンに目をやった。ニュースでは、新型コロナウイルスの感染者数を報じる記事とロシアによるウクライナ侵攻の記事が立て続けに流れている。
 そのまま、震える手でスマートフォンを操作し、カレンダーのアイコンを押した。そして、絶句した。10年前の日付。世界が未だ混迷から抜け出せずにいた、あの頃。しかし、女が絶句した理由は単に時間が巻き戻ったからではなかった。

 忘れようはずもない。

 暗記するほど読んだ、あの女の子の記念すべき初投稿の日。

 女の脳裏に、昨夜ギャラリーカフェにいた、ギターを弾く褐色の常連客が最後に何気なく発した言葉が閃く。

 では、これは夢なのか。こんな生々しい夢があるのか。いや、そんなことはもうどうでもいい。考えるな。夢でもなんでも、あの子にお礼を伝えるチャンスが与えられたのだ。彼女の初投稿を待って、すぐにコメントを入れる。何とか信頼を勝ち得て、実際に会ってお礼を伝えたい。それが無理でも、何とかして感謝の気持ちを伝えたい。

 投稿時刻も分かっている。今日の正午だ。あと数時間で、初めての投稿をする子が、デビューする。

 女はれた。どんな言葉を贈ろうか、考えに考え抜いた。自分の身に起きていることの異常さにおののきつつも、胸に高鳴るのは、この機会を逃してはならないという熱い思いだった。

 正午が近づいてくる。最初の投稿は、ごく短いつぶやきでしかない。女の興奮と期待は最高潮に達した。自分の救い主が、あと数秒でこの世界に産声を上げるのだ。両手を広げて出迎えたい気分だった。

 あと10秒。8、7、6、5、4、3、2、1、



───………………!?



 投稿されない。



 何度もタブを再読み込みし、いろいろなタグを試してもみたが、それらしき投稿はなされていない。

 なんで……!?

 女はスマートフォンを両手で握って調べてみた。あの子のアカウントそのものが、開設されていない。刻一刻と、時間だけが過ぎていく。期待の新人になるはずの女の子は、現れない。なんで……どうして?女は混乱した。じゃあ、なんで、私はこの夢を……このままじゃ、この時代の私が……

 その時、とてつもない衝撃が女の脳を貫いた。震える手でスマートフォンを操作し、新しいアカウントの開設手続きをする。忘れるはずもないドメイン名とユーザー名を入力してゆく。すべての申請を終え、投稿をつぶやきに設定して、短い、文章とも呼べないものを作成し、わななく指で送信ボタンを押した。


『みなさん、はじめまして!初投稿です!これから、好きなこと、興味のあることをいっぱい投稿するので、どうぞよろしくおねがいします!』


 息をするのも忘れて画面を見ていると、やがて初めてのリアクションと、そしてコメントがついた。まぎれもなく、あの子の初投稿についたコメントと同じものだった。

 マスクをせずに雑踏の中にたたずむ中年の女を白い目で見る人々が往来する中、女はゆっくりと腕を下ろした。そうか。そういうことだったんだ。

 ようやくわかった。
 なぜ、好みが似通っていたのか。
 なぜ、全ての分野で自分を上回っていたのか。
 なぜ、自分が欲しいものを全て手に入れていたのか。

 新しい命を運んでくる暖かい空気が、大きく息を吸い込んだ胸に満ち、見上げた春の太陽が流れる雲に見え隠れする。


 私の救い主は、私だった。


 一人の人間には不可能だと思っていた博識さも、大勢が関わっているとすら思えた多彩さも、全て、あの日からの自分の努力が成し得たものだった。あの子を素直に尊敬し、自分がいかに小さな存在であるかを認め、持たざる者として泣いた日から。心の片隅でこちらを見ていた事実に、正面から向き合った日から。

 当時の女が内なる事実の顔を見ることをかたくなに拒んでいたのは、その顔が鏡で出来ており、そこに映る自分がどんな表情をしているかを恐れたからだった。
 嫉妬に苦しむ苦悶の顔。
 相手を呪う邪悪な顔。
 他人ひとより劣る敗者の顔。
 そんなものを一度でも直視したが最後、すでにボロ布のプライドはバラバラに引き裂かれ、二度と立ち直れなくなる、そう思っていた。
 しかし、真なる利他の愛に触れて涙を流した後、意を決して恐る恐る振り返って見た事実の顔に映っていたのは、意外にも、解放という名の安堵に包まれた穏やかな顔だった。


 緑が萌える龍潭池のほとりを歩き、あちこちで開いた花の香りを楽しみながら、女は思った。あと何日かすれば、「私」が、私の記事を読みに来る。ほどなくして嫉妬に狂うことになる、この時代の「私」が。

 女は、ギャラリーカフェで見た、清世という画家の描いたあの絵のことを思い出していた。レヴィアタン……緑色の瞳をした、人の形をした怪物。甘い言葉の下に狂おしい嫉妬を隠して薄笑いを浮かべる、かつての私。その怪物を、これから私は救うんだ。

 ……ちょっと!28歳ですって?よくもまあ、演技してきたものね。今度は演技することになるのね、私が。


 大丈夫。
 私ならできる。
 私だからできたんだ。
 別の立ち位置から、まっすぐ「自分」を見つめよう。
「自分」がどんな目で見返してこようとも。

 




 来たれ、怪物よ。

 なれは、われなり。





こうなるのもああなるのも自分次第。
俺たちの体が庭なら、その庭師は自分の意志だ。

イアーゴ、ウィリアム・シェイクスピア『オセロー』より





※この作品はフィクションです。特定の個人や団体をモデルにしたものではありません。

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