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代わり映えしない日々

友達からの電話に相槌を打ちながら、自分は最近何も話すネタがないなとぼんやり感じていた。彼女は恋人もいて仕事も充実、忙しいよという彼女は別にのろけたくて自慢したくて話してるわけではないだろう。ただ、日々の話をしてるだけである。彼女の日常を。あら捜しするほど性格は悪くないから、ふんふん、それで?と聞いてるだけだが、だんだんと返事がなおざりになってきてることに自分で気づき、ああ、私も日々に変化つけないといけないなと痛感した。

大体が私の日常は、この二階の自室かリビングにいてラジオを聞いたりテレビを観たり本を読んだり家事諸々をしたりして過ごしている。つまらないか、と問われれば心の中で イエス 口と文章では そうでもないよ と答えるだろう。つまらないと認めたところで、自分が行動しないと何も変化は起きない。

noteに書くネタもそうそう転がってるわけではない。自分の引き出しはもう空で、外にネタを求めないと続けていくことも苦しい状態だ。今日はお手上げのまま、昨日の電話で思ったことから書き出した。いつもこの手が使えるわけじゃない。

出かけようかと思ったが、先ほどからこちらの方は雨が降り出して出ばなをくじかれた。ついてない と思う。こういう日にはおとなしくしてるに限る。

こんな日々が欲しいと思った日もあった。毎日忙しくて子供の世話と家事に追われて、もう勘弁して!と言いたくなる日常。未来というのは願うような世界が訪れるというが、今の未来は 落ち着いた日々を送りたい と切望した頃の夢が叶えられたともいえる。人間てホント勝手な生き物だ。忙しいと暇の間を行ったり来たりして、常にないものねだりしてる。動物園の中の、餌を採りに行かなくても与えられてる動物たちは、実に平和そうにのんびりと過ごしている。あれを見習ったらいいんだな。平和な日々をただ享受すればいい。

そうわかってはいる。ただ、こうしてる合間にも、世界のどこかで命からがらの日々を過ごしてるものたちにどうしても心が向いて、私一人こんな平和な日々を過ごしていいのか、と落ち着かなくなるのだ。何かの活動をしたらこの切羽詰まった思いも薄くなるかもしれない。でも、いろいろと気になることが多すぎて一つにしぼれないのも困ったこと。やはり、当事者活動かなあ。

その一環でnoteも続けている部分がある。当事者が日々何を考えてどう過ごしているか、それを発信することで誤解や偏見がなくなることを願って。ただ、私は一例にすぎないことも付け加えておく。たくさんの当事者が発信していくことに意義があるのだと思う。

電話の彼女も精神障害者の当事者である。彼女のことを思い出して、自分も生き生きと過ごしていきたいと思う。ただ、どうしても体が動かないときもある、心がささくれるときもある。その時はそのままの私を届ける。

どうにか眠気と戦いながらここまで打ち込んだ。

さて、コーヒーでも飲んで一息つこう。