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かがやける昭和の団地少年

強運「ますかけ」線を手相に持った私が育った少年時代、日本経済にもツキがあって、成長が著しかった。

私の父は、ルノワールのような昭和レトロな雰囲気のあるレストランのコックだった。オムライスに旗が刺さったお子様ランチやメロンソーダフロートを食べさせてくれた。
そんな父は団塊世代である。
その息子である私は、第二次ベビーブームに生まれ育つ。

そして私が住んでいた団地は、雇用促進住宅と言って、5階建て40世帯が2棟のみ、この辺りではサラリーマン戸建や畑と農家戸建が多い中、ポツンと立っていた団地だった。
8畳×2部屋の狭いところだったが、2人目の弟ができ、家族5人となるまではそれほど狭いとも感じなかった。
この80世帯のみの団地に、同学年男子だけでも私以外に5人、年齢近い学年の子もそれなりにいたので、雨さえ降っていなければ常に誰かが外で遊んでいた。また、ベランダの向こうの公園に誰が何をしているか、一目瞭然だったので、誰かがいれば駆けつけていき仲間に入り、誰もいなくても、一人で何かしていれば集まってくることも多かった。

ブランコ、すべり台、砂場、原っぱ、登るにちょうど良い木など、昭和の子供が遊ぶに理想的な場所で、公園の中に団地が2棟建っていたような感じだった。
「〇〇する人この指とまれ!」と誰かが言い出し、缶蹴り、キックベース、ドッヂボール、どろけい、ブランコサンダル飛ばし等、日々夢中に遊び、擦り傷が絶えなかった。

雨上がり、水たまりになった砂場も遊べない場所ではなく、山と川と海と島を作りウォーターワールドにしたり、水たまりにスライディングし泥だらけになり、母に怒られたりもした。
また、おもちゃのゴルフクラブでゴルフの真似事をして遊んでいたときに、クラブがすっぽ抜けて、回転しながら3階のとあるお宅のベランダに入っていった。そのお宅を訪ねてみると不在でクラブを回収できなかったのだが、その夜、その住人がクラブをもって訪ねてきてくれた。住人からため息をつかれながら、ガラスが割れていたことを告げられ、母親と頭を下げ、弁償するということもあった。
冬には、公園の遊具も砂場も雪に埋もれ、今の子供なら、家でゲームをやったり、動画を見たりするのだろうが、当時の私は、雨上がりの砂場上のみに限定されたウォーターワールドではなく、一面、真っ白で眩しいスノーワールドにテンションが上がった。父が休みの日に、かまくらやすべり台をつくってくれて、冬限定のアクティビティーを満喫した。

小学生は、集団登校だったが、多分、30人くらいの子供が毎朝、管理人室近くの広場に集まり、揃った班ごとに参勤交代のように並んで登校していた。
夏休みの朝は首からスタンプカードをぶら下げて、公園側の広場でラジオ体操をしていたし、毎年、町内で自前屋台をつくり、大量の市販花火を使った花火大会を催していた。更に冬の恒例行事は自転車小屋と言われる塗炭屋根の駐輪場から一時的に自転車を一掃し、屋内イベント場のようにしてクリスマス会を催していた。

町内のチームワークも良く、みんな良い思い出を持っているのではないかと思う。私達の世代だけなのか、この町内だけなのかはわからないが、常に子供が主役で多少やんちゃをしても寛容だった。

しかし、子育て世帯に子供が増えていけば、この団地の部屋では手狭になり、当時バブルの時代でもあったので、家を買ったり、建てたりで、共に遊んだ友達が、順番に引っ越していくようになった。

そして、私だけ例外ということなく、小学5年のときに、父がお店兼住居のを新築し、引っ越すこととなる。

この団地でブランコから落ちて怪我をしたり、友達とアウトかセーフの言い合ったり、ケンカに負けて悔しい思いをしたこともあったが、不健全に心を患うようなことはなく、すべてが良い思い出だ。団地からそれほど遠くもない、同じ校区に引っ越すだけだったのだが、狭い8畳2間に弟とじゃれあって破った押入れのふすまや、壁に傾けて貼り付けたスーパーカーステッカーなど、愛おしく思えて、小学5年ながらにしくしく涙を流した。

3年ほど後、昭和が終わり、バブルの時代も終わりを迎えていく。

挿入ソング:


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