相続放棄〜生き別れた父の死〜(前編)⑥

2022.2.27(日)母のこと・弟のこと


母は小柄で、子供の頃から病弱だった。離婚前から大手スーパーでパート従業員をしていたが、父との別居後はぼくと弟を育て上げるために身を粉にして働いていた。やがて、地場の食品スーパーに職場を変え、正社員に登用されたが、決して稼ぎは多くはなかった。ぼくも弟も高校進学から無利子の奨学金(日本育英会)が借りられたのも、母の収入が低かったからだ。ぼくたちの放課後の世話は祖母が担っていたが、ぼくが小学4年生のとき、祖母は子宮がんの手術を受けて入院した。そのため、夕食の支度や洗濯物の取り込みは、ぼくや弟、母が担うことになった。福山市は学校給食は小学校まで。ぼくが中学生になると、母は朝食に昼の弁当、夕食を作り、朝から晩まで働いた。そして、夜や休みの日はほとんど家から出なかった。体を休めていたのではない。友人の紹介で内職を始めていたのだ。車の部品に使うという何色ものコードを束ねる作業。1階の6畳の居間は、コードが入ったいくつもの段ボール箱で溢れた。ぼくが高校2年生だった1991年の年明け早々、長く暮らしていた家賃3万円の木造アパートは道路拡幅工事で取り壊されることになり、大家さんから退去を命じられた。わが家はさらに古くてさらに狭い木造アパートに引っ越した。家賃は3万3000円、1階の居間はわずか3畳しかなく、2階は6畳2間。ぼくと弟の勉強机を置くとベッドスペースがなくなり、布団を上げ下ろしすることになった。


その頃から母は体調を崩して入退院を繰り返すようになった。ぼくが大学受験に失敗し、予備校に通っていた1年間は、母はほとんど入院していて、弟との2人暮らしだった。その後、仕事に復帰していた時期もあったが、次第に片方の肺が冒されていき、晩年には残った方の肺から伸びる管が脇腹から出ていて、小さな袋が取り付けられていた。酸素吸入が欠かせなくなり、鼻の両穴の入り口まで管で繋がったボンベをキャリーケースのように引きずりながら福岡に遊びに来てくれたこともある。

2005年3月20日、ぼくは母のお見舞いのため博多から新幹線に乗って岡山に向かっていた。入院先の病院の最寄駅に着いたとき、福岡で大きな地震があったことを駅のアナウンスで知った。携帯を取り出し、家や会社に電話をかけるが通じない。福岡市沖にある玄界島の集落がひどく崩壊している様は、病室で母と一緒にテレビを見ながら知った。このときが、ぼくが母と言葉を交わした最後の日になった。それから1か月も経たない4月16日、義妹の電話で呼び出され、再び新幹線で駆けつけた。臨終には間に合ったが、すでに昏睡状態だった。53歳だった。ぼくも弟も就職し、ようやく自分だけの時間も、自分で稼いだお金も自由に使えるようになった矢先。幼い孫たちの成長だって見届けたかっただろう。本当に無念だったに違いない。


弟とは小さい頃からずっと仲が良かった。ぼくが同級生と遊んでいるときでさえ、同じ輪の中に入って遊んでいた。他の同級生たちにも兄弟はいたけれど、一緒に遊んだ記憶はほとんどない。小学生のころはスーパーレールという鉄道のおもちゃ、中学生の頃からはファミコン。勝敗に熱くなり、ケンカになったこともたびたびあった。2人でカブトムシやハムスターを飼育し、繁殖もさせた。天気のいい日曜日には、自転車で芦田川の河川敷を走ったり、テレビ塔が建ち並ぶ蔵王山に登ったりするのも一緒だった。狭い家の中、メガホンバットとピンポン球で野球ごっこをしたり、並べた布団で寝入るまでしりとりをしたり、そんな幼稚な遊びを、ぼくが大学進学で家を出るときまで連日のように繰り返していた。


弟は地元の県立高校を卒業し、専門学校に進学したのにわずか2日で自主退学。母が勤務していた地場のスーパーでアルバイトを始めたときには心配もしたが、そのまますんなり社員になり、高校時代から交際していた彼女と21歳で結婚。1人目の子供が生まれるまでは何年かかかったけど、そのあとはあれよあれよと男の子ばかり3人が誕生した。母が亡くなったあと祖母と弟夫婦と子供3人、賑やかに一つ屋根の下に暮らしていた。


しかし、弟に病魔が襲いかかる。2015年春、体調不良で病院を受診したところ、すい臓にがんが見つかった。治療法が進化し、がんは死なない病気になったが、すい臓がんは別。5年生存率は1割に満たない。例に漏れず、弟も手術の甲斐なく1年後には他の臓器や骨にまでがんが転移し、2017年11月に41歳でこの世を去った。ぼくが子供の頃から日々過ごしてきた家族・親族のうち、生存しているのは今年97歳になる祖母だけだ。


夜、弟の妻(ぼくからみれば義妹)に電話する。父が死んだという知らせがあったことを告げるとひどく驚いていたが、法定相続人である甥っ子たちに相続させるかどうか尋ねたところ、今度はこっちが驚くほどあっさりと「あ、そういうことでしたら放棄します(させます)」という返事。「戸籍謄本とかいるんだったらまた言ってください。私が市役所に取りに行くんで」ぼく自身も父の死に一切の悲しみはないが、義妹はなおさらだろう。

いや。電話を切ってふと思う。義妹は生涯の伴侶とこんなにも早く別れなければならなかったのは、父が家を出て辛い人生を歩んできたストレスのせいだと考えて、会ったこともない父に怒りを感じているのかもしれない。まるでぼくが、母が無念のうちにこの世を去ったのは、父が原因だと思っているのと同じように。

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