見出し画像

吹替史講義③「吹替と新劇〜山田康雄、羽佐間道夫の登場〜」

吹替は、声優は、映画史においてどのような役割を果たしてきたか、について考察するシリーズ第3弾。前回は、戦後の「ラジオドラマ」が吹替や声優に与えた影響と共通点について考察しましたが、今回は、1950年代にテレビ放送が始まった吹替または声優に与えた影響について考えていきます。

今回は、「吹替と新劇」と題して、50年代にラジオ放送劇団員だった大平透や滝口順平などとともに、「新劇」俳優だった羽佐間道夫や山田康雄などが「吹替」の世界に登場した物語を紐解いていきます。


①テレビ局爆誕(1953年〜1956年)
さて、1880年代から1930年代までの「活弁」時代、そして1941年から1950年代までの「ラジオドラマ」時代を経て、ついにテレビの時代が始まります。

1953年にNHKと日本テレビが開局すると、その2年後の1955年にはKRT(現・TBS)が追随し、次第に家庭用テレビが普及していきました。しかし、まだ誕生まもないテレビ局は自社制作の番組だけでは膨大な放送枠を埋めることが出来ず、しばらくの間は東映、新東宝、東宝といった大手映画会社から購入した日本映画を放送していましたが、1956年に事態が大きく変わります。映画会社が五社協定を調停したからです。五社協定とは、テレビ局への作品提供や映画俳優の出演を制限することでテレビの台頭によって危ぶまれた映画会社の既得権を守るためのものですが、その影響でテレビ局はポッカリ空いた放送枠やテレビドラマに出演する俳優を調達しなければならなくなりました。

そのことからテレビ局は自社制作のドラマに新劇俳優を起用し、アメリカから輸入したテレビ映画やドラマを(開局当初からテレビ局に所属していた)ラジオ劇団員、そして新劇俳優を登用することになるのです。


②吹替爆誕(1956年〜1965年)
テレビ局は自社制作のドラマに五社協定に縛られない新劇俳優を起用し、日本映画の代わりにはアメリカから輸入したテレビ映画やドラマを放送してなんとかピンチを乗り切ろうとします。そして当時の小さなブラウン管テレビでは字幕が見にかったことから、同年KRTは「吹替」での放送に踏み切ります。

アメリカのテレビドラマを吹替で放送した理由について、吹替演出家の小林守夫は、「老若男女誰もが理解できる点」と「映画館とは異なり何かをやりながらでも観ることができる点」を挙げています。これは、橋田壽賀子ドラマにおける長台詞が、声を聴くだけで話の筋が理解できるよう配慮されたものであることと似ています。

そこで、海外映画やドラマの英語音声を日本語音声に差し替えるというテレビ局の要請に応えたのが、大平透、若山弦蔵、滝口順平らラジオ放送劇団出身者、そして羽佐間道夫、納谷悟朗、森山周一郎、野沢雅子ら新劇出身者でした。もちろん、当時は「声優」という職業は存在しなかったため、彼らは「アテ師」などという蔑称で呼ばれることもありました。

③ラジオ放送劇団員の登場
同1956年、KRT(現・TBS)が外国テレビドラマ放送第一号「カウボーイGメン」を放送します。これが、日本初の「吹替」テレビドラマになります。TBSラジオ放送劇団の第1期だった滝口順平が一人で女性を含むキャスト全員の台詞を生放送で同時に吹き替えるという離れ業をこなします。生放送であったため、残念ながら音源は現存しません。

そしてこれは、大平透がアニメ「スーパーマン」の登場人物5人全てを一人で吹き替えた翌年のことです。むろん当時の録音技術が何人もの演者が入れ替わり立ち替わり台詞を吹き込むことに適していなかったこともありますが、「吹替」の誕生には日本で発展した「活弁」や「落語」と言った一人の演者が登場人物全てを演じるという語りの文化の影響が垣間見えます。



④新劇俳優の登場
さて、ラジオ放送劇団員と同時に「吹替」の世界に登場した羽佐間道夫、納谷悟朗、森山周一郎、野沢雅子らが従事した新劇の話をしなければなりません。

新劇とは、歌舞伎=時代劇を上演することを示す「旧劇」に対して、チェーホフやシェイクスピアをはじめとした海外戯曲を上映することを差します。日本では、明治時代にヨーロッパ演劇の影響を受け、能、文楽、歌舞伎などの伝統芸能(旧劇)とは異なる、商業演劇に属さない近代劇を目指して誕生しました。「自由劇場」と「築地小劇場」を設立した小山内薫はロシア演劇のイプセン、ゴーリキーをとおして、「文芸協会」を設立した坪内逍遥はヨーロッパ演劇のシェークスピアをとおして、翻訳劇を日本の土壌のなかに定着させようと試みました。ご承知のように、一昔前に新劇界の指導的立場にいた滝沢修、千田是也、山本安英、杉村春子などの俳優は、この「築地小劇場」で学び育ちました。その流れを汲み、その後の日本における新劇の中心的存在になった「文学座」「俳優座」「民芸」が、吹替文化の礎を築くことになります。

たとえば文学座は、劇団公演以外の収入を得るために映像(映画やドラマ)へ俳優を派遣することしばしばがありますが、それと同じようにアテレコにも俳優たちを派遣しました。今や劇団の看板俳優の角野卓造や橋爪功もかつてアテレコを数回経験しています。吹替草創期、アテレコは映像の現場よりも拘束時間が短いことから若手の俳優が舞台稽古の傍らアルバイト感覚で参加することが多かった訳です。

また、日本の「吹替」や「アニメ」の歴史を語る上で最重要と言える劇団が、テアトルエコーです。テアトルエコーは、新劇の現代喜劇専門劇団(現代と言っても上演するのは今や古典のニール・サイモンや井上ひさし)で、団員には山田康雄、納谷悟朗、八代駿、田の中勇、神谷明らと枚挙にいとまがなく、養成所出身者には田中真弓や銀河万丈らがいた。この劇団がいなければ、ルパンも銭形もプーさんも目玉おやじもルフィでさえ、あの声ではなかったかもしれません。


⑤羽佐間道夫と「新劇」運動
レジェンド声優・羽佐間道夫は、前述した築地小劇場の薄田研二が設立した「東京芸術座」に所属し、薄田本人によって育まれました。
羽佐間は元俳優座所属・内田夕夜のインタビューの中で「絶対社会を私たちが芝居をすることによって、それを見せることによって、良くするんだという幼い意識はあった」と当時を振り返りますが、流行歌を歌うと仲間から白い目で見られるような(彼らのテーマ曲は労働歌だった)当時の新劇の左翼運動の中に身を置きながら、かたや生活のためにアメリカの“低俗な”チャンバラ映画に声をアテるなぞということは非常に引き裂かれるものがあったことは想像に難くありません。文学座運動はその何年も後なのですから。


上記のインタビューにおける、羽佐間の「旧劇の役者ではなく新劇の役者がアテレコに呼ばれた」という趣旨の発言に注目しましょう。なぜ新劇俳優が「吹替」に駆り出されたのでしょうか。その答えは、新劇俳優は「翻訳劇」を演じる俳優だったことに由来すると考えられます。

当時の新劇界の演劇人たちは、シェイクスピアの韻文やイプセンの自然主義的な身体性と日々格闘しながら、それを克服するための不安定で実践的な鍛錬を積み重ねていました。言うまでもなく、日本人による土着的な日本の物語を日本人が日本語で演じることと、外国語で書かれ西洋文化に根ざしたヨーロッパやロシア人の物語を日本人が日本語で演じることは、本質的に全くの別物です。劇作家・平田オリザは著書『演劇入門』の中で、「言語や身体、地域、民族、国家などさまざまなレベルで異なるコンテクスト(文脈)を演じることの困難さ」について指摘していますが、まさにそうした文化的、言語的問題を一つひとつ攻略していくことが「新劇」に従事する演劇人たちの苦難でした。まるでそれはかつての日本語ロック、日本語ラップ創成期に辿った道程にも似ているでしょう。とはいえ演劇史においては、イプセンやチェーホフを劇作家よりもイデオロジストと見た築地小劇場運動を全面的に批判する「脱政治的」演劇を提唱した福田恆存も忘れてはなりません。


続いては、羽佐間道夫と彼のインタビューに登場する仲代達矢を比較しながら、「新劇」俳優が辿った時代劇映画とアテレコの道程を見ていきましょう。

1950年代当時、俳優座(新劇)の俳優だった仲代達矢は黒澤明や小林正樹監督に見出されて旧劇(時代劇映画)の道に身を投じ、数々の名作映画で侍を演じました。仲代は舞台へのこだわりなどからいずれの映画会社に専属契約をしなかったため、「五社協定」に縛られずフリーランスとして活躍しました。ここで重要なのは、舞台でアメリカ人やロシア人を演じていた新劇俳優が時代劇に登場したという点です。それまで時代劇は、歌舞伎俳優や映画会社専属の時代劇俳優ら「旧劇」俳優の独壇場でした。また、黒澤明作品の常連俳優で映画ファンには時代劇のイメージが強い千秋実は、新劇の先駆けだった「築地小劇場」の後継劇団「新築地劇団」に所属し、イプセンを上演していました。黒澤明は、それまでの斬っても血が出ないチャンバラ時代劇を革新し、時代劇をリアリズムで描くことを指向した点で、俳優の歌舞伎的演技よりも新劇俳優のよりリアリズムの演技に惹かれたことは自明でしょうし、小林正樹も映画『切腹』で封建的な武家社会とサムライ精神のアンチテーゼを込めたことから、旧来の時代劇にはないリアリズムを求めたことが分かります。

ちなみに60年代後半から、仲代達矢主演で時代劇映画(テレビ局初の自社制作)を撮っていた元フジテレビ局員監督・五社英雄が「牙狼之助」シリーズで主役に迎えたのが、同じく新劇出身(俳優座)の夏八木勲でした。五社は同作で「仁義なき戦い」を思わせる荒々しい撮影スタイルで既存の時代劇に新風を巻き起こそうとします。それは、あるいはかつて長谷川一夫や市川雷蔵といった歌舞伎俳優やマキノら映画一族が時代劇映画をなかば牛耳っていたことへの異議申し立てのようにも思えます。


さて、少々脱線しましたが、これまで書いてきたように、「吹替」の世界にラジオ放送劇団員とともに、羽佐間道夫や山田康雄といった「新劇」俳優が参入した背景には、時代劇映画で日本人を演じる新劇俳優とは対照的に、テレビドラマのアメリカ人を演じるために必要な欧米人の所作やコンテクストを舞台で培っていたことが大きいのではないでしょうか。

さて、今回はテレビ創成期に「吹替」が誕生した経緯とそこに「新劇」俳優が参入した背景について書いてきました(長文疲れた〜)。

次回は、1970年代からの「吹替」の歴史、あるいは大塚明夫や石塚運昇に代表される、シェイクスピアの「朗誦」演技と「吹替」の演技との関係性について書くつもりです。でも書ける気がしないよ…。ではまた。


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?