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意外となんだかんだそれでも生きてる

私は結構小説に共感しやすいかもしれない。
でも小説って感情だ。人の感覚だ。
それに共感する。
だから私は作者の想定しうる普通の感性をもっている。
いや、ここで読むのをやめないでほしい。

そもそも普通とは何か。
私はこの言葉がそんなに好きではない。
それがふつうでしょ?と言われると
普通って何と逆ギレする。
普通過激派だ。中学生くらいは穏健派だったと思う。
変わったのは普通ではないという言葉を、プラスの意味で言われてるわけではないと気付いたとき
社会との、周りとの浮き、
嫌でも違うのだ、と生きづらさとして感じるようになったから。
でもこうやって言葉にするとその自分の痛々しさと直面するから嫌だ。
だからこんなネガティブは表に出さずに
内面にだけとどめておきたい。わかりやすい言葉を使いたくない。ここで一つの小説を紹介したい。

『二木先生』という小説は、普通ではないことに悩む人物に焦点が当たっている。セリフ中の異様な細かさと、行動言動の気持ち悪さが痛々しかった。
苦しい。わかるから小説と自分を重ねる。救いを求めて読んだ。

嫌な部分を隠し続けるか、開き直るか、克服しようとあらがうのか。
私は隠していたい。でも隠し続けられるわけでもないからどっかでガス抜きしてる。言いたくなくてもどっかで言わなきゃ、何かで羽目外さなきゃ心のつりあいとれないよ。私のこの文章みたいに。

この本のキャラクターたちは生きてるんだなあって思える。たとえ自分が孤独に思えたり、感情に振り回されてなんにもできないときがあったり、真っ暗な気分になったとしても、この小説中の人たちはがむしゃらに生きてる。それは確かな救い。生きてるっていうこと、色んな人に知ってほしい。




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