科学の限定性(あきひと)

このコラムは2021年の春休みに行った、早稲田哲学カフェメンバーによるコラム企画の際にFacebookに投稿したものです。こちらはメンバーのあきひとによるものです。ぜひお楽しみください♪

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

~科学の限定性~
科学というのは、現代においてある種、正しさの象徴として考えられているような気がします。この文章の中では、私が思う、科学が根本的に抱える欠陥あるいは限定性について指摘したいと思います。


まず、科学は突き詰めればいずれ物事のあり方の真理を明らかにできるという考えが少なからずあります。しかしこれは誤謬だと思います。例えば、私たちはいかにして物を見るでしょうか。科学はこれについて多くのことを明らかにしました。対象から反射した光が網膜で像を結び、それが電気信号に変換され、視神経を通って視覚野に伝達され、、、といった具合です。僕は脳科学の専門家ではありませんが、知ってる範囲で誤解を恐れずに言うと、私たちは、ものから反射された光がある種の電気信号として脳のある一部分に到達することで、「物を見る」ことができます。一見これは明快な説明のように思えますが、僕はこの説明の中に何かが欠落しているような気がしてなりません。つまり、僕たちが今知覚している、対象の複製(複製というものがあれば)たるものが、脳の中でどのように現像されているか説明になっていないのです。ある種の信号が脳のある部分に到達した=対象を知覚した、と言うのはよく考えると後者の現象の何の説明にもなっていません。これらは因果関係というより、相関関係にあると言った方が正しいです。つまり、科学が行なっているのは、「目の前にあるものを見る」と言う行動のプロセスの生理的痕跡を精密に記録する作業に過ぎないように思えます。そのプロセスの説明自体は確かに、どこまでも「客観的」で「正確」かもしれません(それが科学が信奉される所以です)。ただ、なぜ私たちは「今見ている物」を「見る」ことができているのか、と言う質問に本質的に対峙した時、科学は何の力も発揮できません。こういった科学的説明の表層性というのは、この知覚の問題に留まらず、ほとんど全てのことに一般化できるように思えます。


科学が抱える問題について、まだ色々と話そうと思っていましたが、予想以上に文字数が膨らんでしまいました。私が思うその他の問題について要約して書き加えてもいい気もしますが、中途半端な説明で誤って伝わるなら最初から言わない方が良さそうです。もちろん私が言ったこと、まだ言っていないこと、何一つ正しい保証はありません。しかし、この文章が少しでも皆さんの思考の刺激になっていたら嬉しいです。


あきひと

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?