相続放棄〜生き別れた父の死〜(前編)②

2022.2.23(水・祝)父の終の住処とは


不動産査定一括サイト、というものがある。

数年前、自宅を新築した際にそれまで住んでいたマンションを売却するために利用したことがある。住所や部屋番号、広さや間取りを入力すれば、複数の不動産買取行者や仲介業者が見積もりをしてくれる便利な仕組みだ。


K市役所から届いた「固定資産現所有者申告書」には、登録名義人である父の死亡時の住所が鉛筆書きで薄く書かれていた。一括サイトを利用する前に、Googleマップにその住所を入力してみる。西武鉄道の駅から徒歩5分ほどのなかなか便利の良さそうな場所だ。続いてストリートビューで建物の外観をチェックする。古びたコンクリートがむき出しの、いかにも昭和に建てられましたという、アパートと呼ぶのかマンションと呼ぶのか分からない躯体を晒していた。父はここでどんな暮らしをしていたのだろう。賃貸ではなく持ち家だが、裕福と言えるほどの生活は送っていないだろう。パソコンに映し出された風景からそんなことを想像していた。


次に不動産情報サイトに建物の名前を入力してみる。1984(昭和59)年に建てられた、5階建ての「マンション」とある。入居者を募集している部屋については価格や間取り、室内の写真も掲出されていた。おおよその建物の概要はこれで把握できた。


査定一括サイトにアクセスし、住所、マンション名、部屋番号を入れる。間取りははっきりしないが、先ほどの情報サイトに出ていた他の部屋の間取りと専有面積を入れておいた。


40年前、父が出て行った後、ぼくと弟、母は引っ越すことなく家賃月3万円の木造アパートに住み続けた。1階に畳6畳の居間と同じくらいの広さのダイニングキッチン、風呂とトイレがあり、階段を上がって2階には6畳の寝室と板張の4畳半の部屋が2つあった。3人で暮らすには十分な広さだった。ただ、薄い壁1枚隔てた隣の物音や声はよく聞こえたし、玄関ドアの真上に隣の家の台所の換気扇があったので、ドアの表面は油汚れがこびりついていた。二層式の洗濯機は屋外に置かれ、脱水槽の中が家の鍵の隠し場所だった。


しかし、小学校から下校して放課後過ごす場所はここではなかった。自転車を漕いで、自宅から500メートルほど離れた母方の祖父母宅で夕方までいることが日常だった。そこには保育所代わりに弟が預けられ、ぼくも学童保育のようにここで宿題をしたり、和菓子を作っている祖父の手伝いをしたりしていた。そして夕方になると、祖母と一緒に自宅に戻る。仕事で帰りが遅い母の代わりに、夕食の支度や洗濯物の取り込みは祖母がしてくれていた。


まだ両親が正式に離婚する前、ぼくが小学1年生の学年末頃だったと思う。いつものように祖母と弟と3人で祖父母宅から自宅に戻り、脱水槽の中の鍵で玄関を開けると居間に父がいた。約半年ぶりに見る姿だった。7歳のぼくは、あまりの嬉しさに父に飛びついた。弟も多分同じように寄って行ったと思う。お土産におもちゃももらったから、ぼくたちはさらに上機嫌だった。そのときは父から長期出張だと説明され、それを信じ込んでいた。けれど、後で聞かされたのは別の理由。つまりは別居であり、もっというと他の女の家に転がり込んでいたようだ。この話はぼくが思春期を迎え、中学生か高校生になってから、祖母が教えてくれたことだ。祖母はさらに、ぼくが知らなかった恐ろしい事実も告げた。


父が帰ってきた日の夜。両親は今後のことについて言い争っていたらしい。ぼくと弟は2階の二段ベットで寝ており、全く気づいていなかったのだが、ついに父は母に手を上げた。身の危険を感じた母は、靴も履かずに裸足のまま飛び出し、祖父母の家に逃げ込んで助けを求めたという。今なら立派なDVであり通報すれば警察が駆けつける事案だが、当時はDVなんて言葉もないし、夫婦喧嘩に警察が介入するなんてありえない話だった。


翌日。父はまた「長期出張」を理由に家を出て行った。朝家を出る前のぼくに父は「お父さんが大きな車を買って、お前を迎えにくるから、今度はそれに乗ってどこかに遊びに行こう」と言ってくれた。乗り物好きのぼくは「大きな車」に興奮して、飛び跳ねるように集団登校の集合場所に向かった。集合場所は家から学校に向かうのとは反対方向のところにあった。そこで、上級生から下級生まで10数人が集まり、ぼくは自分の家の前を通り過ぎて小学校に向かう。


すると、門の前に父が立っていた。今までこんなことは一度もなかった。父は集団登校の輪の中にいるぼくに笑顔で手を振った。それが、ぼくが最後に見た父の姿だった。


不動産一括サイトの返事は3つの不動産会社から立て続けに入ってきた。どれも、入力した情報だけでは金額提示が難しいので改めて電話で詳細を聞かせてほしいというものだった。しかし、詳細なんてわからない。遺品はそのまま置き去りにされているかもしれない。どうしたものかと首を傾げていたら、妻が口を挟んできた。「お父さん、どこで亡くなったんだろうね。まさか、家?」


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