『完全学科長マニュアル』 本文


都市社会××学科がそもそも何なのか、"学科長"とは何のことなのかさっぱりわからない人は、以下のリンクを。

『完全学科長マニュアル』全文のPDF版はこちら↓

序文はこちら↓

学科長の最大の理解者にして、普段noteに出てくるA君の双子の弟のB君が執筆した"解説"はこちら↓

『マニュアル』は、2022年9月頃に執筆しました。

以下より、本文が始まります。無茶苦茶長いです。2万文字です。


完全学科長マニュアル


前置き

 2022年6月、「横浜国立大学都市社会共生学科」(通称・都社共)の非公認姉妹学科としての「都市社会××学科」(略称・都社破)なる"新学科"を私は"創設"した。ただの「都社共の一学生」に過ぎなかった私は、その時、「都社破の学科長」になってしまった。

 創設して早三か月、完全に順調とまでは行かないが、そこそこ順調である。

 今、"横浜国立大学都市社会共生学科"と検索すると、上から5番目くらいに"都市社会××学科"が出てくる。「僕も私も、都市社会で共生するぞ~~✨」と心を輝かせている都社共志望生が、自分の志望先がどんな学科なのか何となくインターネットで調べている時に、全然目につきまくる位置に上がってきたということだ。

都市社会共生学科と検索すると…

 「都市社会××学科」とか名乗ってるふざけたパロディ団体が、自分の志望先の学科への計50000文字の悪口を延々と書き連ねているサイトを目撃してしまった時に、都社共志望生諸君が抱える形容しがたい変な気持ちのことを考えると、流石の私も心苦しいところもなくもない。
 しかし、噂によると、都社共の学科長の榑沼範久氏が「都市社会××学科の存在は、都市社会共生学科の志望生に良い宣伝になるんじゃないのかな」みたいなことを言っていたらしい。絶対そんなことないし、良い宣伝になってたまるかとも思うが、あっちの学科長がそう言ってるなら、気にする必要もない。都社共の模範学生として胸を張って堂々と、都社共の悪口を言い続ける活動に今後も精を出し続けて、検索結果にお邪魔して、志望生の視界に積極的に入っていこうと思う。

 存在感はインターネットにとどまらない、というか、インターネットよりもリアルの方が恐らく存在感がある(といっても、横国限定だが)。
 私は横国であり得ないくらい浮いているため、横国の世情のことはずっとよくわからない。しかし、どうも、横国の一般の学生も多くが当学科のことを認知していて、話題にしている様だ(その大半が侮蔑的か冷笑的なものらしいが)。××学科の学生からもそういった話をよく聞くし、エゴサしてる時に見かける言及でも、当学科の存在自体は説明不要な周知のものとして扱われている。
 学生だけでなく、教員に対しても存在感を示している。噂によると、横国の批評系のゼミで、何の前触れもなく教員が当学科に言及して学生と議論になったことがあったらしい。教員会議に当学科の存在があげられて、教員が支持不支持を問われて議論になったこともあるようだ。

やれやれ、有名になるのも
困ったものだぜ😢

 さて、隙があったので長々と自分語りをさせてもらったが、自慢はここらで終わりにして、本題に戻ろう。
 何かと好調な中で1つ想定外があるとすれば、それは"学科創設ブーム"が巻き起こらないことである。

 「○○研究会」みたいな冴えない名前で、政治的、思想的なことを試みるなら、絶対に、"学科"ないしは"学部"や"コース"を自称していく方が、知名度も上がるし、やることもはっきりして良いと思う。
 ××学科の活動に対して、「自分も"学科"を"創設"しようかな」みたいな言及を何度も見ていて、"学科創設ムーブ"の到来、及びに、そのムーブの火付け役として自分が「始祖の学科長」としてカリスマになっていくことを、確信を持って妄想していた。

 しかし、みんな口先だけで、全然"学科"を"創設"してくれない。
 みんな、"学科"を"創設"したくてしたくてたまらないのに、どうすれば"創設"出来るのかが分からず、途方に暮れているようだ。しょうがないので、「始祖の学科長」としての私のカリスマ・ライフの為にも、今回、こうして「完全学科創設マニュアル」を書くことにした。このマニュアルを補助輪として、"学科創設ムーブ"が走り出したとしたら、「始祖の学科長」として、望外の喜びである。

みんなで創設すれば怖くない!!


序章 キミも学科長になろう

 本書は、君も学科長になろう、と呼びかけているが、必ずしも"学科長"である必要はない。学部長でもコース長でも、なんなら総長でも良いと思う。便宜上、"学科長"として話を進める。
 それと、大学生の私の実体験に基づいて書くため、大学生視点となることが多いが、学科長になるのは、必ずしも大学生である必要はないと思う。中高生が自分の学校でやったり、或いは、大学生くらいの年齢だけど大学生じゃない奴が、勝手にどこかの大学の学科長になってしまったりしても良いと思う。便宜上、"学生"という言葉を多用すると思うが、10代後半から20代くらいの年齢の人、というアバウトな意味で受け取ってほしい。


学科長とは何か

 そもそも、学科長とは何であろうか。
 『完全教祖マニュアル』という、偶然にもこのテキストとタイトルや構成が酷似している新書によると、教祖の成立条件として、「何か言う人」「それを信じる人」の二つの要素が必要らしい。「何か言う人」が教祖で、「それを信じる人」が信者だ。

 では、学科長の成立条件は何か。
 絶対に必要な条件として、「何か言う人」「それを聞く人」の二つの要素をあげてみよう。
 勿論、「何か言う人」が学科長だ。
 「それを聞く人」という条件を設定したのは、一人で何か言ってるだけで、誰もその存在さえ認知していなかったら、"学科長"の名に値しないからだ。もしも君がどこかの大学で"学科長"になりたいのならば、その大学の学生の半数くらいには、新学科の存在を何らかの形で認識されていると、学科長としての箔がつく。
 教祖じゃないんだから、「信じ」られる必要は必ずしもない。しかし、好意的か否かはともかくとして、「聞く」人が一人もいなくて、自分以外誰も自分のことを"学科長"と認識していない状態となると、あまりにも惨めすぎるだろう。

世の中に最低2人いれば
学科長は生まれます!!

 もう二つ、あった方が望ましい要素として「支持する人」「反対する人」の二つがあげられる。
 "学科長"たるもの、何らかの主張がなければならない。その主張を、ただ"認識"されているだけじゃ甘くて、その主張に対する「支持」と「反対」の両方がなければ、その"主張"は、単なる変な人として、ネットコンテンツ的に受容されている可能性を考慮しなければならない。

「支持」と「反対」!!

 まとめると、学科長とは、「何か言う人」「それを聞く人」が絶対に必要な要素で、「支持する人」と「反対する人」が付け加わると、より学科長らしさが出てくる。
 学科長とは何かを説明したところで、ここからは、学科を勝手に創設して勝手に学科長に就任するという「学科長システム」の利点と、どんな人に「学科長システム」は有効かを書こうと思う。


"研究会"と"学科長システム"

 とにかくオルタナティブな活動をしようと決意した場合に、様々な方法がある。
 まず思いつくのは、大学なり地元なり知り合いのコネなりで、オルタナティブな匂いのする界隈に出入りして馴染んでみることだ。私も、学科長になる前は、この道を模索していた。
 しかし、みんながみんな界隈に馴染むことを楽しめるわけじゃない。そうすると、自分が主体として何か始めるしかなくなるわけだが、その際に、「○○研究会(例えば、アナーキズム研究会)」を名乗ってみたり、「○○をする学生の会」を作ってみたりするのが一般的だ。
 こういった、「○○研究会」や「○○をする学生の会」を開くやり方に対して、「学科長システム」は、革新的な4つの特徴がある。


4つの革新性 ①即席性

 一つ目の革新性は、自分一人で始められるという"即席性"だ。

 「○○研究会」とかで、所属が会長一人だったら、何だかみじめで情けない。せめて2、3人は協力者がいなければ、「○○研究会」は始めることさえ難しいのだ。 
 一方、学科長がただ一人で学科長を自称していたらそれはそれで滑稽で面白いから、新学科は即席で創設することが出来る。万が一たくさん人が集まっても、何だかホントに学科みたいでそれはそれで面白い。
 滑ってても面白いしウケても面白い。どちらにしろ面白いのだから、学科長システムは無敵だ。

 こうした即席性が故に、「学科長システム」は色々な所に顔を出して馴染もうとしなくても、一人から活動を開始できるという大きすぎるメリットを持つ。

どこにも馴染めないとしても…

 横国は、「文学部」や「社会学部」みたいな、まともな社会人になるモチベを失ってしまった拗らせた奴が行きつきそうな学部がないせいか、ある程度の規模の国立大学の割には信じられないほどに、オルタナティブで多様で面白い"学生文化"が不毛の地である。
 そんな横国とは対照的に、大学でいうと京大や東大、或いは早慶上智と言った首都圏有力私大は"学生文化"って奴が咲き誇りまくっているらしい。そこでは、「ドストエフスキー文学は~」とか、「ゼロ年代のサブカルチャーは~」とか、「マルクス主義の破産がどこに由来するかって言うと~」とか語っている"界隈"が既に一定規模で形成されているらしい。場所で言うと、"高円寺"なんかもそうらしい。現実感がなさ過ぎてSFの話かと思ってしまう。

 そういう、多様な文化が咲き誇っている界隈から、地理的環境か志向性の問題か、とにかく、何らかの契機で見放されている人も少なくないだろう。
 私もそうだった。まず、横国にそんな"学生文化"なんてない。首都圏のそういう界隈に顔を出すことも不可能ではなかったが、地理的に結構遠いし、そもそもそういう類の人の、人文/サブカルなノリに、私はどうもついていけなかった(アニメとか全く見ないし、小説も殆ど読まないし、音楽も聞かないし)。
 そんな孤立した状況においても、強烈でオルタナティブな存在感を誇示できる即席性が、学科長システムにはあるのだ。


4つの革新性 ②独自性

 二つ目の革新性は、既存の理念に名前を借りないから、自分の色を全力で出せる"独自性"だ。
 例えば、「アナーキズム研究会」なんて名乗ってしまったとしよう。
 この時、「アナルココミュニズム」も「アナルコフェミニズム」も「暮らしとしてのアナキズム」も、それが「アナーキズム」である限り、全てを受け入れるという様な寛大な精神を持っていない限り、色々な誤解に晒されてイライラしてくることだろう。
 アナーキズムなんて言葉は、100人いれば100通りの解釈がある様な、良くも悪くも色々と語られ過ぎている言葉である。例えどれだけ「ウチのアナーキズム研究会はこういう方針です」みたいなことを掲げたとしても、何となく言葉につられて訳わかんない誤解してきて、一方的な「アナーキズム観」をはた迷惑に押し付けてくる奴は常にいて、誤解や摩擦は避けられない。「アナーキズム」じゃなくても「フェミニズム」とかでも同じことが言えそうだ。
 しかし、学科を創設してしまえば、そういった、既存の○○イズムの文脈に回収されることはない。変に流通している○○イズムに自分を合わせずに、ありったけの自分の不満をぶちまけられるのだ

解釈の喧騒から遠く離れて…


4つの革新性 ③敵対性

 三つ目の革新性は、大学総体を敵に回せる"敵対性"だ。

噛みついていくぜ!!

 団体の名称を「○○研究会」とかにしちゃうと、「研究してるだけじゃん、趣味じゃん」感が出てきてしまう。
 一方、勝手に新学科を創設して学科長に就任してしまうということは、所属する学科を批判するという意味が必然的に付随する為、創設するだけで簡単に政治性を明示できる。ただの"研究会"では、大学総体を敵に回して、かつそれを大学の中で主張していくロジックは出てこない。

 この時強調しておきたいことは、大学総体を敵に回せることの意味は、「大学当局を敵と認定できる」というよりも、むしろ、「学生一般を敵と認定できる」ということであり、理念としても実態としても"学生自治"ではない方向性を模索できるということだ。
 学生自治というのを理念的に整理するとすれば、それは、学生の意志を一般に代表して、大学当局や教員と交渉を図って対話をしながら、一般に"学生側"の利益を実現していく、ということになるだろう。立派な活動で、私としてもそうした活動をしている人はリスペクトする。
 しかし、私自身はそんな"学生自治"を正直全然やりたくない。
 なぜなら、"学生"という集合一般で何かを共有しているとは思えず、彼ら彼女らと協力しながら何かをやりたいとは全然思っていないからだ。
 汗水流すことがなんとなくカッコいいと思ってる運動部や、単にオタク的に趣味に耽溺するだけの文化部の活動が、コロナか何かで制限されようがされまいが知ったこっちゃないし、SNSで吐露される"つぶやき"にも、全然興味がわかない。
 「学生自治」の論理を振りかざせば、確かに一般学生に介入できる。しかしそれは「君たちの利害も代弁します!!」ということなのであって、何か間違えてしまったら、ラグビー部が"自由に"汗を流したり、知らん奴が"自由に"オタク談義したり、しょーもないツイッタラーが"自由に"オフ会したりする為に、当局と交渉しなければいけなくなっちゃうかもしれない。そうなれば悪夢だ。

君らのことなど知るかぁ😡
君らのことなど知るかぁ😡
君らのことなど知るかぁ😡

 「学生自治」に興味がない、どころか、ちょっと"政治性"が出てくると即座に強く拒絶してくる様な大多数のノンポリ学生の利害も代弁しなきゃいけない「学生自治」を主体的にするほどに、善意に満ち溢れた人間では私は無かった。
 或いは、そういった多数派のノンポリ学生を、自治を構成する"学生"とは認めない程に党派的な人間でもない。寧ろ、ノンポリである彼ら彼女らこそが"学生"で、「学生自治が云々…」とか語りだして変に政治性に被れちゃう様な奴は、"学生"の一般からは外れちゃっているのだ。
 (「学科長システムは…」とか長々語ってるこの私も、一般に想定される"学生"から外れているだろう。
 しかし、一般から外れているからこそ、"運動"があるのだ。)

 そんな多くのノンポリ学生とは隔絶して、「アナーキズム研究会」とかやってもいいが、「○○研究会」では結局、読書が趣味のインテリの変人が集まるだけのタコツボになっちゃうのであって、それでは、一般学生に圧をかけてビビらせていく論理が出てこない。せいぜい、タコツボに入ってくれるお仲間を、新歓期に探すくらいしか出来なくなる。

 「○○研究会」でも「学生自治」でもなく、「新学科の創設」の論理こそが、多くの学生に圧をかけてビビらせていくという敵対性の論理を構築できる。「○○研究会」としてオタク的に自閉するのでもなく、「学生自治」として本当に優しいか或いは滅茶苦茶党派的な学級委員長みたいに振る舞うのでもなく、「自称・学科長」としてギャーギャー騒いで、一般学生に圧をかけていく。
 「学科長システム」は"閉鎖性"、"党派的な敵対性"に対して、"健全な敵対性"を可能にするのだ。

"学科長"のイメージ画像


4つの革新性 ④権威性

 最後、四つ目の革新性は、偉そうなリーダーに一応はなれる"権威性"だ。

エッヘン!!

 何となく"アナーキズム"に被れて、「会の権力は水平的だから、リーダーとかは決まって無くて…。」とかやっても、絶対にうまくいかない。まず、誰も主催者として関わろうとしてこない。かつ、下手に関わってこられても、こっちのコンセプトを誤解して、いつの間にか「人と人が対話する場所を作ろう!!」とか「心の通い合う場所を!!」とか、はたまた「強権政治に反対しよう!!民主主義を!!」みたいな方向性になってしまったりして、それはそれで困る。
 
 権威的なリーダーに一応はなっておくことで、他人が主催者側として協力してくれないことにも、「まぁ自分は学科長で彼ら彼女らは学生だしな…。」と、凪の様な精神状態を保てる。逆に、悪意はなくとも好意的な誤解によって、学科を変な方向に持っていかれそうになった時も、学科長として強権をふるうことを、学科長システムは一応可能にするのだ。


学科長になるべき人

 以上四つ①即席性②独自性③敵対性④権威性という革新的な特徴を「学科長システム」は持っている。
  とはいえ、学科長システムも万能ではない。
 例えば、夏休みに海や山への旅行を一緒に行く友達が欲しい人が、「自分も学科長になろう!!」と決意したとしても、それはとてつもない遠回りだ(不可能ではないが)。そういう人は大学のフツーサークルにフツーに入るか、或いは、大学の外にあるオルタナティブなスペースや界隈に出入りしよう。そっちの方がずっと近道である。
 「友達作り」や、単なる「○○研究会」では収まらない志向性を持っているというのは大前提の上で、4つの革新性にピンときた人は、是非「学科長システム」を使ってみてほしい。既存の界隈にはどうにも馴染めなかったり、形容しがたいイライラがあったり、周りのやつらの利害を代弁したくなかったり、偉ぶりたかったりする人におすすめだ。

 この節の議論は非常に重要なので、以下に表にまとめておく。ベッド脇にでも貼って、丸暗記しておくように。

学科長システムの4つの特徴とその効果


路上喫煙より容易な実践を紹介

 序章の最後に、学科長マニュアルの最大の特徴を記しておこう。
 学科の創設とは、それ自体が一定程度の政治性を帯びる活動だが、政治的な活動には、通常、凄まじい勇気や体力が必要となることが多い。凄まじい勇気がある人は、大学なんか辞めて○○を××したり△△に□□(自主規制)したりすればいいと思うが、そんな勇気がある人が大半とは思えない。そして、私は、そういった行為を行う人をリスペクトはしているが、私個人は、そうした超人的勇気を持つ人間ではなかった。

憧れるけど、でも…。

 しかし、「勇気」を持つ人間だけが運動をする資格を持つのかと言えば、そんなこともないだろう。勇気はあるに越したことはないが、ないならないなりで如何に"運動"できるかを模索すべきだ。

 本編で書くことは、すべて私がやってきたことである。そして私は、超がつくほどビビりで臆病な人間だ。
 私は、お化け屋敷やジェットコースターも無理だし、ゴキブリが部屋に出たら一目散に外までダッシュするようなタイプである。

こ、怖い!!

 他にも例えば、私はタバコを嗜むが、路上喫煙はほとんどしない、というか、怖くて出来ない。
 理由は、モラルがどうとか倫理がどうとかは一切関係なくて、単に、警官に見つかって罰金を支払わされたり、或いは怖い人に目を付けられてケンカになったりするのが怖いからである。ゴミのポイ捨ても似たような理由で殆どしたことがない。無賃乗車なんてもってのほかで、することを考えるだけで心臓がドキドキして夜も眠れなくなる。

今日のタバコのポイ捨て、
バレて罰金とかになったらどうしよ~😢

 従って、本編で紹介される方法は、少なくとも"勇気"の点から言えば、路上喫煙やポイ捨てをする以下の"勇気"しか要さないものしかない。
 そんな情けない"実践"があっていいのかという気がしないでもない。しかし、路上喫煙やポイ捨てレベルの勇気を犯さなくても、そこそこの存在感を提示できるということは、それだけ「学科長システム」は多くの人が使うことのできる普遍的なシステムということだ。
 加えて、もっと"勇気"のある人が使えば、私が使うよりも何十倍も有意義に使えるシステムということも意味する。私みたいなビビりでチキンな人間ではなく、日頃から路上喫煙やポイ捨てを"決断"している英雄的とさえ形容できるような勇敢さを持つ若者に、「学科長システム」の最大の可能性を引き出してもらうことを切に願っている。

英雄たる君へ…


本編の構成

 さて、本編の構成を手短に紹介しよう。
 第一章「主張しよう」では、ただの一個人が如何にして「何かを言う人」になれるのかを説明する。勿論、"何か"を言いさえすればいいのであって、方法もクソもないと言えばそうなのだが、布教や学科生の獲得のことまでを考慮した時に、注意しておいた方が良い点がいくつかあるので、その点を書こうと思う。
 第二章「布教しよう」では、第一章で「何か言う人」になった後、いかにして、「それを聞く人」を増やせるかについて記す。ここは多少の"勇気"が必要だが、それも、ポイ捨てや路上喫煙以下の勇気で大丈夫である。
 第三章「"学科生"を獲得しよう」では、「支持する人」をいかに増やせるかについて説明する。といっても、ぶっちゃけ当学科もここで苦しんでいるので、物凄い薄い説明しかしないだろう。むしろ何かアドバイスがあればメールアドレスまで連絡してくれ。



第一章 主張しよう


何かに苛立とう

 主張するにあたって、まずは、主張内容から考えなければならない。
 何でもいいが、とにかく何かに"反対"したり"批判"したり、とにかく、"苛立ち"を表明したほうが良いと思う。

イライラを運動に転化せよ!!

 せっかく"学科"を"創設"したのに、「現代思想を研究します」とか「現代美術を研究します」とかフツーに言ってたら、その辺のリアル学科と見分けがつかなくなる。そして、単なるリアル学科の補完としての、「○○研究会」的なものに成り下がるだろう。
 "新学科"を"創設"するということは、序章で説明した通り、それ自体がある程度の敵対性を帯びる行為なのだから、明確な"苛立ち"を提示することで、リアル学科やその補完に過ぎない「○○研究会」との差別化を図ろう。
 何かを批判することは必須だが、必ずしも建設的な対案を出す必要もないだろう。対案を出すに越したことはないが、とにかく苛立っているという"アツさ"こそが、そんじょそこらのリアル学科や「○○研究会」にはないものである。意外とリアル学科や「○○研究会」は、対案の方は建設的なものがあったりするが、それに血を通わせる"アツさ"が全然ないものだ。「とにかくこれがおかしいだろ!!」とアツくなってさえいれば、別に文句を言いっぱなしでもいいと思う。

 苛立ちの対象は、何でも良いと思うが、分かりやすいほうが良い。
 私個人の話をすると、どうにも対象を複雑かつ抽象的にし過ぎた気がしている。
 私が学科長を務める「横浜国立大学都市社会××学科」は、リアル学科である「横浜国立大学都市社会共生学科」への再編成やその実態に"苛立ち"、批判している。ここまではシンプルなのだが、それを支える"共生社会"的な理念に対しても"苛立ち"、批判している。
 批判内容としては以下の通りだ。
 確かに現状の都市社会共生学科は、教員と学生も見事に調和を保って"共生"しているし、卒業した後も、良い感じにこの社会で"共生"していくだろう。しかし、それは、統制の取れた既成秩序を突き崩す"運動"を隠蔽し、それを潜在性ごと潰すことで初めて可能な"共生社会"なのではないか、という論理だ。何も刺激的なことのない都市社会共生学科内での"運動の不在"を、現代社会における"運動の不在"と重ね合わせている訳である。
 「都市社会共生学科への官僚主導の強引な再編成が問題だ」というのは、物凄くシンプルで分かりやすいテーマ設定だが、そこから更に進んで、「ここまで自明な問題を学生から問い直そうとする運動が不在なのはおかしい。そもそもこの問題に限らず、"運動"らしい"運動"が一切ない。運動の不在こそが真の問題なのだ。」というテーマ設定は、自分で言うなという話だが、変にこねくり回しすぎている気もする。
 "学科"を"創設"するということが、それ自体で一種の"運動"なわけだから、"運動の不在"を批判する「都市社会××学科」という"運動"は、つまり、「"運動の不在"を批判するというメタ運動」をしていることになる。

図解「メタ運動」

 自分としてはごく自然な問題意識であって、むしろ「都市社会共生学科への官僚主導の強引な再編成がおかしい」ということが、「運動の不在」を指摘するためにでっち上げられたタテマエでそこまでリアリティを感じずに口から出まかせで言ってるのだが、私にとってのごく自然で当たり前の「運動の不在がおかしい」という問題意識は、あまり幅広い共感を得られない。
 「"運動の不在"を批判するというメタ運動」という一貫した志向性の下、私が作るビラや文章や"講義"は、とにかく何かに苛立っているのは分かるし、癖でついつい冗談めかして作ってしまうから"面白"がられることは多い。"面白"がってくれている連中も、その全てが軽薄でサブカル的なものだとも思えない。ある程度の人数は、ちゃんとnoteもマジメに読んでくれていたり、直接議論したりしていく中で、ある程度は"理解"した上で興味を持ってくれていると思う。しかし、「そうだよね!!自分もずっとそう思っていたんだよ!!」的に"共感"されることが殆どないのだ。
 「"運動の不在"を批判するというメタ運動」というのは、何というか、私の悪い意味で抽象的というかメタ的というか自己言及的というか否定神学的というか、とにかく、そういう悪癖が出た結果だ。 (ついでに補足すると、そんな自分の悪癖は分かりきっているので、学科創設当初は「変にメタらずに、直接的な学科批判をするぞ!!」と意識していたのだが、批判のロジックを詰めてたり、実際文章やビラを作ったりしている中で、いつの間にか「"運動の不在"を批判するというメタ運動」というメタ的で抽象的なものになってしまっていた。)
 
 また隙があったので自分語りをさせてもらったが、ともかく、都市社会××学科みたいなまどろっこしい問題意識は避けて、その辺を歩いている学生にも"面白"がられ"理解"されて"共感"してもらえるテーマ設定をしたほうが良い。といっても、私は何も意識せずともまどろっこしい性格なので、まどろっこしくないテーマ設定というのが一切思いつかない。
 まどろっこしくないテーマ設定として、知人が言っていたアイデアを盗んで一例をあげると、「経済学反対学科」というものがある。
 彼は経済学部の学生なのだが、彼曰く、主流派経済学は、全部数学的統計の議論になっちゃって、その議論の枠内においては"正しい"のだけれども、その数学的統計の外で「貨幣とは何か」「市場とは何か」みたいなことを大して考えていない。だからネオリベに陥る。ネオリベを批判するには、主流派経済学それ自体を批判したほうが良いということらしい。これなんかは、問題設定としては非常に分かりやすい。

 とにかく、何かに"苛立"って、反対したり批判したりしよう。
 建設的な提案なんて1つもなくても、とにかくその"アツさ"こそが、一人前の学科長には必要なのだ。

情熱こそがただのいち学生を
"学科長"に変身させてしまうのだ!!


怒涛の長文を用意しよう

 ここまで読んだ君は、今、とにかく何かに苛立っているに違いない。
 その苛立ちを、脳内に留めておくだけなのはもったいない。文章か何かで形に残そう。(便宜上"文章"ということで話を進めるが、漫画でも音楽でも作品でも100パターンのビラでも、何でもいいが、とにかく大量に!!)
 この際、文章は出来るだけ長くかつ詳細で、一万文字以上は書いたほうが良い。

書きまくれ!!

 そしてそれを、ネットのnoteかはてブに投稿するか、紙媒体で印刷しとくか、或いは両方やって、とにかく他人が見れる状況にしておこう。

 この提案に対して、「そんな長く書いても誰も読まないじゃん」という反論がありえる。その反論は想定としては正しい。勿論、出来るだけ面白く書いて読まれる様な努力はすべきで、読まれるに越したことはない。しかしやはり、その反論は的外れだ。
 何故なら、そもそも読まれる必要が一切ないからだ。
 というのも、重要なのは、"長い文章を書いた"という既成事実が示すアツさなのであって、その文章の内容なんて二の次なのだ。
 "長い文章を書いた"という事実こそが、学科長の絶対必要条件である「何か言う人」性を担保する。逆に、長い文章がなかったら、「何か言う人」ではなく、単なる「何か変な人」として認識され、インターネットでネタ的に消費されて終わるリスクが高い。読まれようが読まれまいが、とにかく「何か言っている」という事実を量的に可視化する必要が絶対にあるのだ。
 (必ずしも文章である必要はないが、とにかく、「何か頑張って主張してる」ということを示す大量の何かが必要だ。)

"学生"でも"ちょっと変な人"でもなく
"学科長"であることの証明

 ここまで説明してきた、苛立ちの対象と、それを明示する怒涛の長文(及びそれに類する大量の何か)を用意することは、ただの一個人が「何か言う人」になるために絶対に必要な作業だ。
 次の節では、補足的な情報を書こう。


あやかれる権威にはあやかろう

 例えば、自分が所属する大学で、"学科長"に就任した場合、それ自体が多少の政治性を帯びる。それに、次章の「布教」段階では、手法としても多少のリスクを冒すことになり、最近の監獄化している日本の大学の状況だと、すぐに政治的処分が下されかねない。
 その時に、大学の創設者だったり、学部長だったり、名誉教授だったり、何でもいいけど、ちょっと偉い人の著作か発言か思想かに、一応形だけでもあやかっとくと、もしかしたら政治的処分も下しづらいかもしれない。
 この際に注意すべきことは、乗っかり過ぎないことだ。
 あくまで、「あやかってる」だけであって、そいつの犬にはならない、こっちの方がえらいということを明示しておく必要がある。

 当学科の場合は、リアル学科の「都市社会共生学科」の前身「教育人間科学部人間文化課程」の課程長で、横国の名誉教授だった室井尚が、「都市社会共生学科」への再編成問題を扱った新書『文系学部解体』を出していたので、それにあやかることにした。
 ぶっちゃけてしまうと、始めから私に「「都市社会共生学科」への再編成問題はおかしい!!より良き大学を再建すべきだ!!」みたいな思想は一ミリたりとも無かった。「運動の不在を批判するメタ運動」を行いたいと思っていた時に、何の気なしに『文系学部解体』を読んで、これは使えるな、と思って、「都市社会××学科構想」を思い立った。note記事でも、室井尚を利用して都市社会共生学科をボロカス言い、その後は室井尚さえも、「結局懐古趣味のリベラルやんけww」とボロカスdisるという酷い構造だった。
 それでもなんやかんやで室井尚から言及されたり、室井の言及で横国教員界隈にも認知される。

室井の言及

 横国の都社共の教員は驚くほど、こういうカウンターカルチャー的なものに対するセンサーが馬鹿になっているので(その辺も"共生"学科に相応しい!!)、多分室井による言及が無ければ、もっと大変なことになっていた気もする。多分マジで「室井先生が言及しているということは、きっと悪くない活動なのだろう!!」というノリだと思う、ホントに。
 まぁ、そういう意味で、あやかった効果は出ているのだが、反省としては、あやかり過ぎてしまった気がする。名誉新入生が云々カンヌンは流石にあやかりすぎて、何というかダサダサになってしまっている。反省だ。

 と、また隙があったので自分語りさせてもらったが、とにかく、あやかれる権威にあやかっとくと、政治的保身になったり、うまくいくと宣伝に繋がったりする。しかし、これは、学科長システムの特徴の一つ「敵対性」を損ないかねない諸刃の剣なので、あやかる際は注意してくれ。

 この章を読み終えた段階で、学科長志望者の読者諸君は、何かに苛立っていることが明示された長文を用意(一応あやかれる権威にはあやかってセコイ保身も)したはずだ。
 これで、君も「何か言う人」に晴れてなれたはずだ。おめでとう!!congratulation!!

 次の章では、「それを聞く人」を増やすための手段を紹介しよう。



第二章 布教しよう


Twitterアカウントを作って満足するのは辞めよう

 さて、前章までの内容で晴れて「何か言う人」になれたところで、この章で、出来るだけたくさんの人に効果的に主張を聞いてもらうための作戦を早速紹介して行きたいのだが、まずは、やってはいけないことから警告しよう。
 それは、Twitter等のSNSで学科のアカウントを作るだけで、学科を創設した気になるな、ということだ。

Twitterは学科長のアヘンだ

 別にtwitterアカウントを作ること自体は良いと思うし、SNS万能時代に逆張りして"紙の良さ"とかを主張したいわけではない。
 SNSだけで満足してはならない理由は極めて明快で、Twitterアカウントをやっているだけでは、一切拡散力がないからだ。
 今時、何か新しいサークルなり団体なりを立ち上げたら、誰でもすぐTwitterアカウントを作る。なんかちょっと変な団体のTwitterアカウントなんて世にごまんとあるわけで、いくらTwitterで気の利いたことを言おうと、それだけでは一切の拡散力を持たないし、拡散力を持ったとしても、クラスター内で閉鎖的に消化されて終わりだろう。
 一個の弱小SNSアカウントよりも、数百枚数千枚のビラの方が絶対に目立つ。
 多くの人がSNSの拡散力に依存してる今だからこそ、リアルのブツで宣伝を試みる団体はいないので、リアルで宣伝するだけで一瞬で目立つというゲキチョロモードなのだ。
(確かに、SNSというものは今時みんなやっているし、その拡散力はスゴイから、利用したくなるのもわかる。しかし、SNSで多少気の利いた文章をいくら発信しても、大して存在感は放てない。
 そこで、少しズルい作戦を言うと、「SNSなんかに依存せずに、リアルでビラなりなんなりで宣伝しています」ということを画像付きでSNSで宣伝すると物凄く拡散される。なんともこすい作戦だが効果は抜群だ。懸念すべき点は、自分のプライドがそれを許すかということだろう…。)

セコイ作戦、実例


目を引く分かりやすいビラを作ろう

 とにかくSNSアカウントを作るだけで満足してはいけない。リアルな空間で貼るためのビラを作ろう。
 ビラ作りにおいて最も重要なことは、"認知される"ことだ。

目立とう!!

 前章で怒涛の長文を用意してしまった勢いでついつい、ビラもA4一枚びっしりと文章を書きたくなってしまうかもしれないが、それは辞めよう。そんなことをしても、誰も読まないどころか、誰も目にとめてさえくれない。
 バカでかい文字か、或いはバカシンプルなイラストで、とにかく他人の目に残るようにしよう。勿論、主張内容を含んでかつ目を引くのが理想だが、最悪主張内容は諦めてでも、目を引きさえすればそれでいい。ビラ自体では注目を集めたり、存在感を放ったりすることを最優先する。実際の主張内容の詳細は、ビラに、ネットにアップロードした怒涛の長文のURLのQRコードを貼っておいたり、連絡先を載せておいたりして、そこから知ってもらうことにしよう。
 (目を引きさえすれば良いといっても、目の引き方は考えよう。例えば、品性下劣なエログロ系なら簡単に目を引けるけれども、それを見たとてQRコードに飛ぼうという気は起こさせられないだろう(逆にエロ、グロ系でQRコードに飛ぶ奴がいたとしても、そんな奴と協力して何かできるわけない!!))
 
 とにかく目を引いて、かつ、怒涛の長文にリーチしたくなるようなビラを、手書きでもPowerPointでもWordでも、何でもいいのでとにかく一枚作って手元に置こう。

目を引くビラ、実例


タダコピを使って、無料で無限に印刷しよう(一部の大学生限定)

 さて、今、君がマジメな学科長志望者であるとするならば、手元に一枚のビラがある状況かと思う。
 言うまでもなく、一枚だけひっそりどこかに貼るなり配るだけでは何の存在感もないので、これを大量にコピーする必要があるのだが、これが結構大変だ。1つの大学キャンパスに隈なくバラまくなら、一回で最低100枚、可能であれば1000枚欲しいところだが、それを全部コンビニでコピーすると、どうしてもお金がかかってしまう。

 そんなお困りの学科長志望者にとっての救世主が、一部大学にある「タダコピ」というサービスである。

生協にありがち

 何と、この「タダコピ」、アカウント登録さえしてしまえば、何十枚でも何百枚でも何千枚でも、"タダ"でプリントすることが可能なのだ。 
 そんなウソみたいなサービスがあってたまるか、という話なのだが、それがあるからスゴイのだ。裏に広告がついているので、その広告代で成り立っているサービスらしい。スゴすぎる!!  
 私が在籍する横国には、生協にこれがあったので、使い倒していた。   
 横国生がアホすぎるからなのか、私の注意力が終わっているのか、私以外でこの横国タダコピを使っている人は見たことなく、私一人で横国のタダコピは事実上占拠状態だった。私一人でこの一年で恐らく5000枚以上はタダコピでプリントしていたと思う。コンビニでプリントしていたら5万円かかっていたことを考えると、凄まじい話である。
 そんな、学科長志望者の為に存在するかのような"タダコピ"だが、一部大学にしかない。と言っても、相当たくさんの大学に設置されている。どこに設置されているかは、wikipediaの「タダコピ」のページに載っているから調べてみてくれ。大学生じゃない人、自分の大学にはタダコピがなかった人は、タダコピを使えそうな友達にお願いしてみよう。


配るのは怖いから辞めよう

 物凄く目を引く派手なビラが、手元に1000枚くらいそろったところで、ようやく、そのビラをバラまく作業、本格的な"布教"作業に取り掛かる。この節では、1000枚のビラをどうばらまくかを記そう。
 そして、ここが、本マニュアルで最大のリスクがあり、最大の勇気を必要とする所だ。
 もしも、君が勇敢であれば、「どうバラまくもこうバラまくも、門のところで立って配ればそれでおしまいじゃん」ということになりそうだ。確かにそれは正論であって、配っていれば目立つこと間違いなしなのだが、私なんかはそれは怖くてできなかった。

こんなにこやかに終わるわけがないぜ😢

 序章で説明したように、このマニュアルでは、ポイ捨てや路上喫煙よりも勇気のいらない実践を紹介していくので、ビラ配り以外の方法を説明しよう。
 (ついでに、ビビりの負け惜しみに聞こえることは重々承知だが、ビラ配りは、相当な勇気を必要とする割には効果は薄そうだ。新歓期でもないときはいくら配っても、ビビられるばかりでビックリするくらいだれも受け取ってくれないっぽい。1000枚持っていったとしても、相当な工夫を施さない限り、全部を配るのは相当大変そう。(しかし、効率とか云々は抜きにして、配れる奴の勇気はすごすぎる!!正直コンプレックスを抱えています。)) 


掲示板で満足するのは辞めよう

 配る以外の選択肢なら、基本的には「貼る」ことがメインになるわけだが、おすすめしない貼り方は、皆が貼っている公認掲示板か或いはサークル棟みたいなところに、ひっそりと貼ることだ(そんなスペースがない所も多いだろうが)。
 これで目立てば何のリスクも犯さずに済むし苦労はないのだが、こんなショボいやり方では、ほぼ間違いなく全く目立たない。「○○部」や「○○研究会」といった、"新学科"と比べると存在の格が著しく劣るしょうもない連中と並んだ「ワンオブゼム」になってしまうのは、あまりにももったいない。
 それに、何より、あの掲示板は、掲示板にビラを貼りに来た人以外、マジで誰も見ていない。それでも貼るならば、掲示板の空きスペースを全て埋めつくす、全く同じスペースに同じビラを100枚貼るくらいのことをやれば多少目立つとは思うが、それだけではまだ、"多少派手なサークル"程度の存在感は発揮できても、"新学科"に相応しい存在感は放てない。

こんだけ貼っても意外と目立たない


トイレの個室に貼ろう

 ということで、オススメは、皆が貼ってる掲示板なんかには目もくれずに、誰も貼っていない訳わからない場所にどんどんズンズン貼っていくことだ。
 例えば、大学にしろどこにしろ、その辺のベンチやその辺のテーブル、その辺の壁なんかは、誰も何も貼っていないので、大量に貼ったり、"置き忘れ"たりすると非常に目立つ。他にも、合宿免許の宣伝がたくさん入ってるラックに大量に"置き忘れ"たり、ベンチの上に貼られてる"黙食"みたいなチラシの上に貼り付けたりしても、非常に目立つし、又、非常に愉快だ。是非やってみよう。

何が黙食じゃ!!うるせぇ!!

 実際、当学科もこうしたことを実践していて、私も××学科の学科生と一緒に、その辺に置き忘れたり貼り忘れたりしまくっている。
 しかし、ここだけの話をぶっちゃけてしまうと、学科生の手前、学科長としての威厳を保つために全然怖くないふりをしているが、貼っちゃいけない所に好き勝手貼っていくのは、ホントは結構怖くて毎回ブルブル緊張している。路上喫煙に匹敵するほどの怖いことだと思う。

だ、誰かが俺を見ている気がする…。

 ビビっているのにも理由があるのだ。昔からブルブル震えていたわけではない。
 私は学科長になる以前、ただの都社共の一学生だった頃から、訳の分からぬビラを作ってその辺にバラまいていた。その際、サークル棟の壁に勝手に何百枚も貼っていたら、「一年の女子が寄り付かなくなるから辞めろや」と、意味不明の難癖で、男子学生三人に取り囲まれたりした。
 他にも、図書館の入口に、何に使うのかよくわからない謎の空白のボードがあったから、そのボード一面に、20枚くらい一気に私のビラを貼ったことがあった。その一週間後、再びそのボードを見ると、私のハイセンスなビラが剥がされていたのは当然として、なんとそこに「防犯カメラ作動中」という、非常にナンセンスな貼り紙があったのだ。

防犯カメラ作動中なんて紙を貼るやつを懲らしめるための防犯カメラを設置したい

 「防犯カメラ」はどこにあるのかわかったもんじゃないし、"一年の女子に部室寄りついて欲しい系学生"もそこら中にうじゃうじゃいて、私の活動を弾圧してこようとしているんじゃないかという気がしてくる。なんて生きづらい世の中なんだとナーバスになって腹痛を起こし、トイレに駆け込んでうんうんと悩んでいた私に、天啓のごとく思い浮かんだアイデアが、トイレの内扉に貼るということだった。

やっと見つけた〈自由〉

 トイレ個室の内扉に貼るのは、あらゆる観点から効果的だ。
 ビラを見る側からすれば、これ以上ないほどに目を引かれてしまう。トイレ個室に一度入ってしまえば、三分くらいはそのビラを嫌でも目にし続けなければならない。そして、貼る側のリスクから言っても、監視カメラも絶対にないし、個室だから、目撃した一般学生に絡まれることもまずない。
 効果が高いしリスクも低い、ローリスクハイリターン。こんな素晴らしいことはないだろう。
 ちょっと監視カメラが増えたりちょっと他人の目が厳しくなっただけで、「われらの社会から〈自由〉も〈公共圏〉も失われてしまった」とか、訳知り顔で色々ほざいている輩が多いが、そういう連中は全員ダメだ。
 大学にしろ公園にしろ、それらのトイレの個室にはいまだ〈自由〉は存続しているのであって、トイレ個室内扉こそが新しい〈公共圏〉の形なのだ。トイレ個室には未だ、デモクラシーの萌芽が宿っている。

 マジメに話すと、トイレの個室の内扉作戦のデメリットは、同性にしかリーチできないことだ。異性の協力者を獲得したら、異性側の個室にも貼ってもらおう。
 (トイレが性別で分断されている状況は、政治的な意見の場、対話の場が、性別で分断されているも同然のことであり、性別によるトイレの分断は、運動の弾圧に他ならない。ホントに結構困るので、冗談とかじゃなくて結構マジでなんとかしてほしい。)
 

民主的調和に亀裂を走らせよう

 さて、ここまでマニュアル通りにことを進めていれば、①何かに苛立って、②怒涛の長文を書いて、③目を引くビラを作って、④タダで無限に印刷して、⑤そこかしこにビラを貼ったはずだ。
 この段階で既に、「○○部」とか「○○研究会」とかほざいてるそんじょそこらの"趣味勢"とは比較にならない、"新学科"に相応しい強烈な存在感を放っててているに違いない。
 大学キャンパスで以上のことをやっていれば、恐らく、そこの大学の少なくない数の学生が、"新学科の創設"を知っている状況になる。そうなれば、後は"口コミ"を通じてどんどん広がっていく。
 第一章で「何か言う人」になれた後、ここで「それを聞く人」も大量に獲得することに成功した。これで、一応の最低条件二つはどちらも満たしたことになるから、君も晴れて、学科長志望者から、ひよっこ学科長になれたことになる。

 この段階で、例え誰からも連絡が来ないとしても、充分に価値のあることをやっていると思う。「ちょっと変な人」が集まって教養を高め合ったりセンスを磨き合ったり心に寄り添い合ったりするサークルや研究会よりも、遥かに正当な"運動"であるはずだ。
 何もない、政治的調和が完全に保たれた日常空間に、一筋の亀裂を入れる。それはすぐにかき消され、何事もなかったかのようにまた政治的調和が回復されるだろう。しかしそれでも、そうした一筋の亀裂の反復こそが"運動"であるに違いない。

 また隙を見つけて自分語りすると、インターネットで、「都市社会共生学科」と調べると上から4番目に当学科のSNSアカウントが出てきたり、一般学生から周知のものとして扱われたり、教員会議に挙げられて議論になったりしていることは、「はじめに」で既に書いた。
 それ以外にも、当学科は、数百枚のビラを一気に大学中にバラまくことを、月に二回ほどやっているが、それをやるたびに、SNSでは当学科への直接の言及から、侮蔑的なエアリプまでが飛び交ったり、教員も当学科についてゼミで議題に出したりする。横国の世情は私が浮きすぎてわからないが、口コミでも相当あれこれ言われているに違いない。恐らく、「都市科学部」の学生は9割が当学科の存在を知っているだろうし、横国全体に話を広げても、半数程度が当学科の存在を知っていてもおかしくない気がする(これは何の根拠もない私の勘にすぎないが)。
 横国というのは本当にびっくりするくらい何もなくて、"学生文化"みたいなものが皆無な大学だが、そんな大学でこれほどの存在感を放ち、刺激を与え、議論を生んでいる。まだ何も変えられていないのはそうだが、平穏な表面にこれほどひっかいた爪痕を残せている段階で、固有名詞のうんちくを延々垂れ流すだけのインテリ左翼や、ただ似たような連中でおしゃべりすることを"対話"であり"議論"であり"運動"なのだと僭称する行為よりも、遥かに秀でた"政治"であり"運動"だと自分で思う。
 
 それを可能にするのが、ここまでに説明してきた、「学科長システム」という優れた方法論なのだ。そしてこれくらいのことを、取りあえずある程度以上の大学全てで起こせれば、ひとまずのところ「学生運動」の復活と言える状況になるとは思う。
 私自身は、これからは、横国以外の大学や、或いはその辺の公園などでビラを置き忘れまくるつもりだ。
 とにかく、"サブカル"や"学生文化"や"学生自治"からは切り離されちゃっている人は、早く"学科長"になって、ポスト自治的路線を追求してみてほしい。

 ここまでで、既に学科長の基本条件はクリアした。しかし、知名度だけが先走りしていく状況では、"一人学科"というべき状況なのであって、まぁそれはそれで面白いのだが、どうせなら、"学科"らしく、たくさんの学科生がいた方が、集団形成としても盛り上がるだろう。
 第三章では、"上級編"として、「それを支持する人」を増やす方法を記す。
 (言うまでもないが、「それに反対する人」は増やそうと思って増やせるものでもないので割愛。しかし、いた方が面白いとは思う。)



第三章 "学科生"を獲得しよう

 上級編として、「それを支持する人」である"学科生"の獲得の仕方を説明する。
 といっても、当学科が現在進行形でここで苦しんでいる。この「"学科生"の獲得」に展望が見えなさ過ぎて、半ば諦めてしまっている。だからこんな『完全学科長マニュアル』を執筆することで、学科長を増やしまくる路線にシフトチェンジしている所も実はあるくらいだ。
 そういうことなので、この第三章に関しては、私もあまり自信がない。むしろ、私以外の学科長同志諸君に、アドバイスを頂きたいと思っているくらいである。
 ともかく、あれこれ御託を並べてもしゃーないので、ぱっぱと書いてしまって、さっさと結論となる終章に移ろう。


友人に情熱でゴリ押そう

 もしも、同大学或いはそうでなくとも、一人か二人でも、面白がってくれるかもしれない知人がいたとしたら、第二章「布教しよう」段階に入る前、第一章「主張しよう」までのプロセスを終えた段階で、協力を仰ごう。
 (もしも知人がいれば、である。いなかったらこの節読む必要なし!!)
 この時、文章なりなんなりを何も用意していない段階で、「一緒に学科を創設しよう!!」とか呼び掛けても、成功する見込みは薄い。そんなフワフワした呼びかけで応じる奴は、普段から運動のことしか考えていないヘンタイに限られるだろう。
 しかし、手ぶらでは成功しなくても、大量の文章を見せて、こっちのアツさを具体的に示しておくことで、面白がってくれたり、協力してくれたりする見込みも出てくる。これは私の実体験でもある。

手ぶらじゃなくて…
量でゴリ押す!!

 学生という生き物は、既存の運動と己の差異についてしか考えていない生き物だと私はずっと思っていた。しかし、どうやらそんなことはなく、多くの学生は、フツーに大学の授業のことや友人関係のことや、或いは"シュミ"に過ぎないカルチャーや人文について、深刻ぶってあれこれ考えているらしい。この点はよく注意しないといけないだろう。
 常日頃から既存の運動と己の志向性の差異について考えている様な"学科長志望者"とは違う、割とフツーの人を面白がらせるには、抽象的な議論よりもやはり、具体的なブツである。怒涛の長文を見せて説き伏せよう。


直接会おう

 今度は、「既得権益層」じゃなくても出来る方法だ。
 前章までで獲得した知名度を活かして、直接会っていこう。
 直接会う際は、とにかく盛り上がることを心がけよう。フツーに友達作りなんてしてても、「○○部」とか「○○研究会」と何も変わらない。せっかく"新学科"なら、とにかく盛り上がろう。
 直接会う際は、学科長システムの「権威性」を生かして、「講義」とか言ってみるのも手だ。来た人に自由に喋ってもらったり、気持ちよく話してもらったりすることに拘り過ぎると、いつの間にか、心温まる交流の場が出来ていて、単なるサークル活動みたいになってしまう。そんなんだったら、一方的にまくしたてて、新学科に相応しい、心沸騰する運動の場を無理矢理作り出そう。

伝説の初回授業


色々頑張ろう

 とにかく、色々頑張ろう!!頑張れば何とかなります!!

どうすればいいかなんて知るか!!



終章 一大学に一学科長

 二万字を超えた学科長マニュアルも、この辺で終わろうと思う。

 最後なので色々ぶっちゃけてしまうと、都市社会××学科の活動は正直暗礁に乗り上げている。

 勿論、noteを書いたり、キャンパスをざわつかせるステキなビラをバラまいたり、その他パフォーマンスをしたりしていくことはこれからも可能だ。
 それでも得も言われぬ閉塞感があるのは、何というか、悪い意味で「クリエイター」みたいな感じになってきているからだ。
 私としてはあくまで「運動」を志向しているのに、何というか、「運動」の割には、盛り上がりを消費する人に対して、それに参入してくる人の割合が圧倒的に少ない(いつの時代もそんなもんなのかもしれないけど…)。
 ××学科の活動も、何というか、集団の活動というよりかは私一人の活動みたいな感じもある。協力者はいるが、それでも、何というか、私個人のキャラで突っ走ってるところがある。
 そもそも、志向しているものがあまりにも特殊過ぎて、他人を巻き込めないという所もあるし、属人性の強さというものは、学科長システムの根本の問題というところもある。

 しかしそれよりも、正直、私の性格の問題が大きい気がする。
 端的に言えば、私は、うまく人と人とをつなげてネットワークを作ったり、或いは、他人と協力して共同作業を進めることに信じられないくらい向いていない。そういうのが下手だし、かつ、そういうことをすることの愉しさが根っから一切全く分からない。
 少なくとも、一桁人の規模から始まるミクロな運動に関しては、「自分含めてみんな勝手にやってるだけなんだから、協力したいときだけ協力して、イヤだったら協力しない。自己責任。」って感じの、バリバリの自己責任論を私は思っちゃうタイプで、多分、人非人なのかもしれない。
 (生存がかかった社会的経済的なことに関してはこの限りではないけど。)

自由にやろう!!

 とにかく、"学科長"として、"学科生"を包摂するみたいなタチの人間ではないのだ。
 しかし、どうも、人を勝手にアツくさせてついつい何かを勝手に始めださせてしまうことには向いている気もしなくもない。ということで、包摂する"学科生"を増やす路線ではなく、むしろ、既存の思想的包摂を突き崩してしまう"運動"を開始する"学科長"を増殖する路線を考えたい。
 よく考えたら、私自身、たくさんの学科生と一緒に、シェアハウスか何かで相互に包摂してみんなで理解し合いながら一緒に生きていく("共生"!!)よりも、対等な"学科長"何人かと、どうすれば既存の包摂=共生を突き崩す運動が実現できるかを議論してやって行く方が楽しいことに気付いた。

(この辺は、優劣というよりかは好みの問題だろう。強いて優劣をつけるならば、冷静に、理解し合いながら共生しようとする共生学科的志向性の方がエライ気がする。)

(私は横国に在籍しながら、横国に包摂される横国生を批判する運動をしていることになる。しかし、価値観的、問題意識的にはまだしも、制度的にはバチコリに包摂されてしまっている(そしてその"包摂"を抜け出す気もそんなにない。卒業してフツーにどこか就職したい!!)ことこそが都市社会××学科最大の弱点だ。理論的に言えば、大学生ではない人間が学科長になる方が、徹底した包摂批判になって強い。)

 みんなも学科長になろう。
 一大学に一学科長が出来て、各大学で相当な存在感を発揮する状況を作れれば、日本の学生運動の情勢は大きく変わるはずだ。
 「多様な学生文化」という既得権益に与れる層で"ハイセンス"で面白い"歓談に興じたり、失われた「学生自治」の似姿を大学の外部に求めたりするものが、今の"運動"の主流な気がする。その志向から切り離された試みというものは、私の視野からは中々見えてこない。
 しかし、既存の"学生文化"にも"学生自治"にも授かれない不毛の地でこそ、新しい何かを模索する、質的な意味でラジカルな何かが出てくるはずだ。「学科長マニュアル」が、そうした新しい模索の1つになることが出来たのであればうれしく思う。


「『完全学科長マニュアル』 解説 "学生運動"が終わって"学科長運動"が始まる」へ続く。



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