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お仕事いろいろ

高校卒業後、事務職公務員として、長女出産までの4年半務めた後、夫死去までずっと専業主婦でした。
三女妊娠までは、次女が幼稚園に入ってまもなく、ぬいぐるみの袋詰めの内職を始めたりしましたが、外で働くことはしませんでした。

そして、夫死去後、すぐに働き口を探さないと、と思いました。当時、大学二年生だった長女、高校三年生だった次女、小学5年生だった三女の教育費を捻出しなければならなかったからです。
幸い、前に住んでいたマイホームはリーマンショック前に、こちらのほぼ希望通りの値段で売れましたので、すぐに生活が困ることはなかったです。
でも、夫の闘病中に家賃や医療費や生活費に半分は充てなければならず、また、丈夫な夫には生命保険も医療保険もかけていなかったので、このままだと、生活が困窮するのは目に見えていました。
まずは、障害のある、ブランクもある、年齢も40過ぎの事務職しか経験のない私に市場価値はほぼゼロだったので、おとなしく、作業所から通い始めました。そこで250円の工賃で、一年半働きました。レクリエーションもあったり、職員さんも優しく、時に厳しく、接してくださったので、そこで働くことは楽しかったです。
次に障害をオープンにして、スーパーで二年間働きました。職種はグロサリーという日配ものの部署と鮮魚部門で一年間ずつ働きました。お給料は最低賃金は確保されていました。
でも、父の具合が悪くなり、母一人では面倒見切れなくなり、また、鮮魚に移ってから職員さんのあたりが強くなり、しんどくなってきていて、ちょうどいい頃合いとスーパーをやめて介護に専念しました。年末に辞めたので、一番スーパーが忙しい時期でもあり、辞めた後は申し訳なくてそのスーパーには行っていません。
そして翌年の三月、ちょうど東日本大震災があった日の二十日後に父は亡くなりました。79歳でした。
財産分けなどがあり、家と土地を相続して住居の心配がなくなり、教育費もほぼ三女一人の分ならばなんとかなりそうだったので、働くことを一旦中止して私は自身の障害の当事者活動やピアサポート活動などを始めました。
当事者活動というのはどうしても動ける人とそうでない人が二分されて、動ける人がまるで、福祉に携わる職員さんのような仕事を引き受けざるを得ないんです。
その活動も主催者さんの転居などにより、ほぼ活動休止になり、暇を持て余した私はまた、最初のとは違うところの作業所に通うことに決めました。
そこで、手芸作品を作ったり、内職のような紙の封入作業、箱の組み立てなどの軽作業をしていました。工賃は200円でした。最初の作業所は市の公共施設内の喫茶店のお仕事だったので、座ってできる作業は楽でありがたかったです。
そこで一年以上働き、このままここで作業を続けていくと思われた矢先、長女から横やりが入り、普通の仕事をしたらどうだと言われて、彼女が探し出してきたのが、清掃の仕事でした。隣の市にある会社のオフィス清掃です。週五朝五時過ぎの電車に乗って、現場に向かっていました。仕事自体は大変ではなかったですが、年配のおばちゃん、おじちゃんの性格がきつくて、おとなしめの私はいつも押され気味、でも、なんとか午前中で終わる仕事なので続けていましたが、またも長女の横やりが入り、ダブルワークせよ、というミッションもこなしながら、体は悲鳴をあげつつありました。清掃の仕事を一年半続けた後に、もう、これ以上は無理と思った私は自分でA型作業所をネット検索してそこに応募して、ゴーサインを頂いたので、清掃の仕事を辞めて作業所であるレストランにホールの仕事担当で勤め始めました。
レストランのホールというのは、忙しくない店ならばそんなに難しい仕事ではないけれど、駅前にある商業ビルの中に作業所レストランはあったので、それは目まぐるしく忙しかったです。それでも、職員さんが熱心で、働き甲斐もありました。そこで三年弱働き、その作業所がA型からB型に移行するということで、一旦そこを辞めて、最初に働いたスーパーとは違う、地元のスーパーに求人はないかと問い合わせて、空きがあり、働き始めましたが、二か月たったころに母が風呂場で溺れて、なんとか命に別状はなかったですが、姉から、母の介護に専念してほしいとお願いされて、家も相続していた私は仕事もきついし、もう三女も社会人だったしで、スーパーの仕事は辞めました。
今は母も落ち着き、私はその元のレストランに週一で働いています。
以上が私の職歴になります。