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神に求めるから神を求める信仰へ

[エペソ人への手紙 1:17,18,19]

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

今日の聖書箇所
エペソ1:15〜23

今日もエペソ書から恵みをいただいていきたいと思います。

パウロはエペソの聖徒たちの主イエスに対する信仰と全ての聖徒たちへの愛を聞いて喜びに溢れて彼らのためにとりなし祈ります。

エペソの聖徒たちがますます霊的に成長し、信仰が成熟していくようにと祈るのです。霊的に成長し、信仰が成熟するとはどのようなことなのでしょうか?

第一にそれは神ご自身をより深く知るようになることです。パウロは神を知るために知恵と啓示の御霊が与えられるように祈りますが、神を知ることは真理の御霊の助けがなければ不可能なことだからです。

人がどれほど知識を積み上げても、どれほど努力してもそれで神を知ることはできないからです。創造主である神と被造物である人間にはそれだけでも絶対的な隔たりがあるのですが、人の罪のゆえに神と人との間には完全な断絶が生じてしまったからです。

それゆえ神が恵みによってご自身を知らせてくださらない限りは人は決して神を知ることができないのです。神と出会い、神を知ること以上の恵みはありません。その時、私たちは何のために生まれてきたかが分かるからです。このお方と出会い、このお方を知るために自分はこのお方によって生まれてきたのだということが分かるのです。

そして一度出会うならば、もっともっとこのお方を知りたくなるのです。このお方を知れば知るほど感動と感激が増し加わるからです。このお方を知れば知るほどこのお方以外の全てのものは色あせて、だんだんどうでもよくなってくるのです。

しかしこのお方を信じていると言いながら、このお方と出会ったと言いながら、いつまでもこのお方に目に見える祝福ばかりを求めている人がいます。それでは偶像の神々にご利益を求めるご利益宗教とほとんど変わりなくなってしまいます。ご利益を求める対象が偶像かイエス様かという違いだけになってしまいます。

もちろん最初は皆、神に何かを求めることから信仰は出発するのですが、いつまでもそこにとどまっているならそれは大きな問題であると言わざるを得ません。なぜならたとえ神が与えてくださった祝福であっても目に見える祝福はやがて全て消えて無くなってしまうからです。しかし神とイエス・キリストご自身を知るという聖霊による祝福は永遠に残るからです。そして永遠のいのちとは神と主イエス・キリストを知ることにあるからです。

[ヨハネの福音書 17:3]

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

霊的に成長するとは神に求めることから神を求めるようになっていくことなのです。神を求めるとは神との人格的な交わりの中での神を体験的に知っていくことなのです。使徒パウロはここでエペソの聖徒たちがそのように霊的に成長することを祈っているのです。

第二に天の希望に満ち溢れるようになることです。

肉の人の希望は肉のものであり、霊の人の希望は霊的なものなのです。私たちが霊的に成長していないといつまでも目に見えるこの世の何かに希望を求めてしまいます。お金があるとか、健康であるとか、昇進するとか、そういうものに希望を置いてしまうのです。しかしよく考えていくなら本当はこの世には希望などないのです。

死を前にしてお金があっても、権力があっても、名誉があってもどれほどの意味があるでしょう?死を前にしてなおその人を支えるもの、勇気と力を与えるものは天国の希望だけではないでしょうか?

しかしそれが真の希望にならないのは霊的な目がすっかり閉じてしまっていてそれが全く見えないので、何か目に見えるものに希望を求めてしまうのです。霊的に成長するとは霊の目がどんどん開かれていって、目に見えない霊的な世界がどんどん開かれていってそれがあたかも目の前にあるかのように感じとることができるようになることなのです。

その時、目に見えるものによって振り回されることのない確かな希望によって支えられ、慰められ、励まされるようになっていくのです。そのような人が霊的に成長した人なのです。

第三に復活信仰に対する確信に満ち溢れるようになることです。

パウロは神の大能の力の働きによって信じる者に働く神の優れた力を知ることができるように祈っています。これはイエス・キリストを復活させた神の力のことを言っており、あなた方がやがて復活することを確信し、その復活の力を日々体験できるようにという祈りです。

信仰生活のゴールは死んで天国ではなく、死者の中からの復活にあるということであり、その復活に焦点を合わせてこの地上の生涯を歩むことができるようにと祈っているのです。

復活を信じるということはイエス・キリストが全能の神であることを信じるということであり、その時、この世で出会うどんな問題や困難にも恐れたり、たじろいだり、逃げたりしなくなっていくのです。復活信仰が強くなればなるほどあらゆることに復活の勝利が現されることを期待するようになり、敗北や挫折の中で座り込んだままいることなどできなくなります。

しかし復活信仰がなければイエス様を信じると言っても十字架で死んだままのイエス様しか信じることができなくなり、そのイエス様に何かを期待することもなくなり、何が起こってもしょうがない、仕方ないと敗北主義的な信仰生活を送ってしまうことになりかねないのです。

イエス様と同じように私も復活する!そのように信じる者たちにはその大能の力、復活の力が日々働くようになり、あらゆる問題と困難をも恐れず戦って勝利していくこと、復活していくことを求めるようになるのです。

霊的に成長していくならそのような復活信仰の確信に溢れ、復活のいのちと力をありありと体験しながら復活という最終ゴールに向かって死を乗り越えて前進していく力強い人生を生きるようになるのです。

このパウロの祈りを自分のものとして神に求める祈りから神を求める祈りへと成長していきたいと思います。

今日の祈り
主よ、神を知ることの感動と感激を味わう祝福を与えてください。それを通して天の希望と復活の力に満ち溢れる信仰生活を送らせてください。

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