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吹替史講義②「吹替とラジオドラマ〜黒柳徹子から大平透まで〜」

吹替は、声優は、映画史においてどのような役割を果たしてきたか、について考察するシリーズ第2弾。前回は1880年代から1930年代までのテレビのなかった時代に例外的に発達した「活弁」と「吹替」の関係について考察しましたが、今回は、戦後のラジオドラマが吹替または声優に与えた影響と共通点について考えていきます。


さて、時代は、日本がポツダム宣言を受諾して、アメリカに無条件降伏した翌月の1945年9月2日から1952年4月28日までのあいだ、すなわちGHQ占領期まで遡ります。当時、GHQは日本に民主主義を根付かせるため、ラジオ放送をプロパガンダとして利用しました。


その時期に生まれたのが、ラジオドラマの連続活劇です。NHKは1941年の時点ですでにラジオドラマ俳優を育成する「東京放送劇団」を設立していましたが、真珠湾攻撃以降、日本が戦時体制に入ったため、ほとんど活躍の機会を与えられませんでした。しかし、戦後になるとラジオドラマの放送が再開され、菊田一夫作「山から来た男」や「鐘の鳴る丘」などの連続放送劇が好評を博すことになります。特に朝ドラの主人公のモデルにもなった古関裕而が主題歌を作曲をした「鐘の鳴る丘」は、当時の日本人の90%が聞いたことがあると答えるほどの知名度を誇りました。


当時の「東京放送劇団」に所属していたのは、少年役を得意とした木下喜久子(2期生)、「男はつらいよ」のタコ社長で知られる太宰久雄(2期生)、お茶の水博士を演じた勝田久、2代目カツオ役の高橋和枝(3期生)、声優として名高い大木民夫(2期研究生)と黒澤良(3期生)、そしてのちに国民的司会者となる黒柳徹子(5期生)と数え出すと枚挙にいとまがありません。ちなみに黒柳徹子のオーディションや音声収録の様子は満島ひかり主演のNHKドラマ「トットてれび」でも再現されています。


また、勝田久が設立した勝田声優学院は、高木渉、森川智之、三石琴乃、本田貴子、花輪英司、東條加那子、濱田大輝などを輩出した名門として知られるほか、黒澤良が主宰したアテレコ教室には若本規夫らが在籍しており、彼らの演技や功績が後世の声優の歴史に与えた影響は計り知れません。

ショーン・コネリーの吹替で有名な若山弦蔵はNHK札幌放送劇団に正式採用され、1952年に活躍の場を東京に移して以降多くのラジオドラマに出演することになります。

さらに、喪黒福造やハクション大魔王でお馴染みの大平透はフリーアナウンサーを経て、TBS開局と同時にTBS劇団へ入団します。なんと大平は、1955年にあのフライシャー兄弟の「スーパーマン」で日本のテレビ史上初の日本語吹替を行ったうえに、一人でクラーク・ケントとロイス・レーンを含む5役を生放送で演じるという無謀なことまで成し遂げます。

前回のnoteで、日本の吹替文化は、洋画劇場のあった時代より以前に、いいえトーキー映画の発明以前に、すでに「活弁」という形で存在していた、と結論づけましたが、まさに大平による日本初の吹替放送は、(あえて繰り返しますが)日本初の吹替放送でありながら、「活弁」という形式をとったトーキー映画として誕生したと言えるのではないでしょうか。


放送劇団出身の若山弦蔵、高橋和枝、大平透(熊倉一雄は劇団出身)がカメラの前で一堂に会したユネスコの無形文化遺産がこちらです。


以上の事実の中でもっとも重要なのは、彼ら未来の声優(という名詞は当時存在しませんが)の多くは、舞台俳優出身でもましてや声優養成所出身でも勿論なく、ラジオドラマ俳優としての活躍を見込まれた放送劇団出身であるということです。
さあ、20世紀前後に誕生した「活弁」という「吹替」文化の息吹が、戦争を経て、ラジオドラマという形で少しずつ姿を現してきました。


さて、今回は戦後のラジオドラマに絞って、簡単に検証していきました。その後、1950年代の日本では、日本テレビを筆頭にテレビ放送を開始すると、国産番組だけで埋めることの出来なかった放送枠に海外番組を輸入して間に合わせようとします。しかし、当時小さかったブラウン管テレビでは字幕が見にくく、不満が続出しました。そこではじめて「吹替」という文化が誕生するのです。

次回は、「吹替の誕生」と題して、50年代に舞台俳優だった野沢雅子や羽佐間道夫、劇団テアトルエコーの山田康雄や小林清志などが、生まれたばかりの「吹替」の世界に登場した物語を紐解いていきます。


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