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カミュ。不条理を見つめて。

【目次】
・はじめに(長い前置き)
・カミュの生い立ち(導入)
・カミュの哲学(本題)


はじめに


今回は、僕のカミュの哲学に対する探求の結果を発表したい。

哲学に真剣に向き合うのが初めてである僕の稚拙な頭では、彼の著作をほとんど読破し、研究するにはかなり急いでも半年程度必要だった。
正直この期間に哲学への興味が爆発してかなりの寄り道をしたせいもある。これはいつものことで御愛嬌。

かなり簡潔にまとめあげたつもりである。何しろ僕の探求結果を素直に記してしまうとこのNoteだけでも10枚分くらいになってしまう。正直Note1枚に彼の哲学をまとめるのはかなりしんどかった。しかしそんな僕の努力など実は本当にちっぽけなもので、ひとえにフランス語の原文が読めない僕にとっては、翻訳者の方々のご功労に感謝するほか無い。
僕がこの深淵な哲学に触れることが出来たのは、紛れもなくそのおかげであり、翻訳者の方々の大変な努力に感謝の念を申し上げたい。


カミュの哲学はあまりに冷たく、だがあまりに温かい。これは僕の意見だが、彼の哲学や作品群は、どんな文学よりも、どんな哲学よりも、どんな思想よりも、示唆に富んでいると思う。
そしてきっとあらゆる人の人生を前向きに変えてしまう力を持っている。
彼の本を読む度、あまりの聡明さ、達観ぐあいに度肝を抜かれる。なぜあんなに若いのにここまで、、、。

カミュの哲学はよく実存主義と混同されることが多いが、本人は断固としてその関係を拒否している。
事実、無神論的実存主義者の代表格であるサルトルと、当初こそ仲の良かったものの、晩年は思想の対立により、この二人は疎遠になっている。
彼の哲学は、しばしば「不条理の哲学」と呼ばれる。

ある宗教の4世として生まれた僕だが、年を重ねる毎に宗教に懐疑的になっていった。それは僕が属している宗教という局所的なものではなくて、もっと広範の概念そのものに対してである。多くの宗教に共通する、「祈れば救われる」という礼拝の考えがあまりに残酷に思われた。宗教とはいわば明かされることのないブラックボックスであると言えよう。天界の存在や輪廻転生など、「死んでみないと」わからない。だからこそいくらでも嘘がつけるし、教祖の思いのままだ。つまるところ宗教は社会秩序を維持するための道徳生産システムであるのか、などと合理的に考えを試みた時期もあった。僕にとって宗教が課す布教のノルマや、献金による破産の問題などを目にする度に、そこには神の存在などではなく真っ黒で人為的な問題が渦巻いているような気がして気持ちが悪かった。何も考えずに宗教にすがるのがとても怖くて、ただ妄信している人に対しては何か人間の弱さを見るような気がする反面、その態度にどこか尊いものを感じることを強制される集団の中で形成された自分とのギャップに、胸がムカムカした。それは宗教を信じたいのに信じきれない自分の、幼いながら世の中を斜に構えて見ている態度に対しての苛立ちだったに違いない。ずっと心のどこかで、人間には綺麗でいてほしいという理想があって、僕はその中で宗教に懐疑的という点で汚れた存在なのかもしれないと、ひとり苦しかった。

正直、幼い僕はとりあえずは周りに合わせてはいたものの、今思えば、神が下す天罰ではなく、神の仮面を被った誰かが下す現実的な罰に怯えていたような気がする。

何よりも一番の疑問は、この長い歴史において皆が信奉している神が、いつまでも、いつまでたっても、この醜い残酷な世界に対して沈黙したままであることだった。ここに、ずっと強烈に葛藤していた。果たして、救いはいつ来るのだろうか?
そんな悩ましいときに出会ったカミュの不条理の哲学は、僕の背中を押した。超越的存在に依ることなく、ただ眼前に広がる現実を、この不条理を、明晰な理性によって直視し、あるがままに受け入れる態度、「反抗」。
僕はこの考えに出会ったとき、
「これだ」と確信した。
僕の求めている哲学はここにあった。
しかし僕は何者にも染まりたくないという歪んだ考えの持ち主だし、どんな思想に対しても常に批判的思考を忘れないようにしたい。
だからあくまで「客観性を持った分析」という立場を取らせて頂く。

普段、自分語りは好きじゃない。しかしネットの匿名性に巻き込まれてしまうと、ついうっかり親や友達にも明かすことのない自分の本音を露呈させてしまう。

オスカー・ワイルドの名言に
素顔で語る時、人はもっとも本音から遠ざかる。仮面を与えれば真実を語り出す。
という格言があるが、なるほどこれは的を射ている。まんまとこの言葉通りの行動を取ってしまったというわけだ。

主題から大きく外れて、つい自分語りが過ぎてしまった。

今日は、僕と同じように、いや、この世界の不合理性に苦しむすべての人に、彼の哲学を伝えたいと思い、書くつもりである。
今日もあなたが幸せでありますように。


カミュの生い立ち


調べればすぐに分かることではあるが、説明責任を果たすために、いちおう彼の生い立ちを説明せねばなるまい。ここは冗長であるから退屈な方は読み飛ばした方が無難かもしれない。
まあひとえに、僕からカミュ氏への敬意の徴だと思って頂こう。

アルベール・カミュ(Albert Camus)。
彼はフランス領アルジェリアに生まれた。父は第一次世界大戦で戦死し、母には聴覚の障害があった。祖父母と同じ屋根の下で暮らしたが、家はとてつもなく狭く、読み書きできる者は一人もいなかった。激しい貧乏の中で、むろん彼は本を一冊も持たなかった。
こんな家の中から、後にノーベル賞を取る文豪が生まれるなどと、誰が想像できただろう。カミュにとって、アルジェリアの眩しい太陽が反射する地中海の大自然こそが、最大の財産であった。彼はそんな苦境にあっても、後の恩師であるルイ・ジェルマンにその才能を見出され、家系的には到底高校や大学など進学出来るはずもなかったが、師の計らいによって奨学金を受けることが出来た。こうして彼は高等教育を受けることができた。しかしリセ(高等学校)では、余りに周りが裕福な家の出であり、貧民出身のカミュは周りと話を合わせたり、馴染むことが出来なかったそうだ。
大学を卒業したあと、彼はジャーナリストとなり、ナチスドイツの危機が迫りくる中で、文学を執筆する機会に恵まれた。彼の作品は発表される度に文壇で高い評価を得ており、「異邦人」、「ペスト」などの作品群の評価は今でもあまりに高い。
しかし、哲学エッセイ「反抗的人間」を執筆した際に、当事世を席巻していた実存主義者たちからの痛烈な批判を喰らい、文壇から、ひいてはフランス国内で孤立していくようになる(カミュ=サルトル論争)。
なぜなら、彼は徹底的な平和主義者であり、実存主義者たちが主張する革命のための手段としての暴力を痛烈に批判したからである。
カミュは「権力の力関係を覆しても、それは終わらない暴力のサイクルを生み出すだけだ」と主張し、万人が共有する人間性への理解を確立すべきだと考えた。このため、カミュは世界的に高く評価される一方で、フランス文壇とは対立することとなってしまった。

いかなる目的があろうとも、手段としての暴力を肯定した瞬間から、堕落が始まる。」 アルベール・カミュ

1956年、「転落」、「追放と王国」を発表し、同年、ノーベル文学賞が贈られた。戦後最年少の受賞であった。
しかしアルジェリア戦争に対して反戦を訴えていたカミュに対し、フランス全土の風当たりは強く、冷淡であった。
カミュは受賞後、「最初の人間」という自伝的小説の執筆に取り掛かるが、1960年、友人が運転する車でパリに向かう途中、車が木に衝突。助手席のカミュは即死だった。事故現場から大きく放り出された彼の鞄の中には、くたびれた大学ノートがあり、その中身は「最初の人間」の原稿だった。
こうして彼の46年の生涯はあっけなく終わった。

以上が彼の人生の概略である。カミュは何よりも時代の妥協しない証言者であった。彼は絶えずあらゆるイデオロギーと闘い、実存主義、マルクス主義と対立した。この意味で彼は20世紀のもっとも高いモラルを体現した人物の一人であると言える。

導入は以上だ。いよいよ本題に入ろうと思う。
カミュを語るには実存主義への理解が欠かせない。本題とは関係無いながらも実存主義の説明が多くなってしまうこと、ご了承願いたい。



カミュの哲学


私達は偶然この世界に生まれ落ち、理由も分からず、ただ生きることを強要される。意味不明に苦痛を感じながら生きている。もちろん世界は自分の思い通りに動くわけでは無いから。こうした自己と世界との決定的な断絶そのものを「不条理」と呼ぶ。
近代以前では、神や、その他それに近しいものを信仰し、その存在が定める「生の意味」を自らの存在意義として定義できた。
しかし現代はどうだろう。科学などの発展により、神は近代以前の力を失った。したがって人々は自らで「生きる意味」を探し求める必要性に駆られたのである。
その最中に現れたサルトルの「実存主義」とは、いわば世界における真実や、存在における本質うんぬんよりも先に実際ここにある存在そのものに目を向ける必要性を説くものである。
特にサルトルが説いた「実存は本質に先立つ」という言葉はご存知の方も多いだろう。
存在に本質はない。つまり、私という存在に先立って設定されている意味のようなものは存在しないというわけである。
そういえば人間が「運命」だとかやたら意味づけをしたがるのは左脳の性質によるものだという論文をどこかで読んだ気がする。おおかた実存主義はこの意味付けの呪いから脱却するものだと言っていいだろう。(しかし、先天的な意味付けに待ったをかけているだけで、後天的な意味付けに関しては肯定的であることに留意されたい。ここが後々重要になってくる。)
実存主義を突き止めると「即自存在」や「対自存在」などと小難しい話が絡むのだが、それはまた別の機会にするとしよう。しばらく話が反れた。
カミュもこの人間には先天的な意味が存在しないということには同意している。しかしカミュと実存主義との思想の分かれ目はこの先にある。
サルトルは本質的に意味のない人生に対してそれでも意味を付与することを目指す。後天的な意味付けである。彼は「人間は自由の刑に処されている」と言った。すなわち、人間には本質的に意味が存在しないからこそ、意味づけにおいて自由である、と。自由に生きることができる、と。しかしそれがゆえに行動には責任が伴い、意味の非存在性において人間は苦しむことになる。この意味で、「自由」でありながら「刑」なのである。
彼は自由の刑に処された人間は他者からの拘束ではなくむしろ自らを拘束することにより内側から生きる意味を設定・受諾することができると考えた。その自らへの拘束こそが社会参加や政治参加などのことであり、これをアンガージュマンというのである。
しかしこの思想はサルトルを行き過ぎた社会活動、つまりはマルクス主義に傾倒させることになる。
先ほども述べた通り、目的は手段を正当化する、として彼は共産主義革命による暴力を肯定した。
これにカミュは反論し、革命におけるいかなる暴力も否定すべきというスタンスを取るのだ。
それだけではない。
カミュは先天的な意味の非存在性という点では実存主義と考えを共有しながらも、実存主義者が行う「意味のない人生にそれでも意味を付与する」行為そのものは否定する。これが先程述べた「カミュと実存主義との分かれ目」である。存在に先立った本質はない、ならば私達の生に特別な意味が無いのがある種、自然の摂理であると。
本質なき人間にそれでも本質を付与しようとする行為は反理性的だと主張し、実存主義者がやろうとしているのは摂理に背く行為である批判した。
そのような行為、つまり世界との断絶を無理やり埋めようとする行為は世界との断絶をより広げる結果になってしまう、実存主義的アプローチは人間の苦痛を増幅させてしまうと警鐘を鳴らしたのである。
彼は実存主義者は不条理の存在を認知しながらもその存在に向き合っていない点において「理性の放棄」であり「哲学上の自殺である」と断罪した。
で、あるなら。我々は不条理とどう向き合うべきなのか?

希望か、自殺か。

この話をここまで聞いてくださった頭のおかしい読者の方々には、「自殺」はある種この不条理な世界に対する合理的なアプローチに思えるのでは無いだろうか?すなわち、
本質的に意味がないなら、この世界からいつ退場してもいいのではないか、と。カミュはこれに「否」という。
人が自らを殺すことには一貫した合理性が存在しない。むしろ生物の身体は「生きる」ということにベクトルが向いている以上、自殺は常に理性を超えた突発的な行為であり、それを不条理への向き合い方として認めることは出来ないのである。

であるなら希望はどうだろう。
人生に希望を持つことで不条理に打ち勝てるのでは無いか?
これも「否」とカミュは言う。真の目的が存在しないこの人生において、それでも人生に意味を見出そうとするのは、あらゆる信仰と変わらない。思考を放棄してただ願うという行為を認めることは出来ないと告げる。本来的に意味がない人生にはそれに先立つ希望も存在していないのであるから、意図的に希望を付与するという試みは、世界の構造に対して間違った対応の仕方であるからだ。こうした行為は世界との断絶を広げ、対立関係を創出する行為に他ならないだろう。それでも希望にすがろうとするのは宗教的な信仰と何ら変わらないものであり全く理性的であるとは言えない。

もはやこの世界に対して、この不条理に対して、実存主義も、宗教も、正しい向き合い方では無いと分かる。こうすると僕たちはどうすれば良いのか全く分からなくなるだろう。まあその、「どうすれば良いのか分からない状態」こそが不条理であるという皮肉であるのかもしれないけれど、、、、。
僕たちは不条理に向き合えないのか。もはや向き合うことは出来ないのか。
カミュは言う。

「いや、一つだけ方法がある。」

それは、
不条理を不条理のまま受容する
ということである。
練りに練った哲学的構想や実存主義批判から一転、この結論は至ってシンプルだ。
世界は不条理であり、僕らはその中に投げ込まれた偶然的な存在であることを認識し、ただ生きること。これが正しい不条理への対処法だとしている。
我々生物には、特に人間には顕著だろうが、「無限の労苦」のような性質があると言える。わけもわからず偶然的にこの世界に投げ込まれた僕たちは、基本的には毎日同じことを繰り返すことを強制されるのだ。
まさにこの状況は「不条理」と言えるだろう。そしてその不条理に対し、
そうか、それなら仕方ない」と受け入れ、ただ日々を過ごすこと。
すなわち毎日を納得して「ただ生きていくこと」、これが彼の主張した人生やこの世界に対する態度なのである。

⚠注
(仕方ない、というこの態度をカミュはキリスト教のシーシュポスの神話という話に託して説明するのだが、これについても簡潔さを維持するために省略させて頂く。このようにカミュの哲学を論じるに当たって、あくまでこのNoteはダイジェスト版としての簡潔さを守るために大幅に話を削っている箇所が数多くある。もっとカミュを深く知りたいと思う方は是非ともご自身で文献に当たって頂きたい。)


ちなみに、彼は不条理に対する以上のような態度を「反抗(ノン)」としている。これは明晰な理性を以てこの現実世界を直視しし続ける態度のことである。(希望も絶望も持たずにただ生きること、と言い換えても良いかもしれない)これについては、既に絶版となった著書「反抗的人間」の中で詳しく記載がある。(図書館で借りたのだが、引用箇所を記録するのを忘れてしまった)

ここで言う反抗とは不条理に対する直接的な反抗ではありません。仮に私達が不条理を受容し、それを納得してただ生きた場合、その精神を揺るがすような外的刺激がひっきりなしにやってきます。こうした自分の覚悟を揺るがすような外的刺激に対する姿勢が”反抗”なのです。」-反抗的人間-

先ほど記した通り、カミュは当時圧倒的な力を持っていた実存主義やマルクス主義、あるいはそれに伴った革命の機運に対して徹底的に「反抗(ノン)」の姿勢を貫いていた。彼の著作の大半は、主題が「不条理」であり、このことからも彼が不条理との向き合い方を後世に遺したいという意思が垣間見えるし、何よりその人生を以て哲学を行ったという点において、僕には彼が史上最も実践的な哲学者の一人であるように思われる。
皮肉ながら、交通事故で生涯を終えるあたり、どこまでも不条理を体現した人であったのだと感じざるを得ない。

総括すると、本質的に意味のないこの人生にそれでも意味を見出そうとする行為が理性の行使ではなく、むしろ理性の放棄(哲学上の自殺)であるならば、仮に人生に意味的なものが見出されるのは自身の人生を振り返ったときのみだろう。そういう意味で「生がなんであるか」というのは実際に生き続けてみないと分からないのであり、不条理を生き続けることが、真の理性の行使だと、彼は考えているのだ。

超越的なものにすがるのをやめ、自らこの世界を退場することもやめ、ただ己の眼に映る不条理な世界を生きようぜと、かくも温かく、冷たく、現実世界に根を降ろして前を向かせてくれるカミュの哲学。
この冷たい徹底した合理性の中に、人間の情念が介入する余地はない。事実、カミュは自殺の否定と共に、希望を持つことさえ否定しているのだから。しかしだからこそ、この淡々とした無機質な事実は、何も語らないゆえの温かさを帯びており、歩を進める足を支えてくれるように思われるのである。

あなたには、カミュの
君は生きているだけで偉いのだ
と我々を温かく励ます声が、聞こえないだろうか。





参考文献

-異邦人 窪田哲作訳- 新潮文庫
-革命か反抗か―カミュ=サルトル論争― 佐藤朔訳- 新潮文庫
-最初の人間 大久保敏彦訳- 新潮文庫
-シーシュポスの神話 清水徹訳- 新潮文庫
-ペスト 宮崎嶺雄訳- 新潮文庫
-転落・追放と王国 大久保敏彦、窪田哲作訳- 新潮文庫
-反抗的人間 佐藤朔・白井浩司訳- 新潮社〈カミュ全集 6〉※絶版

※上記の文献のいずれも原作はアルベール・カミュ氏。下記はその他の作者。

-実存主義とは何か ジャン=ポール・サルトル原作、伊吹武彦、 海老坂武、石崎晴己訳- 人文書院


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