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文体だけ異国人

前に、私の書く文章が、まるで翻訳調であるといわれたことがあります。
私はたぶん、生粋の日本人だと思いますが、時折、喋る言葉も文法的におかしくなることがあります。

皆さん、noteを書くときに下書きはしますか?
私は テキスト をぽちっと押して出てくる画面にそのまま打ち込みます。大体の出だしを考えたら、あとは思いつくまま打ち込んでいます。だから、書くことと喋る言葉は文法は私の場合、一致しています。

何故、日本語的におかしな文法になるかはわかりませんが、私の母がものすごくおしゃべりなくせに、喋ることが下手で、何が言いたいのか喋ってる途中でイライラしてくるので、私も以前は同じ喋り方をしていたから、原因は母にありそうです。

いつの間にか、私たちは喋る言葉に オチ を求め、オチがないと落ち着かなくなるようになりました。私はこれが苦手です。オチのない言葉をダラダラと喋ると相手がイラついてくるのがわかりますが、それでも、私の場合、喋りだすときにはオチのことなんて考えていませんから、思わぬ着地点にたどり着くこともあります。私、こんなこと考えていたんだ、とあとで感心することも多々あります。

書き言葉も然りで、今もこの先は私には見えていません。どう決着するか、私の無意識さんが懸命に働いてそれなりな着地点で落ち着くんでしょう。
推敲したらいい、と前に私の文体について言ってくれた人が言ってましたが、そうすると文章に勢いがなくなるんですよね。それだと私の文章ではなくなってしまう。体温のない人形の文章になってしまう。それは私の本意とするところではないんです。

テレビの中の芸人さんは実に面白く話を展開していきます。ああいう風になれなくても、目の前の人を笑わせたいというモチベーションの高さは見習いたいです。私は目の前の、この文章を読んでる人に微笑んでほしいのです、何かを感じ取っていただきたいのです、ただ、それだけを思って文章を綴っています。

私は、打ちやすいボールだけを投げるピッチャーにはなりたくないです。読み手は打者なのか、キャッチャーなのか、相手の私へのスタンスで変わります。私は常に私の背負っているものの代弁者として、ボールを投げ続けます。文章を投げかけます。

そこに、あなたがどんな気持ちで読んでくださるか、楽しみにしながら。
まるで、片言の日本語をしゃべる異国人のように、ただただ、思いを伝えたいという純粋な思いで。

届いていますか?