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霊的に貧しい者こそ幸いです

[列王記 第二 7:3,4,5,6,7]

さて、ツァラアトに冒された四人の人が、町の門の入り口にいた。彼らは互いに言った。「われわれはどうして死ぬまでここに座っていなければならないのか。たとえ町に入ろうと言ったところで、町は食糧難だから、われわれはそこで死ななければならない。ここに座っていても死ぬだけだ。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるなら、われわれは生き延びられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。すると、なんと、そこにはだれもいなかった。これは、主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイト人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲って来る」と言い、夕暮れに立って逃げ、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったからであった。

今日の聖書箇所
II列王7:3〜10

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

アラムの軍に取り囲まれていたサマリアの町は飢饉によって絶滅寸前の状況になっていました。

そんな危機の中でも最も苦しい立場にいたのがツァラアトの冒され町の中にも入ることもできない4人の者たちでした。この4人の者たちは人々の施しによって生きていた者たちなので町に食糧がなくなるなら一番先に死ぬしかない者たちでした。また病気を抱えていてはどこに逃げることもできません。このまま座しているなら真っ先に死ぬしかない人たちだったのです。

そのことをよく知っていたこの4人の者たちは思いもよらない方法を思いつくのです。それは敵軍であるアラムの陣営に逃げ込むということでした。そこに座していても一番先に死ぬことは明らかなので、百に一つ、いや万に一つの可能性に賭けるのです。アラムの軍が万に一つ自分たちを助けてくれるなら自分たちは生き延びることができる、もし殺されるとしてもどうせ自分たちは間もなく死ぬのだからそれも受け入れるしかない、そんな覚悟を決めたのです。

いのちを捨てる覚悟ができた者ほど強い者はいません。自分を捨てた者ほど大胆な者はいません。神に賭けている者ほど天が味方する者はいないのです。

私たちの信仰がなぜいつまでもくすぶったまま何の力もないのか?それはどこまでも自分で自分を守ろうとして神に委ねきることができず、自分に今あるものを捨てることができずに神に従うことができないからなのです。

どんなに神様、イエス様とは言っていてもどこまでも自分の考えと方法と計画という肉の範囲内で信じているつもりになっているだけで、それを超えることは一切受け入れようとしないので肉のこと、人間のわざと人間の働きしか起こってこないのです。

しかしそのような肉において頼りになるものが何もない者たち、心の貧しい者、霊的な乞食のような者たちはただ神に頼るしかなく、元々捨てなければならないものもないので大胆に神に従っていくことができるのです。そのような者たちに天の御国が開かれ、霊の力と霊の恵みは制限なく臨んでいくようになります。それゆえ心の貧しい者が幸いなのです。

ツァラアトというのは悲惨な病気でした。この病気にかかるとこの世のものが全て奪われてしまいます。しかしそのようにして肉の自分が粉々に砕かれていたこのツァラアトに冒されていた者たちはそれゆえに信じられないほど大胆であり、行動的であり、人並み外れた勇気を持つことができたのです。主なる神はこの砕かれきった最も弱く貧しいこの4人を絶滅の危機から国全体を救う使者として用いることができたのです。

ツァラアトに冒されたこの4人の者たちには人々から蔑まれ、排除されていたにも関わらず自分のことだけではなく人々を思う憐れみの心もありました。

アラムの陣営に行ってみるとそこはもぬけのからで誰一人いませんでした。主なる神が奇跡によって軍馬の音を響かせ、恐れたアラム軍は全員逃げ出してしまっていたのです。

そこに着いたこの4人のツァラアトの者たちは食べたり、飲んだり、金銀を隠したりしていたのですがやがて飢えに苦しむ自分たちの同胞のことを思い出し、同胞にこのよき知らせを伝えなければならないと思い、サマリアの町に走っていくのです。

[列王記 第二 7:8,9,10]

ツァラアトに冒されたこの人たちは、陣営の端に来て、一つの天幕に入って食べたり飲んだりし、そこから銀や金や衣服を持ち出して隠した。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して隠した。彼らは互いに言った。「われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。」彼らは町に入って門衛を呼び、彼らに告げた。「われわれがアラムの陣営に入ってみると、なんとそこにはだれの姿もなく、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」

何という愛と憐れみでしょう。今まで自分たちをさんざん軽蔑し、罵り、いじめてきた者たちのことを思い、それらの者たちを救う知らせを伝えに行くのです。そんなことをしなければならない義務などどこにもありません。しかし受けた恵みがあまりにも大きかったのでそれに応答してまだ恵みを受けていない者たちに恵みを分ち与えていくのです。

貧しく、弱く、病んでいたからこそ人の痛みも苦しみも理解できるそんな心が育っていたのではないでしょうか?

私たちもまた霊的に貧しく、弱く、病んで、愛に渇ききっていた者たちだったのではないでしょうか?しかしそんな私たちが主イエス・キリストの十字架の血による贖いによって救われ、癒され、解放され、豊かないのちをいただき、いのちの水によって渇きが癒された、そんな恵みを受けた者たちではないでしょうか?

その恵みを受けた者ならそれに応答してその恵みを知らない人々に伝えていくのは当然のことではないでしょうか?自分だけ救われていればいい、自分だけ恵まれていればいいというのは救われた者にはあり得ないことなのです。

自分の小さな考えの中に神を閉じ込めることなく、そんな肉の自分を十字架につけて大胆に信仰の一歩を踏み出し、受けた恵みを人々に惜しみなく分け与えるそんな者にさせてイラ抱けるよう祈りたいと思います。

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