相続放棄〜生き別れた父の死〜(前編)⑤

2022.2.26(土)離婚後のぼくたちと父


両親の離婚が成立したのは、1982(昭和57)年、ぼくが小学校3年生の時だった。母が珍しく泊まりがけで家を不在にしたことがある。当時、東海道・山陽本線を何本も走っていたブルートレイン(寝台列車)で東京に行くと言うので、乗り物好きのぼくは、母が何のために東京に行くのかには全く興味がなく、ただただ「あさかぜ」に乗ることが羨ましかった。裁判所に行って協議なのか調停なのかは知らないけれど、離婚を成立させてきたのだろう。


父がいなくなったわが家は、分かりやすいくらい荒れた。母は仕事が終わる時間よりずっと遅くに帰ってきて、時に泥酔状態だったこともあった。ぼくはぼくで、親や祖母からおつかいを頼まれたとき、釣り銭を誤魔化してポケットに仕舞い込むようになった。学校の宿題をサボるようになり、担任教師だけでなくクラスメイトからも睨まれるようになった。当時の小学校は「班で連帯責任」が当たり前の指導法だった。クラスに6~8つ作られる「班」単位で給食当番や掃除当番が決められるだけでなく、その班の1人でも掃除をサボれば班員全員が居残り。1人でも宿題を忘れれば班員全員で居残り。そんなことを普通にさせていた。ぼくのせいで、数人が毎日のように居残りさせられる。今となっては申し訳ない気持ちでいっぱいだが、それと同時になぜ彼らが巻き込まれなければならなかったのか、不思議でならない。当然、目の敵にされいじめ同然のこともされた。でも、その責任の一端はぼくにもある。ぼくはたびたび「お父さんと一緒に暮らしたい」と泣きながら訴え、母や祖父母を困らせた。貧しい生活に嫌気が差していたのもあるが、大半の理由はいじめから逃れたいためだった。


学校の話でもう一つ思い出すのは、クラス名簿に書かれた「保護者名」だ。住所や電話番号に加えて保護者名が書かれたものが、学年の最初に全員に配られる。ほとんどの子の保護者名は父親の名前だ。しかし、ぼくとあと1~2人は母親の名前が書いてある。大して仲がいいわけじゃないクラスメイトが「なんでお前ん家は、お母さんの名前なん?」と聞いてくる。「リコンしたから」なんて恥ずかしくて言えない。「仕事でずっとシュッチョウに行ってるから」と誤魔化す。「ふーん」と大抵の子はそれで終わる。あるとき、ぼくが虫歯の治療のために歯医者に向かっていると、クラスメイトに会った。ぼくが「歯医者に行くんだよ」と教えるとその子は「お金持ってないじゃん。なんで?」と聞いてきた。ぼくが手にしていた健康保険証には、母子家庭だけに配られる子供の医療費が無償になるピンク色のカードが挟まれていた。咄嗟にそれを隠して、何か適当なことを言ってその場をしのいだこともある。両親の離婚を他人に言えるようになったのは高校生になってからだ。


自宅のノートパソコンを開くと、2日前に電話をかけてきた不動産会社からメールが来ていた。見積もりは提示されていない代わりに、法務局の登記情報をインターネット上で入手し、その内容が添付されていた。それによると、父はこのマンションを1984(昭和59)年に購入していた。両親の離婚が成立した2年後、この物件が建てられた年に新築で購入していたということだ。住宅金融公庫で住宅ローンを借りており、抵当権が設定されていた。しかしそれは、2009(平成21)年に抹消されている。住宅ローンが完済されたという証明だ。


離婚を成立させる時、母はブルートレインに乗って上京した。もしかしたら、父は東京都内かその近郊にいるのではないか、という推測はその当時からずっとあった。ぼくは大学を卒業後、1997年に福岡の会社に入社し、ずっと福岡市内に自宅がある。しかし、入社4年目の2000年の秋から年末にかけての3か月間、会社から出張が命じられ、東京にマンスリーマンションを借りて滞在していた時期がある。夏に息子が生まれたばかりのこのタイミングで、赤ん坊を抱けないもどかしさに悶々と過ごしていた。しかしあるときふと、東京にいる間にできることがあるのではないかということに気づく。20年前に家を出て行った父を探そう。この街のどこかにいる可能性が高いのだ。仕事用のパソコンで、父の名前を検索した。当時、スマホなどまだなく、インターネット接続はダイヤルアップからADSLになって間もない頃だった。しかし、それまではネットで情報を発信することは一部の大企業や団体だけだったものが、小さな飲食店や個人でさえも可能になった時期でもある。「Web2.0」なんていう言葉も登場した。情報発信に熱心な大学のゼミやサークルは、ご丁寧にメンバー全員の顔や名前を公開して、時代を先取った気になっていた。父の名前もネットの検索で見つかるかもしれない。宮岡治朗という、同姓同名はあまりなさそうな名前だ。検索結果を見る。勝手に「宮岡治郎」と、「郎」の字が違う結果が多数上がってくる中、1件だけ、「朗」と表記されているものがヒットした。洋菓子の輸入を手がける会社の人事異動に関する情報で「品川支店長・宮岡治朗」とあった。心拍数が一気に加速し、頭の血流量が増え、顔は自然と紅潮してきた。震える指先で会社を調べる。本社は東京都内にあった。ここを訪ねれば、父に会えるかもしれない。仕事が休みの日に行ってみるか、あるいは電話をかけるかーーー。しかし、会ったところで何をするというのか。恨みつらみをぶつけて、土下座を要求するのか。いや、そんなことは求めていない。かといって、元気な姿を見せられてよかったよ、ぼくも結婚して、父さんにも孫ができたよ。笑顔でそんな報告をするのか。それも違う。結局、本人かどうかの確認もすることはなく、会いに行くという行動に移すこともなかった。

それからさらに22年経った今、目にした登記情報。2000年と2022年、2つの情報をかけ合わせてみる。父は、再婚した妻に先立たれた後も、サラリーマンとして真面目に働き、支店長という肩書をもらった。2000年といえば父は51歳。そして9年後の2009年、60歳の定年と同時に住宅ローンを完済した。そんな人物姿が浮かぶ。

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