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握りつぶすは朝顔の

 男が爪を切っている。
 壁にかけられた時計はいつまでも十二時半のその場所を動かず、もうとうに息を引き取って長いのだが、男はついぞ気にせず、黙々と爪を切っている。
 外は雨。
 黄昏と見えて、ほのかな赤色をまとった日差しが雨と混じり、細々と気配を弱めながらも部屋の片隅にうつろっている。閉めっぱなしのカーテンの隙間、その狭間から忍び込むその弱光を頼りに男は爪を切っている。
 ぱちん、ぱちん。
 爪を切るようなかすかな音がここまで際立って聞こえるのは恐ろしいことだと、男は思う。世の人々は皆死に絶えてしまったのだろうか。外から聞こえる音はただ雨の垂れ込める音ばかり、人の気配はたえてない。
 細い路地の極まりに男の家はあるので、確かに外の音は縁遠い。けれど日中は表通りの自動車の音やら、人々の足音やら、あるいは遠く電車の走る音、踏切の警鐘……耳を澄ませば必ずや鼓膜を潤したはずの音たちは、いまはみな掻き消えてしまった。ただ、雨の降る音だけ。
 ……ぱちん、ぱちん。
 先ほどからずっと爪を切っているというのに、男の爪切りは一向終わらず、怪訝に思い、頭をめぐらせると、畳のうえに転がる見知らぬ足がある。自分の足の爪を切っているのだと思っていたのに、いつのまにか男はその見知らぬ足の指の爪を摘んでいたのだった。
 見知らぬ足は華奢で、青ざめている。足裏の蒼白はいっそ凄絶といってもいいほどで、なめらかな足裏の肉はこの世の土をまだ知らぬかのようだ。男は爪切りを置き、そっとその足に触れてみた。
 やわらかい。
 そして、冷たい。
 生きている人間のものではあるまい。透き通る皮膚が人間らしくこまやかな肌理をもつのを男は不思議に感じ、足の裏を撫ぜた。
 ひくりと足は蠢いたようで、けれどそれきり何の反応もない。小さな指先に並ぶ行儀のよい爪たちを見つめ、男は死者の顔を夢想した。
 眼裏をよぎる死者たちの顔貌はおびただしく、焦点を結びかけたかと思えば、すぐにまた眼裏の闇のなかへ没してしまう。幼いころからえんえんと見続けた死者たちの顔――穏やかなのもあれば、華やかなのもあり、醜く歪むものもあり……見続けた男は長じ、やがて死に顔とは生きるその人の本質なのだとそう理解した。

 死に顔は生を一瞬に凝縮する。たった一枚の絵に、死者の生を描き出し、強制的にそこに完結させてしまう。その魔力にとりつかれたのが、男の母だった。
 最初の死者は、母の情夫。幼い彼が知る限りでは七人目のその情夫が、母の内に眠る花のような怪物を揺り起こしたのである。
 酒飲みだった母の情夫はその夜、浴びるように酒を飲んで、前後不覚に陥った。いつものことだったので母は構わず、風呂に入り、布団を敷き、朝まで幼い彼とともに眠った。清い曙光のさす朝ぼらけ、ようやく親子は異変に気付いたのだった。
 死は朝の光より自然に舞い降り、その訪れに気が付くのは誰しも困難を極めたことだろう。まず幼い彼が、そのひとの寝息がいつもより大人しいことに気がついた。
 ――おかあさん。おとうさんが。
 幼い彼は母の袖をひいて報告する。
 七人目の父を彼は愛したことがなかったが、今までの経験上、そう呼ばねば母の機嫌がすこぶる悪くなることを知っていた。
 ――おかあさん、いま、忙しいのよ。
 そう言いながらも、母が幼い彼の言葉に応じたのは、彼女もかそけき異変の気配をかぎとっていたからかもしれない。母は男に近づき、その肩に触れようとして、ふと恐れた。目をみはり、ゆっくりと息を止めた。
 それからのことは、彼の記憶にはない。
 母は死んだ情夫をどうしたのだろうか。
記憶は至って断片的で、床板を外すのを手伝ったような、重ったるい男の体を持ち上げたような……かと思えばそれはやはり記憶違いで、刻まれた肉があり、それをビニール袋に入れてしばって……そんな悪夢にも似たような景色が繰り広げられたような気もする。
 ひとつだけ、確たることとして言えるのは。
 母は、死に魅了されてしまった。
 生が凝縮されるひととき、その恐ろしさ、美しさに、どうしようもなく魅了されてしまったのである。

 ……時が経つ。
 今では母もこの世を後にし、残されたのは路地奥の家と、床下に折り重なる過去の遺物……母の愛したそれらも、今はほとんど骨と化したことだろう。男としてははなはだ迷惑極まりない、母の忘れ形見である。
 今、眼前に横たわるこの足。
 誰のものとも知れぬこの足も、床下の土を抜け出して部屋を訪れたものだろう。
 床下に蠢く死者たちの尊厳を守るためだけに、男は息をしているようなものであり、もし自分がこの家で儚くなってしまえば、床下の悪事があばかれるであろうことを憂慮しながら、男は縷々たる日々を生きている。
 足裏を撫ぜながら、男は視線を泳がせる。
 薄い闇につつまれる部屋は、カーテンの隙間から零れる外光をのぞけば暗く、足裏からたどる死者の顔もそのためにおぼろげにかすんでいる。
 仕方がないので声をかけてみることにした。
「誰?」
「覚えていないの、ひどい」
 思いがけず返事があり、男は他人との数か月ぶりの会話にじんと鼓膜が上気した。あまく痺れる鼓膜の痛みに少しだけ気を削がれながら、男はもう一度聞いた。
「……暗くて見えないんだ。誰?」
「誰だか知っているくせに」
 やはり声は答えてくれず、男はしょうことなしに足裏からたどって踝をつかみ、おもむろにそれを引いた。
 畳のうえをずるずると引きずられ、それは男の元へやってくる。
 カーテンの隙間をこころもち広げ、光を招き入れると、ようやくそれの顔が見えた。
 それは懐かしい少女の顔をしていた。
「……嘘だろ、なんでここに?」
「……さあ、なんででしょう?」
 悪戯っぽく笑う口元が、年の頃に似合わずあだっぽい。
 それは男の初恋の少女である。中学二年生の時に遠方から越してき、わずか一年で去っていったはずのクラスメイト。彼女が何故、床下で眠ることになったのか、男は知らない。
「……やっぱり、母さんが?」
 呆然とつぶやけば、少女がむくりと身を起こし、絶望的に差の開いた年月を埋めるかのよう、唇を寄せてきた。

 あの夏の日。
 むせかえるような草いきれに抱かれ、ふたり、夢中で互いをむさぼりあい、彼はいつのまにか彼女のなかで果て、いつ終わるとも知れない痙攣に身をゆだねながら、彼女がひたすらに握りしめていたてのひらを開けば、つぶされた朝顔が華やかな色を滲ませていたのだった。
 散らされた彼女の純潔と、指のなか握りつぶされた朝顔の被虐とが、何故かしら彼のなかで綯交ぜになり、それから数日、夢のなかで彼を苦しめた。
 確かに愛の行為であったはずのそれが彼の知らぬところでひとつの暴力に姿を変え、少女をどうしようもなく傷つけてしまったのではないかと、そう思ったのだ。
 そんな彼の気も知らず、少女は会うたびに身を寄せてくる。
 ――ねぇ、行くなって言ってくれないの。
 彼女の父親の転勤が決まり、引っ越しを数日後にひかえ、少女は何度もそうささやいた。
 彼は少女よりもいくらか現実を知っており、幼い抵抗が何の意味も持たないことを噛みしめながらも、最後の日まで少女を離さなかった。
 ――ねぇ、言ってよ。言ってよ。
 彼の頭を幼い胸乳におしつけながら、何度も少女は懇願した。
 やわらかな肉を愛おしく抱きしめながら、少年だった彼は結局最後までその言葉を与えてやれなかった。
 ただの口約束、戯れに口ずさむぐらいの情はあったっていいじゃないか――今でこそそう思うのだが、すべては後の祭り。
 あの日を限りに、男の世界から少女は姿を消した。はずなのに。

「……毎年、葉書、くれてたじゃないか」
 正月には年賀状、夏には暑中見舞い、一言ふたこと添えられた手書きの文字がそっけない……あれは、何だったのだろう? いつのまにか途切れた便りをあやしむこともしなかった。
「あれは嘘、全部、嘘。知ってるくせに」
 頬に首に降ってくる少女の接吻を受け止めながら、男はぼんやりと虚ろになってゆく。いかなる思考もおぼろげになり、ふわりと軽くなってゆく身を、すり寄る少女の重みがかろうじて畳にひきとめた。
 やわらかく匂いやかな少女。
 あの夏の日から寸分も変わらぬ彼女の右のてのひらは結ばれており、ある予感にうながされ、男は彼女のてのひらをつかまえた。
 一本一本指をひらいてゆき、その内側に何が隠されているのかもう知っているくせに、知らないふりを押し通す……うすいてのひらから現れたのは、鮮やかな花色。
 つぶされた朝顔の無残に、彼は頬を寄せる。
「あたし、あなたのこと好きだったから」
 少女はてのひらを開いて見せながら、つぶやいた。
「だから寂しくなかった」
「ずっと待っていたのか」
「ずっと、待ってた」
「いつから?」
「知ってるくせに」
「いや、知らない。知らないよ」
 少女のてのひらの朝顔にキスをする。
 青臭い花の香が懐かしい。
 香りは記憶を刺激する。深く眠っていた記憶は見事に掘り起こされ、畳のうえ、カーテンの狭間の光にさらされる。
 行くな、と言葉にするかわり、彼が手にしたのは鈍器だった。
 行くなって言ってくれないの、懇願した少女は蝶々のよう、かろやかに身をひるがえして新しい地へ行ってしまう。何もかも忘れたような顔をして、また新しい恋をするだろう。その想像が少年だった彼を苦しめ、苦しみは、彼の内側に小暮い沼を生じさせた。
 後頭部に一撃。
 愛しい人が息を引き取る瞬間をみずからつくり、立ち合い、生から死へ劇的に転換するたましいの震えに、彼はそれまでの人生のすべてを喪失してしまった。愛しいも嬉しいも悲しいも寂しいもすべて色を失い、ただ、際立つ死の瞬間、すべてをくつがえし余りある、そら恐ろしい震えだけが残った。
 息絶えた少女の手のひらをほどけば、握りつぶされた朝顔の鮮やかな花色があった。
 ……あれから、ずっと爪を切り続けていたのだろうか?
 まさか。
 けれど、何も思い出せない。色褪せた時間をいくら重ねようが、果たしてそれを人生と呼べるだろうか。いくら重ねたところで色もなければ、重みもない……
 壁掛けの時計は針を止め、同じように彼の人生もひとつところで滞っている。
 もしかしてあの夏の日から一日たりとも時間は流れていないのだろうか? ならば男に忍び寄る老醜の影は何なのか? もしかしたらそれも嘘なのか。
「……そう、そうよ、全部嘘。全部、嘘……」
 少女が吐息のようにささやいて、男の首に腕をまわす。
「嘘だから、あたし、ずっと待っていられたの」
「何を、待ってたの」
「……教えてあげない」
 言いながら、少女はゆっくりと首に回した腕をせばめる。
 朝顔をつぶしたてのひらが男の喉元までおりてき、一本一本の指がそれぞれ別の生き物のようにひるがえり、静かに男の動脈をすくいとる。
「……朝顔、かわいそうになぁ」
 男がつぶやくと、それが最期の言葉になった。
 細い指先が喉に食い入り、朝顔を握りつぶした少女のてのひらは、今度は男の命を握りつぶした。
 ふいに、壁掛けの時計が息を吹き返したかのように動き出す。
 ……ちくたく、ちく。
 握りつぶされた男はずるずると腐ちた花のように畳に流れ、時間をかけて床板へとしみこんでゆく……ちくたく、ちく、たく……床下には、眠るかばね。汚れた水となった男は降りそそぎ、懐かしい邂逅がとげられる……


#眠れない夜に


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