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腐る女

 その電話を切ってすぐ、杏は砂粒ほども罪悪感を持たずにパソコンを閉じてフロアを出た。
 昼休み中の仕事仲間はみな、スマフォと格闘するのに忙しい。1階に降りてタイムカード脇に備えつけられたホワイトボードに「外回り」と記入し、そこから駅に向かい、構内で新幹線切符を購入し改札を通った。

 仕事を抜け出して東京に行く。
 外は雪だ。
 関東平野の腹を撫でるように滑走する文明の利器から外を見やれば、まるで雪風巻の中にいるのではないかと錯覚するほど、瞬時に雪は流れていく。
 そうよ、そうよ、もっと急いで。はやる気持ちで杏は心の声援を送る。おそらく、間に合うはずだ。
 視点を車窓に合わせると、今度はうっすら映っている白い自分の顔と目が合う。さっき階段を走って昇ったためか、化粧に皮脂が浮かびテカテカと光っている。久しぶりの東京だ。慌てて新幹線に飛び乗ったとはいえ、彼にとって私は太客なんだから、ダサい顔でいけるはずはない。
 杏はハンカチで優しく皮脂を取り、ピンクのグロスを盛大に塗った。

 すると、スマフォが点灯した。
 『仙國杏様 先ほどはお電話ありがとうございました。確認いたしましたところ、やはり、お取り置きはいたしかねるとのことです。申し訳ございません』
 杓子定規に書かれたメールを一読し、杏は安堵するような、チッっと舌打ちをかましたいような、複雑な心境になった。

 2月11日。愛する彼が、日本屈指のアパレルデザイナーの目に留まり、彼をイメージした商品3点が、満を持して販売される日。それが今日。
 伝統ある日本のシルクを用いた豪華絢爛なケープ、黒地のTシャツ、爽やかな白いパーカーのラインナップは彼のファンならずとも魅力的なものに映るだろう。
 勤め人で40代後半の杏は、一週間前に資金調達を済ませ、この日にかけていた。3点の合計金額37万円。決して安い買い物ではないが、これを買わずして、ファンだなんてほざくことは杏のプライドが許さない。『太客』の意地がある。

 しかし、思いがけないところに落とし穴があった。朝10時からブランドのネットショップで注文が可能になるはずだったが、今日に限って職場のネットがうまく繋がらなかった。3点のうちどれか1点でも購入すれば、先着順でノベルティがつくという企画だ。もちろん、彼をイメージした唯一無二のノベルティ。それこそが『太客の証』、なのにだ。

 「嘘でしょう、何で繋がらないの!!」
 杏は職場で購入しようとした自分の浅はかさを責めた。慌ててスマフォで操作するも、想像以上にライバルたちはタフで、もたもたしているうちにノベルティはものの数分でなくなってしまった。
 「もしもし、仙國というものです。今日から受注販売の商品、ネットでのノベルティが終わってしまったようですが…どうしても欲しいんです! どうにかなりませんか?」
 職場だということもお構いなしに、外に出て、雪の中、アパレル会社に電話をかける。
 「申し訳ございません。インターネットショップのノベルティはご用意分が定数に達してしまいました。ただ、当ブランド実店舗のほうには、まだ少しあるようでして…東京なのですが」
 「東京のどこですか?」
 「銀座です」
 「あと何個、残っていますか?」
 「お待ちください…8個…いいえ、7個ございます」
 「今から伺います。1時間半くらいで着くと思いますので、取り置きしていただけませんか?」
 「そーうですねぇ…お取り置きは厳しいと思います。ほかのお客様が該当商品をご購入された場合、そちらが優先になるかと…」
 杏は腹の底が蠢くのを感じた。こっちは全ラインナップ分の37万円を用意しているのに。
 そんなようすを感じ取ったのか、店員は、それでも鷹揚に言った。
 「今日は雪ですし。あまり客足が良いとは言えません。ですからチャンスといえばチャンスなのですが。ただ、こればかりはなんとも…あ、念のため、メールでご連絡を差し上げます」
 
 
 一連の流れを思い出し、苦々しく眉間に皺を寄せた杏は、急に、用意した37万円が手元にあるのか不安になってバックを開けた。取り置きができないと返事をもらった今、新幹線に飛び乗った判断は間違いではなかったが、現金を忘れてきたら元の木阿弥。
 カードで分割なんてダサい。杏はそう思う。ネットショップはカード支払いのみだったから、繋がらなくてよかったのかもしれない。もちろん、あのとき、先着に間に合ったのなら、そのまま一括で払うつもりでいたが。
 幸い、ちょっとした厚みになった一万円札が、四角いポーチの中で今か今かと出番を待っていた。


 帰って仕事をこなすなんて考えが微塵もない杏は、帰路に在来線を選んだ。

 あのあと店舗に入ってノベルティがまだあると知ったとき、杏は、生まれて初めて「地に足がつく」という言葉の意味を身をもって知った。ようやく時間がゆったりと流れ始める、そんな感覚。息をひとつ吐き、彼の顔が描かれた商品を手に取り、意気揚々とレジに向かう。その瞬間、ああ、このときのために生きているんだと思った。このときだけは、何千、何万といるファンの中で、自分は彼に捧げることのできる太客で、貴重な女性。買いたくても買えない女性もいるだろうが、私は買う。彼のために。しかも現金で買える女性なのだと心で叫んだ。
 「ありがとうございます! 全ラインナップのお求めなんてすごいです!」
 37万円を受け取った店員に羨望の眼差しを向けられたとき、杏の承認欲求を満たすゲージは最高地点を指した。白く小綺麗な店内で、しもべに崇められる感覚は、まるで現代版シンデレラのよう。
 「3点あるコラボ商品のうち、ほかのかたは、何を購入されましたか?」
 「こちらのTシャツが人気です」
 ショートヘアの女性店員が黒く滑らかな素材でできたTシャツを指さす。値札のバーコードの下には2万5千円の値段が表示されている。
 「ケープを買った人はいますか?」
 「いいえ、お客様がはじめてです」
 「ケープを買ったら、また違うノベルティをつけてくれるなんてサービスがあればもっと良いと思うわ」
 「なるほどですね、本部に言っておきます」
 早く帰って、このノベルティを飾りたい。飾って、SNSに投稿し、自慢したい。見なさいよ、あんたたち。私はゲットしたのよ。と言ってやりたい。
 ケープ、大変お似合いでしたよー! まだ続く店員のおべんちゃらをよそに、杏はそんなことばかり考えていた。

  雪は、いつの間にか粉雪になっていた。
 帰宅ラッシュと重なってきたのだろう。車内はそこそこ混雑しはじめてきた。手持ち無沙汰というのもよくない。杏はおもむろに『太客の証』を紙袋から出す。
 もしかしたら、一人くらい、彼のファンがいるかもしれないしね。
 ほとんどグロスが取れている口角を少しあげて、杏はひとり笑った。
 『今、帰りの電車ン中。ノベルティもゲット。新幹線でひとっとび。あなたのためならエンヤコラ』
 SNSに投稿する。
 すると
 『うわー。イタイ』
 見たこともない人間からリプが入った。
 『どうせばばあでしょ? あの洋服買うとか、どうせ小銭のあるばばあ。ばばあが、アニメのキャラにハマるなんて。イタ過ぎ』

 —え? だれ?

 『踊らされてるの気付かないの? あんたらみたいな男にもてない女を狙って、各社マーケティングしてんの。命をかけて守るとか言っちゃうアニメキャラを推すばばあは単純だから、コラボ商品作ればすーぐ買ってくれるって思われてるんよ?
 どーせ、恋人も旦那もいなんでしょ? あんた。腐ってそう。仮に母親だったとして、アニメにはまって散財するとかさ、もうさ、そんな親をもった子ども不幸』

 — もうやめて。
 急激に指先が冷たくなっていく。

 『金あんならさ、寄付でもしろよ。そのほうがよっぽど、あんたの好きなキャラが喜びそうだけど? ま、いいカモだし、あんたは優越感にひたれるから仕方ないか。ノベルティすごいでしょー? みたいな? 愚かだねー。アニメキャラに貢ぐばばあ』

 外はすっかり暗くなり、往きの新幹線よりはっきりと杏の顔が向かいの車窓に映った。青白い顔がみえる。
 しばらく息をするのも忘れた。
 停まったホームから、女子高生たちが小鳥のさえずりのような声を響かせて入ってくる。通学カバンには色とりどりのキーホルダーが、彼女たちの存在をあらわすかのように隙間なくつけられている。
 杏の知らないアニメキャラクターのマスコット人形ばかりあった。
 なぜか目が離せなくなり、ただただ、それをじっと見つめた。
 人形は女子高生が笑うたびに、大きな瞳のついた頭ごと、カクカクと小刻みに揺らした。

 杏は、膝に置いたノベルティを隠すように袋にしまった。
 いくら想像しても、今日買った37万円の品物を身に着けた自分の姿だけは浮かんでこなかった。
 


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