ボードゲーマーに贈る「ワイナリーの四季:ザ・ワールド」の歴史的背景〈アフリカ編〉
ボードゲーム「ワイナリーの四季」とは
アークライト/米Stonemaier Gamesより発売されているボードゲーム「ワイナリーの四季(原題:Viticulture)」は、両親から譲られた廃業寸前のワイナリー(ワイン醸造所)を立て直すワーカープレイスメントです。
「ワイナリーの四季」には基本セットに加えて、ゲームに様々な追加要素を付け足すことのできる拡張セットがいくつか発売されていますが、中でも全プレイヤーが協力し合ってワインの販路を全世界に広げる「ワイナリーの四季 拡張 ザ・ワールド」では、アジア、ヨーロッパ、北米、オセアニア、南米、アフリカの6大陸それぞれに「イベントデッキ」が用意されており、いずれか1つのデッキを使ってワイン生産史をなぞりながらゲームを勧めます。時間が止まったりはしません。
今回は難易度「ハード」のアフリカデッキを題材に、アフリカのワイン史を見ていきたいと思います。
エジプトとワイン
アジア編でも触れましたが、ざっくり解説しておくとブドウの原産地は全陸地が繋がっていた頃の西アジアで、氷河期と大陸移動でブドウの繁殖地は分断し、西アジア、東アジア、北米大陸南部に分かれました。
エジプトではワインの存在が古代エジプト王朝の第一王朝期(紀元前31世紀~紀元前29世紀頃)には知られていたようで、当時の壁画にもブドウ果汁を搾るための圧搾機や壺が描かれているそうです。エジプトはブドウの原産地である西アジアから程近く、地中海東岸、アラビア半島の北部地域から古代エジプト文明にブドウが伝えられたと考えられています。
ナイル川の定期的な氾濫により肥沃だった流域はブドウ栽培に適しており、第三王朝期(紀元前27世紀頃)には王室用のワイン産業が始まっていたようです。
ちなみに古代エジプトにおいてワインは上流階級の飲料で、庶民はビールを飲んでいました。この辺りは「ヘブン&エール」の記事でも少し触れましたが、古代ローマ帝国と同様ですね。
しかし古代ローマと古代エジプトには決定的な違いがあり、それは赤ワインをファラオは飲まず、神々にも捧げなかった点です。古代エジプトでは赤ワインが主流だったそうですが、血を連想させるためか様々な迷信もあったそうです。それでもファラオはワインは飲みたかったのか、紀元前14世紀頃のファラオ、かのツタンカーメンの墓からは赤ワインの痕跡が発見されているとか。当初は白ワインだと思われていましたが、調査の結果どうやら赤ワインだったようです。
その後アレクサンダー大王のエジプト征服を経てギリシア系のプトレマイオス朝が成立。紀元前30年、クレオパトラ7世と息子カエサリオンの死によりプトレマイオス朝が滅亡しエジプトはローマ帝国の属国になりますが、エジプト文化の一角としてワイン醸造は続いていたそうです。
やがてローマ帝国にはキリスト教が広まりますが、それはエジプトでも例外でなく、2世紀末にはエジプトは人口の多くをキリスト教徒が占めるようになっていたそうです。キリスト教徒にとって「神の血」であるワインの産地だったためかも知れません。4世紀初頭にはキリスト教がローマ帝国の国教となりますが、それは古代から連綿と続く太陽神ラーを中心とした古代エジプト神信仰の終焉でもありました。
ローマ帝国は4世紀末に東西分割し、エジプトは東ローマ帝国に属することになりますが、東ローマ帝国の弱体化や様々な異国の侵略を経て、7世紀にはイスラム帝国に征服されます。そのため飲酒を禁止するイスラームの教義に従って、エジプトのワイン生産量も激減。
しかしワイン醸造が完全に途絶えた訳ではなかったようで、非イスラームのワイン醸造は許容されていたとか。またムスリムの中にも教義を破って飲酒を行う者がいたらしく、カイロへ来た西洋人旅行者や巡礼者などが地元のムスリムが飲んでいた酒について記録しているそうで、その中にはワインもあったそうです。
こうしてイスラム国家となったエジプトのワイン産業は長らく低迷しますが、19世紀末の1864年、ギリシア人起業家ネストル・ジャナクリス(Nestor Gianaclis)がエジプトに来たことが、大きな転換点となります。
ジャナクリスは1871年にタバコ工場を設立し、エジプトにタバコ産業のパイオニアとなります。1882年には、イギリス軍のエジプト駐留開始と前後して、アレクサンドリア市の南に近代的なワイナリーを設立し、エジプトのワイン産業の復興に貢献しました。イギリス軍の駐留は1875年のスエズ運河株買収と1876年のエジプト財政破綻を遠因としていますが、イギリス人はワイン大好きですから、財政破綻がなければエジプトのワイン産業復興も遅れていたでしょうね。まさに禍福は糾える縄の如し。
1952年、エジプトは革命により王制から共和制に移行し、1956年に大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナーセルは、スエズ運河など大企業の国有化を進めました。その一環でジャナクリスのワイナリーも1963年に国有化され、ベルギー資本のアル・アラハム・ビバレッジ・カンパニー傘下となりますが、ワインの品質は低下し、1997年にエジプト人起業家アーメド・ザヤットがアル・アラハム・ビバレッジを買収し民営化した頃にはブドウ畑に酢っぱい匂いが漂うほど荒廃していたと言います。
ザヤットはアメリカの競走馬の馬主としても知られる人物で、米国で学んだ彼の経営手腕によってアル・アラハム・ビバレッジは経営を立て直し、エジプトの民営化モデルとまで言われるほどになったそうです。とは言え、エジプトは現在もイスラム国家なので、ワインを含む酒類は基本的に外国人向け商品であり、エジプト人には酒造業であることを隠す人や、酒の入った瓶に触れることすら嫌がる人もいるそうです。
アル・アラハム・ビバレッジは2002年にオランダのビール会社ハイネケンに買収され、ジャナクリスのワイナリーもハイネケン傘下のワイナリーとして、2024年現在もエジプトで営業しています。
南アフリカとワイン
南アフリカで最初のブドウは、オランダ東インド会社の初代総督ヤン・ファン・リーベックによって、1655年にケープタウン近郊に植えられました。ファースト・ヴィンテージ(最初の収穫年)は1659年で、リーベリックの日記に「今日、ケープのブドウが初めて搾られた」との記述があるそうです。
南アフリカに最初のヨーロッパ人が到達したのは1488年のこと。アフリカ大陸西岸を伝って南端の喜望峰にポルトガル人探検家バルトロメウ・ディアスが到達し(正確には一度東側まで通り過ぎて西へ戻ったそうです)、続いてポルトガル人探検家ヴァスコ・ダ・ガマがこの地を経由してインドまで到達していますが、当時の喜望峰にヨーロッパ人が注目するような特産品はなく、この頃は単なるインドへの通過点でした。
南アフリカへの定住も考えられていなかったようで、オセアニア編や北アメリカ編・南アメリカ編でも触れた通り、植民地へ入植した際に必ずと言っていいほどブドウを植えているヨーロッパ人が、この頃はまだ南アフリカにブドウを植えていなかったことからも、それが伺えます。
しかし17世紀に入り、オランダ東インド会社がインド航路の途中に補給基地を計画し、1652年には喜望峰西岸にケープタウンが建設されます。このとき着任したリーベック総督が1655年、この地にブドウを植えたのは前述の通りです。
ちなみにケープタウン周辺には先住民族もいましたが、牧畜民族で人口が少なく、ヨーロッパ移民によって土地を追われた際も他の植民地の先住民族のような激しい抵抗はなかったようです。
1679年には10代総督シモン・ファン・デル・ステルによりケープタウンの東にステレンボッシュが建設され、翌年には10万本のブドウの苗が植えられたとか。ステル総督は以前からオランダのマイデルベルグ近郊にブドウ畑を持っており、そちらはオランダに残った家族に任せ、1685年には南アフリカ最初のワイナリーをケープタウン南のコンスタンシア渓谷に設立します。
1685年、フランスにおける信仰の自由を定めた「ナントの勅令」が時のフランス国王ルイ14世により廃止され、プロテスタント(新教)の信仰が禁止されると、フランスの各産業の中核を担っていたユグノー(新教徒、プロテスタントの信者)たちはフランス国外へと亡命します。このユグノーたちの亡命は、フランスの国内産業の衰退を招き、フランス革命の遠因になったとか。
これを知ったステル総督は、母国を追われオランダへ亡命したユグノーたちのうちワイン産業に関わった者たちをケープタウンへ送るよう、会社に申し入れたそうです。当時は「小氷期」と呼ばれる地球規模の寒冷期が終わって間もない頃で、ブドウがほとんど育たなかったオランダではワイン産業のノウハウが蓄積されておらず、それらを持つフランス人がワイン産業の発展に必須だったのです。
この頃ケープタウンへの入植希望者はオランダ東インド会社が無料で現地へ送っていたため、フランスワインの知識を持つユグノーたち176名がケープタウンの東にあるフランシュフックへ1688年に、また同じ頃ステレンボッシュにも多くのユグノーたちが入植し、南アフリカにおけるワイン産業の発展に寄与しました。
ステル総督は、1699年に総督職を辞した後もケープタウンでワイナリーの経営に専念したようです。1712年に彼が亡くなるとワイナリーの土地は三分割され、一ヶ所は潰されましたが、残る二ヶ所は別々のワイナリーとして残り、両者ともオーナーを変えながら2024年現在も営業しています。
1771年、ステル総督のワイナリーからヨーロッパへ輸出されたワインは人気を博し、特に1778年に誕生したデザートワインは、フリードリヒ大王ことプロイセン国王フリードリヒ2世、フランス国王ルイ16世と妃マリー・アントワネット、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト、アメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントンと言った名だたる人々も愛飲したと言います。
更に1790年代から1810年代に起きた「ナポレオン戦争」によってイギリスへのフランスワインの供給が途絶えると、植民地産ワインの需要が伸び、それは南アフリカも例外ではありませんでした。
しかし19世紀初頭にイギリス領となっていたケープタウンは1834年、奴隷制度廃止法の施行によって労働力不足に陥ります。ケープタウン建設時も、労働力不足を補うべくマダガスカルやインドネシアから奴隷を輸入してたそうですが、建設から200年間、労働は奴隷頼りだったんでしょうね。
更に1850年代、ヨーロッパのワイナリーをうどんこ病が席巻しますが、これが1858年に南アフリカにもやってきます。現在のケープタウンでは「ケープドクター」と呼ばれる南東風によりうどんこ病は存在できないとされていますが、歴史的には南アフリカにもうどんこ病が流行した時代が存在しているのです。
そして1860年、英仏通商条約が締結され、イギリスにおいてフランスワインの関税が引き下げられ事実上輸入解禁されたことで、南アフリカのワインは需要を失います。また南アフリカのワインは甘口でしたが、この頃には辛口ワインが流行するようになり、その変遷に南アフリカのワイン業者は追いつけず、南アフリカのワイン産業は衰退していきます。
そこにトドメを刺したのが、1866年のフィロキセラ到来です。ヨーロッパでは1863年にフランスで最初にフィロキセラが確認されますが、これによるフランスワインの減産は、他地域でワイン増産を急務とさせました。世界的にワイン産業が広まる最中、品種改良やブドウの収穫量増量のため世界各地でアメリカブドウが輸入され、そこに共生していたフィロキセラでブドウ畑が汚染される……と言った悪しき連鎖が南アフリカでも起きたのです。ステル総督のワイナリーを始め多くのワイナリーは廃業し、南アフリカのワイン産業は壊滅的な被害を受けることになります。
そこへ追い打ちをかけるように、1899年、第二次ボーア戦争が勃発します。本国イギリスと、イギリス統治前に移民したオランダ人やフランス人、ドイツ人たちヨーロッパ移民の子孫である「アフリカーナー」が建国した独立国家との戦争で、イギリス軍の焦土作戦により農地は荒れ果て、ワイン産業を更に低迷させました。
1910年、アメリカ合衆国から8000万本以上のブドウの苗を輸入したことで、ようやく南アフリカのワイン産業は復活しますが、今度は過剰生産に陥り、売れ残ったワインを川に流す生産者もいたとか。
その後もワインの需要は増えないまま1914年に第一次世界大戦が勃発。不安定な世界情勢でワインの需要が見込めるはずもなく、そこで南アフリカ政府は1918年、ワインの過剰生産抑制と価格安定を目的に「KWV(南アフリカ醸造者共同組合連合)」を発足させます。
この協同組合は、南アフリカ独自のブドウ品種開発を支援するなど、非組織的だった南アフリカのワイン農家の結束とワインやブランデーの品質向上に貢献しますが、1920年代の法的統制の強化に伴い、やがて政府のワイン政策やワイン価格を決定するほどの影響力を持つようになります。また南アフリカのワインの販売促進にも多大な貢献をしました。
しかし第二次大戦後の1948年、悪名高き南アフリカの人種隔離政策「アパルトヘイト」が法制化されたことで、国際的批判が高まります。
南アフリカはケープタウンの建設以来、人種に基づいた格差の激しい土地でした。同じヨーロッパ系の白人移民でも、オランダ領時代に入植した移民と、その後のイギリス領時代に入植した移民にすら格差があったのです。先住民族や東南アジアから連れてこられた奴隷等は、有色人種だったため更にその下に置かれていました。
しかし時代は冷戦期。アメリカ合衆国を中心とする西側諸国は、レアメタルを南アフリカに依存していたためアパルトヘイト批判には弱腰で、故に南アフリカのアパルトヘイト政策はエスカレートしていきます。当時の南アフリカはまだイギリスの自治領だったため、イギリス本国もアパルトヘイト廃止の圧力をかけますが、それに反発した南アフリカは1961年にイギリス連邦から脱退し、独立国となってアパルトヘイト政策を続けました。
この間も南アフリカのワインは、1950年代に低温発酵を導入、1973年にはワインやスピリッツ等の管理委員会や原産地呼称制度であるWOが設立し、品質向上していましたが、こうした事情から国際的な評価を受けることはできませんでした。
しかし1989年のベルリンの壁崩壊を機にマルタ会議が開かれ、冷戦が正式に終結すると、西側諸国のレアメタルの南アフリカへの依存度が下がり、アパルトヘイトへの経済制裁が強まります。これを受けて反アパルトヘイト運動と言う「国家反逆罪」で投獄されたネルソン・マンデラが1990年、27年ぶりに釈放。アパルトヘイトに関する各法律も次々と廃止されます。1994年に南アフリカの全人種が投票できる初の総選挙が行われ、マンデラが大統領に就任すると、アパルトヘイトは完全に撤廃され、またイギリス連邦に復帰しました。
こうして南アフリカは、民主化したことで国際社会へ復帰し、KWVの強権により不法行為が行われていたワイン産業も、民主化に伴うKWVの民営化や国際的なワイン産業の交流により健全化したようです。
アフリカデッキを振り返る
アフリカ各地のワインの歴史を振り返ったところで、ワイナリーの四季のアフリカデッキの中身を確認してみましょう。
北アフリカの国々
アパルトヘイトの終焉
ブドウの樹改良プログラム
原産地呼称制度
現代の試み
官民協力の成果
新しい灌漑システム
ブドウ畑の害虫
フレイバーのタイトルを見ると、順番が前後していますが、アフリカの近現代ワイン史上で起きた重大事件が列挙されています。
「北アフリカの国々」ではイスラム国家となった後のエジプトの歴史がざっくり書かれています。その他のカードは全て南アフリカ関連です。
前述した出来事のうちフィロキセラ禍後の過剰生産は「現代の試み」で、KWVの功績は「原産地呼称制度」「官民協力の成果」で、アパルトヘイト廃止によるワイン産業の変革は「アパルトヘイトの終焉」「ブドウの樹改良プログラム」で簡単に触れられています。
「新しい灌漑システム」では、南アフリカの水事情とブドウ栽培の関係について触れられています。
「ブドウ畑の害虫」で触れられているのはフィロキセラ以外の害虫とその対策についてです。
ブドウ栽培に適した土地がありながら、アフリカデッキの難易度がハードなのは、北部はイスラム国家、南部はアパルトヘイトで、ワイン産業がなかなか発展せず、また国際的にワイン産業の技術革新から取り残されてきたからなのでしょう。これを表すためか、アフリカデッキは手札を減らして代償を得るイベントデッキになっています。
ワイン史 ザ・ワールド(総括)
と言う訳で、「ワイナリーの四季 拡張 ザ・ワールド」を通じてアジア、オセアニア、ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカ、アフリカと6回に分けて、六大陸それぞれのワイン史を見ていきました。
全体的に、キリスト教徒が定住すると「神の血」であるワインが現地で必ず作られると言った感じで、ワインの普及史はキリスト教の普及史に重なる部分が多かったように思います。しかし単に宗教儀式に必要だから、だけでなく、何が何でも現地でワインを作ってやるぞと言う執念も感じずにはいられませんでした。遠い異国の地に定住した移民にとっては、酒も娯楽であり望郷の想いが込められたものだったのかも知れませんね。
結論。酒は美味い。
寄付のお願い
本記事は全文無料で読めますが、もし記事を気に入ってくださったなら、以下からサポートをお願いします。
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?