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風のような人 

以前、清掃の仕事をしていた時に、先輩に「○○さんて、風のような人だね、捉えどころがないよ」と言われたことがある。
「風のような人」とはどういうことか、抽象的でわかりづらいけれど、「捉えどころがない」というのは納得がいく。
私は普段、人のいうことを右から左に流す癖がある。
へーーそうなんですかー
いやーすごいですねーー
そう言っておけば大概の会話ではスムーズに展開する。
そして、砂金採りの網のように引っかかった金言だけを自分の養分にしていく。
自分の意見というのがこと、日本においては重要視されない。大切なのは会話の流れであり、時には、なんだ、その、言葉が出てこないぞ、えっと、空気を読んで察すること、確か漢字二文字で表現できたはず、えっと、○○する、だ、政治家が偉い人の考えを察して行動しちゃって問題になった、えーーーっと、まあ、要はそれだ、それが大切なのだ。

思い出した!忖度するだ!そんたく 脳に刻み込んでおこう。

気を遣わないただの雑談では、自分の興味のあることを、ただダラダラと時間つぶしのように発表しあって、適当に相槌を打って親交を確かめ合う。

その、私のことを風のような人と評した人は、掃除に関しては誰よりも丁寧でプライドを持っていて、彼女が掃除した後のトイレなんて、ピカピカと光ってるんじゃないかと思うほど、美しい仕上がりであった。彼女は人と群れることをせず、でも、暗いわけではなく、存在感があった。それが、チーフの気に障ったようで、嫌な感じのいじめを受けて、ある日、やってられっか!とばかりに辞めていった。彼女が辞めて半年もたたないうちに私も辞めた。

ここで、書き言葉の方が、私は自分というものを正確に表現できると思っている。そこには他者は介在しないからだ。会話はどうしても相手によって表現を変えてしまう自分がいる。これはどんなに偉い人になったとしても、私という人間の小ささゆえに、誰にも忖度してしまう自分というのが存在するからだろう。

その清掃の仕事時代のメンツを思い返すと、個性豊かなおばちゃん、おじちゃんだらけで、みな、その人を生きてたなあ。忖度してたのは私だけかもしれない。

たった一度の人生、好きなように生きたらいい。

そんな大切なことを学んだ気がする。