相続放棄〜生き別れた父の死〜(前編)①

2022.2.22(火)市役所からの通知

父が死んだ。
寂しいとか悲しいとか悔しいとか、そんな感情は一切湧かない。
涙の代わりに床に落ちたのは「なにこれ?」という独り言だった。

2022年2月22日。仕事から帰宅すると、ダイニングテーブルの上には夕食と夕方妻が回収した郵便受けの中身が置かれていた。いくつかのダイレクトメールと一緒に、グレーの定型サイズの封筒が夕刊を座布団にして載っかっていた。「東京都K市役所」と書かれている。

「K市が何の用事だろうね?」誰に尋ねるともなく発したぼくの呟きに、食事やビールを運ぶ妻が訳知り顔で答える。「ふるさと納税でしょう」「いや、K市にふるさと納税した覚えはない」わが家の食卓にはたびたびふるさと納税の返礼品がのぼる。すべてぼくが申し込み、妻はそれに御相伴あずかっている立場だ。

缶ビールを一口飲んでから、ビリビリと無造作に封筒を破る。意外に厚みがあった。折り畳まれた何枚かのA4用紙の間から返信用封筒が出てくる。何かのアンケート調査の依頼だろうか。開いたA4用紙の1行目を見て、一瞬呼吸が止まった。

「このたびは、宮岡治朗様のご逝去を謹んでお悔み申し上げます。」

40年以上前に家を出たまま、一切の音信がなかった父の名前が書かれていた。その翌年、母と離婚が成立したが、その後はどこで誰と暮らし、何の仕事をし、生きているのか死んでいるのかも分からなかった。そうか、死ぬとこういう報せが来るのか。いや待て。もし父に新しい配偶者がいたり、その人との間にぼくの義兄弟が生まれていたとしたら、こんな報せは来ないのではないか。

改めて見出しに目をやる。「固定資産現所有者申告書の提出のお願いについて」とある。父が所有している不動産(おそらくは自宅)の相続手続きが済んでいないため、現所有者である相続人の確認が必要だから、添付している書類に署名捺印をして返送せよ、ということだった。

いつのまにか相続人になっていた。たしか遺言がない場合、死亡した夫の遺産は妻が2分の1、残り2分の1を子が等分して相続する。社会の教科書で習った「法定相続」だ。うちの場合、母親は父と離婚しているから、相続の対象ではない。それ以前に、母は2005年に53歳の若さで病を患い他界している。そして子はというと、ぼくには3歳年の離れた弟がいたが、彼も5年前すい臓がんで夭逝した。父に後妻がいないとすれば、法定相続人の筆頭はぼくになる。

それにしても。夕食を食べながら、もやもやしてきた。父が亡くなったのは去年、令和3年11月7日と書いている。しかし、通知が来たのは3か月が経過したいま。要するに、この書面は父の死を知らせる意図のものではない。「固定資産税を徴収したいから、確認されたし」ということを伝えるものでしかなかった。封筒には、丁寧に口座振替のための複写式の書類も同封されていた。

40年間音信不通で、縁が切れたも同然の父から納税の責任を引き継げ、だと。まっぴらごめんである。生前、母から聞かされていた。離婚協議の場で父は、ぼくと弟の親権を何ら躊躇することなく放棄し、養育費も一切払わないと言い放ったのだという。「何で養育費をもらわなかったの?」あるとき母に尋ねたことがあったが「揉めたところで払われないだろうし、とにかく早く離婚したかったから」と、子供のぼくには腑に落ちない返事だった。離婚後のわが家はとにかく貧しくて、家賃3万円の木造アパートに3人で住み、年号が昭和から平成に入っても黒電話を使い続け、エアコンもビデオデッキもなかった。高校は私立の受験が認められず、頑張って国立大学の附属校に入ったが、日本育英会の奨学金を受給しないと満足に通えなかった。この奨学金は社会人になったぼく自身が、その後の大学4年間の分と合わせて返済することになる。

とにかく、K市役所に電話をしなければ。しかし、きょうはもう日没後。翌2月23日は、令和に入ってからは祝日になっていた。天皇誕生日である。夕食を終えていつもならソファに体を沈めてテレビを見る時間だが、そんな落ち着いた気分にならず、自室でノートPCに向かって「固定資産税」「相続」などと検索を始めた。しかし、生き別れた親の相続について解説してくれるような記事など、簡単には見つからなかった。

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