人を育てる
[使徒の働き 11:23,24,25,26]
バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大勢の人たちが主に導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
今日の聖書箇所
使徒11:19〜30
今日も使徒の働きから恵みをいただいていきましょう。
使徒ペテロによるコルネリウス訪問によって異邦人伝道の扉が開かれ始めました。しかしユダヤ人クリスチャンたちの偏見は強く,ステパノの殉教によって散らされた人々も異邦人には福音を語ることはありませんでした。
しかしアンティオキアにまで散らされた聖徒たちがギリシャ人にも遂に福音を伝え始めたのです。すると主の御手が彼らと共にあり,福音を信じて救われるギリシャ人が次々と起こったのです。
[使徒の働き 11:20,21]
ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。
それを聞いたエルサレム教会は使徒的なリーダーであるバルナバをアンティオキアに派遣するのです。このバルナバは心の広い愛の人でした。それゆえユダヤ人とギリシャ人を一つにまとめることができました。
そしてバルナバはタルソまで行き,サウロを連れて来て共に働くのです。サウロは教えと伝道において優れた賜物が注がれていたからです。バルナバは自分の弱点も知っており,サウロとチームを組んで働くことにしたのです。バルナバにはそのような謙遜さもありました。
サウロ,後のパウロもこの時はまだ未熟な部分も多くあったことと思います。しかしバルナバはそんなサウロを愛を持って育てながら,共に働くことができました。それによってアンティオキア教会は力強く成長し,リバイバルされて行ったのです。
私たちにとって人との出会いというのは人生において決定的に重要な要素となります。誰と出会うかで私たちは成長するか,退廃していくか,可能性が引き出されていくか,可能性が閉ざされていくか,賜物が生かされていくか,賜物が死んでいくかが決まってしまうからです。
アンティオキア教会もサウロもバルナバという一人の人の存在によって大きく成長することになったのです。なぜバルナバはそのように人を育てることができたのでしょうか?
それはバルナバが聖霊と信仰に満ちた人だったからです。バルナバには元々人を育てるために必要な愛と憐れみの賜物が与えられていたと思いますが,それだけでは働きは限られたものだったでしょう。しかしバルナバが聖霊と信仰に満ちていたので,バルナバに与えられていた賜物は10倍,20倍と大きく用いられていくことになったのではないかと思います。
私たちは良き出会い,自分を成長させてくれる人との出会いというものをいつも祈り求める必要があります。また私たちも聖霊と信仰に満たされ,人を成長へと導くことができる霊的な親となることを祈る者となりたいものです。
小さな子どもは自分のことしか考えられません。しかし成長するならば他の人の成長を考えることができるようになり,全体の益のためにどう行動するべきかが分かってくるのです。それが精神的に成長したということです。
人を育てるためには自分に死ぬことができなければなりません。いつまでも自分のこと,自分の思い,自分の願い,自分の感情,自分の感覚が最優先であるならそのような人は精神的には幼子の状態で,未熟であり,人を育てることはできないのです。
バルナバは聖霊と信仰に満たされていたゆえに,自分に死んで人を生かすことができる者となり,自分を抑え人を育てることができる者となり,自分を隠して人を立てることができる者となったのです。
そのバルナバはサウロを育て,マルコを育てました。異邦人宣教ではサウロ,後のパウロが主役になり注目されますが,そのパウロはバルナバなしには誕生しなかったのです。
天ではパウロと同じか,あるいはそれ以上の報いをバルナバは受けているのではないかと思います。私たちもバルナバのような人との出会いを祈り求め,バルナバのような人になることを祈り求めていきたいものです。
今日の祈り
主よ,いつまでも自分のことに執着してしまう未熟な者を憐れんでください。聖霊と信仰に満たして人を育てる者へと成長させてください。