見出し画像

気づいたこと

母に感謝されては、口先だけと憤り、母に感謝されなければ、「ありがとう」もないと憤る。
母にしてみたら、
どうしろっていうの?
と途方に暮れてしまうところだろう。

母のことは知的ないし発達障害がある人ということで理解したはずで、母としてはワザと冷たくしていたのでも、ワザと何もしなかったのでもないということは頭ではわかっている。
ただ、私だけが、精神障害者としての烙印を押されて、それにも、かかわらず子供たちに負の連鎖をせずに育てた、その私の内面の葛藤を、普通にはできないよ、と言ってくれる身内、友人、支援者もいるのに、私自身が、そんな言葉では納得いかないとゴネているのにすぎないともわかっている。
私はどう生きたらもっと自分に納得がいったか、考えてみた。

私は夫を亡くしたが三人の子供たちに恵まれて、それぞれ母想いで、暮らしも何不自由なく、何も思い煩うこともなく、母の世話にしても、姉も無理せずに、私のペースでと言ってくれてるし、母は母なりに私の手助けなしでも、生活できることは、わかっている。
これから、楽しめばいい、ずっと苦しかった分、人のために生きてきた分、これから人生を味わえばいい。
それもわかっている。

何故だろう。わかっているのに心の奥底で納得していない自分。

諦めること、諦観、人生こんなもんだと悟ること。

それが必要なのだと思う。

長いこと、クリスチャンとして生きてきて、このあきらめることが苦手というか、してはいけないことだと思い込んでいる自分に気づく。
クリスチャンが御国がくることを諦めることはない。いつまでも乞い願う。
そのことは今の私には苦しみでしかない。
結局、信仰ゆえに救われ信仰ゆえに苦しむことになる。

これでいいという悟り。私に今必要なものだ。

日本人として、神道や仏教の教え、儒教の学びというのは、日本という国で生きるためには必要なのかもしれない。
その歴史の流れの中に自分の価値観や大切なものがあるのだから。
その大きな流れの中に自分も生きていくのだから。

キリスト教の教えの大切なエッセンスだけを心に残して、諦めない心を脱ぎ捨てよう。
時間はかかるかもしれないけど、自分の中にあるあるべき姿、本来の、というものへの憧れを捨てて、今、ここ、あるがままを受け入れることをやってみよう。
どう足掻いたところで、病前のまっさらな自分には戻れないし、今までの自分の歩みが今の私を作っていることには違いないから。

そんなことをつらつら考えながら、母の帰りを待っていた。
母は ただいま と明るく帰ってきた。
そのままの母を受け入れよう。

理想のマリアさまではないけど、私を産み育ててくれた大切な母なのだから。
そのことに気づいて涙が溢れて仕方なかった。
不完全なりに一生懸命育ててくれたのだ。

まだ、揺れることもあると思うし、体調悪い時には愚痴りたくなるかもしれない。

でも、その時は、今日のnoteを見返そう。