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ちゅらら(前編)

 一週間、という曲がある。ロシアの民謡だそうだ。幼いころ、童謡が好きだった母が「世界民謡集」なる歌曲レコードを持っていて、一時期朝から晩までひっきりなしに針を落とし続けていた。あんまり執拗に鳴らし続けるので、レコードは早々に擦り切れ、カサカサと粗雑な雑音を交え始めた。それでも母はやめなかった。子供心に私は狂った温曲が流れ続ける我が家に帰るのが嫌でたまらず、自然、友達の家に居つくようになった。私の服の裾を始終握り続けていた小さな弟もついてきたのは言うまでもない。友達の家は狭く、貧しく、清貧にふさわしい清らかな静けさに満ちていた。
 ここが我が家だったらなぁ。
 私はことあるごとにそう呟いた。本気でそう思っていたのだが、友達には皮肉に思えたかもしれない。いつも綺麗な洋服を着ていた私たち兄弟に対し、友の服は継ぎをあてたいかにも貧しいものだった。
 友達の名は、よしと言った。私はその友達が好きでならず、よしの纏う貧しさの気配など気にならなかった。例え家で狂ったような童謡メドレーが鳴らされ続けることがなくとも、おそらく私はよしの家に入り浸っていたことだろうと思う。よしは愛らしく、心の優しい子供だった。
 弟もよく懐いており、よし、よしと名を呼んでは、私の後ろから頭を差し出して撫でてもらおうとしたものだ。よしに頭を撫でられるのは心地いい。テストで良い点を取らずとも、ピアノで練習曲をひとつも間違えずに弾かずとも、それは無償の愛によって私たち兄弟の頭にもたらされた。私は、ほとんどよしのことを愛していた。
「よし、大きくなったら結婚しよう」
 私の尊大な宣言に、よしは少しばかりあっけにとられたように口を開き、それから笑った。
「無理だよ。家柄が違いすぎるよ」
 この歳にして悟ったようなことをいうよしが哀れでならず、私は絶対結婚すると啖呵を切った。私の袖を握りしめたまま、僕も結婚すると弟もぐずった。
 よしはおおらかに笑い、それ以上その話は続けず、お茶を淹れてくれた。よしはお茶を淹れるのが本当に上手で、それも我が家で出される香水のような舶来茶とは違い、昔ながらの日本茶なのだが、その素朴な味がよしの人柄そのもののような気がして私は全部飲み切ってしまうのが勿体なく、いつもちびちびと酒のように飲んだ。
 弟もよしのお茶が好きだった。
 小さな湯飲みからふうふうとお茶をすすりながら、よしをお嫁さんにする、と未練がましくそう言った。よしが笑いながら、弟の頭を撫でている。あ、ずるい。幸作ばっかり……差し出した頭に、恩寵のてのひらが舞い降りる。私たちの日常は、おおむねこんな風に過ぎていった。
 事件はあるとき、唐突に起こった。
 子供らの世界への闖入者といえば、いつも大人と相場は決まっている。その時も例外ではない。麗しき私たちの日常を壊滅的にかき混ぜてしまったのは、他でもない私の母だった。
 いつも何処に行っているの。
 擦り切れたレコードはもはや人語とは程遠い言葉を叫び散らしながら、母の背後、居丈高に回り続ける。母の吊り上がった目に、青白い怒りの影を見ぬわけにはいかなかった。私はどうやってこの場をやり過ごそうか、全力で考えている所だった。
 弟は、まだ小さい。母の質問に答えるだけの智慧はあるまい。何故だか私はそんな風に考えていて、母の質問に答える全権は自分にあるものと信じ込んでいた。私の高速回転する頭脳の向こう側、私の袖を握る弟の姿があった。
 いつも何処に行っているのかと、聞いているの。
 一語一語に怒りを含んだその声音に、小さな弟が怯えぬはずがなかったのだ。幼い私はそのことを完全に失念していた。服の裾がぎゅうと引かれる感触があり、私が弟の存在を思い出した時にはすでに弟の唇は動いていた。
 よしのところ、行ってるの。
 弟は、愚かにも真実を告げた。
 自分が口にした言葉が一体どういった結末をはらんでいるのか、弟にはまだ理解できなかったのだ。弟は、よしを殺した。実際に殺したわけではない。けれど、殺した。もう二度と会えないのならば、それは私たち兄弟の中では死んだも同然ではないか! 私は母の恐ろしさを、心底感じ取っていた。
 母は、微笑った。
 般若の面が微笑えばこのような顔になるのではないかというような、それは寒く、恐ろしく、また残虐なる笑みだった。母は、重ねて聞いた。
 よしって、誰?
 答えようとする弟の口をとっさに塞ぎ、しかしその背で私は母の怒りを全身に浴びた。あたかも高線量の放射線に晒されたかのような痛みと、恐怖と、絶望が、私を襲った。
 よしって、誰? 答えなさい。
 母の声はあくまで落ち着いていた。
 私は逆らえなかった。弟も逆らえなかった。よしとよしの家に関するすべてのことを私たちは一から十まで喋らされ、すべてを吐き終え、最後に私は乾きひからびた木乃伊のようになっていた。
 ようく分かったわ。
 母は言った。
 生殺与奪の権利をちらつかせ、ふりかざし、たっぷりと楽しんだ後、残忍に獲物をしとめ殺す狩人のようだった。あるいは時代錯誤の刑務官。処刑人。
 でもそんな家の子と遊ぶなんてとんでもないわ。下品だし、シラミでもうつされたらどうするの。もう遊んではいけません。
 母の声の裏で、軋るように鳴り続けるレコード。狂ったような高速回転の陽気な曲、それが「一週間」。ちゅらちゅらちゅらちゅらちゅらら、異様な緊迫で荒れ狂うあの曲が幼い私はどうしても怖くてならなかった。帰ってこない父。父を待ち続ける母。その傍らでうなり続けるレコード……家は、恐怖と苦痛の坩堝だった。
 はい、と私は言った。
 はい、と弟も言った。
 涙は浮かべていたけれど、二人とも決して泣きはしなかった。
 泣いてはならない。この決定が自分たちを刺し殺すよりも残虐な刑になりうることを知らせるな、私たち兄弟の本能はそう告げていた。うっかりよしのことを喋ってしまった、小さな弟でさえ。
 子供たちが従順なことに母はひと時の満足を得るだろう。その時が狙い目だ。私たちは母の目を盗んで、足音忍ばせて玄関を出る……

 私と弟は、よしの家へ走った。
 台所へ舶来のお茶を淹れに行った母の、一瞬の隙を突いたのだ。香水のようなにおいが鼻に甘ったるく残るあのお茶……父の土産の舶来のお茶には、すでに小さな虫がわんさと湧いているのを私は知っている。台所でひとり、母はお茶から虫を一匹一匹摘まみだす。父が家に帰らなくなって、もう一年が過ぎようとしていた。
 よしの家は遠い。私の家のある区画と、よしの家のある区画は遠く隔絶されていた。母の言う上品と下品の境なのだと、私は思う。けれどそんな区別に一体何の意味があるだろう。私も、弟も、よしが好きなのだ。好きで好きでたまらないのだ。
 角を折れるごとに、路が侘しくなってゆく。舗装路は途絶え、年中埃っぽい土の道が現れた。走る私の裾を捉えかねて、弟が転んだ。どのみち小さい弟は私の足にはついてこれない。私は弟を見捨てた。毎日のように通った道なのだ。弟もすぐに遅れてやってくる。そんな思いが何処かにあった。私は躊躇なく地を蹴った。
 ほどなくよしの家の玄関が見えてくる。小さな植木鉢がふたつ並んだ、粗末なつくりの玄関。けれどそこは私には救いの門に見えた。ここが母によって奪われてはならない。私はこの場所を、よしを守るのだ! 凛然と奮い立つ鼓動とともに、私は玄関の引き戸を開けた。
 玄関の戸はいつも空いている。よしの家には守るべき財産がひとつもないのだ。いつかよしがそんなことを呟いたのを覚えている。貧しいよし。愛しいよし。よしを探して、私は家の中をうろついた。
 よしは、何処にもいなかった。
 縁側にも、茶の間にも、台所にも、よしの姿は何処にもない。私は取り残された子猫のように心細くなり、つい先ほどまで自分がよしを守るのだと息巻いていたことさえ忘れ去り、よしを呼びながら家中を歩いた。
 ……きしり。
 どこかで物音がする。
 押し殺したような人の気配……よしは何処かにいるのだろうか? 私が慌てて訪れたのでびっくりして隠れてしまったのだろうか? それとも隠れんぼでもしているつもりだろうか? よしを探して彷徨う私を陰から見て、そっと微笑を膨らませる……そんな光景を想像して、私はいくらか落ち着きを取り戻し始めた。
 ……ふうっ、と。
 息の根が落ちた。
 私のものではない。誰か、他の人間の。何処から? 私は、歩を止める。斜め前の部屋のふすまがほんの少しだけ開いている。いつもちっきりとふすまの閉じられているはずのそこは、仏間。時折、よしが仏飯を持ってゆききしているのを見たことがある。そうだ、きっと仏間によしはいるのだ。
 かすかに射した一条の光に、私はすがった。仏間に向けて足を踏み出す、と、また、ふうっ……吐息の音。
「……よし?」
 何故、喉からこぼれる声は震えているのだろう?
 何故、ふすまにかけた私の指先は震えているのだろう?
 何故、私の心臓はこんなにも……
 ふすまの隙間から見えたのは、絡み合う軟体動物の姿であった。殻の中に住まう醜悪な貝どもに似て、ひとつとひとつは絡まりあい、なかば癒着して、畳の上を這っていた。溶け合った軟体動物はその癒着面がはなはだ不安定で、あたかも傷口のようにうねり、震え、ともすればせっかくの癒着を仇にせんとばらばらに離散してしまいそうだった。軟体動物の、床に接着する側に、私はよしの顔を見た。
「……」
 よしの小さな顔の中で、愛らしい唇が苦しそうにぱくぱくと蠢く。けれど声にはならない。ふうっ、と時折悲鳴じみた吐息が走った。仰のいた喉が、ひくひくと痙攣した。
 ……よし。
 私の声も出なかった。
 よし? この醜い軟体動物がよしだと言うのか? 嘘だろう? 私は夢を見ているに違いない。そう思うのに、私は残酷なまでに知っている。これは夢ではない。
 しかし夢でないというなら何なのだ。よしの上に乗って蠢き続ける重苦しい肉は、よしとひとつになって畳を這いずり回る悪夢の権化のようなこの軟体動物は。
 ……お父さん。
 よしの双眸がそう言った。
 いや、違う。私の妄想だ。よしの双眸はいまや穿たれた穴のごとく、空っぽだ。透かして見れば背後の肉の塊でさえ見通せてしまいそうな、その双眸に、けれど私は私自身の記憶を見ていた。
 微笑するよし。てのひらに囲われた写真。それは誰?と私が問うと、よしは無邪気に答えた。これは、お父さん。
 よしの双眸の奥にその日の光景を見、私は悟った。よしにのしかかり、一心に蠢き続けるこの軟体動物こそが、その父親なのだと。
 お父さん、たまにしか帰ってこないから。
 写真を眺めて過ごすよしを眺めながら、私は思った。ああ、我が家と一緒だな。何処が? 吐き気をもってして、私は思う。全然、違う。違っていた。
「……よし」
 私は呟いて、手を差し伸べた。
 そうしたつもりだった。
 けれど私の体は私の夢想を裏切った。廊下の床を踵が返る。私は仏間に、よしに、背を向けた。一目散に逃げかえった。
 不思議なことに、帰路、弟の姿に出会わなかった。帰ってからも、姿を見ない。家から突然に逃げ出した私と弟を母はひどく怒っていて、しかしそれ以上に弟の姿が見えないのを気に病んだ。
 探してきて頂戴。どこかで迷子になっているのよ。
 癇性な声音の母に命じられ、私は再び家を出た。
 弟の姿は何処にもなかった。
 家の近くにも、よしの家に向かう途中にも。まるで忽然と消えてしまったかのよう、その痕跡さえなくなっていた。
 弟を探して歩くうち、私はよしの家へ再度たどり着いた。
 もしかしたら弟はよしの家にいるのかもしれない。私を追ってきたものの、すれ違いになってしまったのだ。きっとそうだ。安易な希望的観測が私をひととき安らわせ、そして今度は別種の恐怖が私をとらえた。
 軟体動物。
 冷静に考えれば、あれが何だったのかは幼い私にも分かる。性交、と言葉にはしづらいけれど、肌で感じる猥雑なもの。よしは仏間で、実の父親に犯されていたのだ……
 ……ふうっ、と零される鋭い吐息が生々しく思い出され、私は全身が内からかき鳴らされるような眩暈を覚える。ひりひりと焼けるように喉が渇く。あれからもう随分と時間がたっている。もう終わっているに違いない……姑息なことに私はよしの無事を願うでもなく、いま一度あの恐ろしい交合の光景に出くわさぬことを願ったのだ。
 開け放されたままの玄関の引き戸。
 私が駆け出して行った時から寸分の違いもないような気がする……私は戸に手をかけて、そっと家の中の気配をうかがった。誰もいない、ような気がする。それともまだあれが行われているのか? 恐ろしさが先立ち、私は玄関から一歩も踏み込めない。首だけを差し伸べて、家の中のひんやりとした闇にさらした。
 家の中は暗く、物音ひとつない。恐る恐る私は闇のはびこる空気を吸い込み、その中に人の気配が混ざらぬか注意深く感覚を研ぎ澄ました。何も、ない。埃っぽい、冷えた空気が肺腑を満たした。
「……よし。幸作。……いるの?」
 侘しい声が喉から滑り出た。
 たとえ家中に誰かいたとしても、この声量では気づくまい。けれど、私は気づかれることを恐れていた。正体の分からぬ軟体動物、その正体がなんであるか理解したにもかかわらず、私はやはりそれを恐れ、忌避していた。
 家の中は静まり返っている。
 このまま手ぶらで帰れば、母は何というだろうか。先ほど母の手からよしを守るのだと息巻いていたときはついぞ感じなかった恐れが、私をつかんで離さない。もし私が手ぶらで帰ったならば、母は怒り狂うことだろう。よしの家へ案内しろと言うかもしれない。私はそれに逆らうことができない。そこから先は、想像さえしたくなかった。
 息を吸う。
 息を吐く。
 怯えがちな私の魂は、それぐらいのことでは落ち着きを取り戻しそうにない。かすかに震える、膝頭。私は息を止めて、玄関の中に踏み込んだ。
 家の中は、いつにもまして静かだった。
 いつも感じる清らかな静けさとは違う、けれど先ほど感じた猥雑さを無理に隠したような静けさとも違う、それは私の初めて感じる静けさであった……ぽとり、何かが落ちる音がした、気がする。
 ……ぽとり、ぽとり。
 あれは水道の滴下だろうか。
 確かに台所から聞こえてくるようだ……私は足音を殺して、廊下を伝った。台所へ向かう。
 台所は擦りガラスのはめられた障子の向こう側、やはり静まり返っている。そうっと、障子のふちに手をかける。音もなく、開けた。
 台所には誰もいなかった。
 水道の蛇口から、ぽとり、ぽとり、水が滴っている。
 私は胸をなでおろす。ゆるい蛇口を締めなおそうと、流しに近づいた。つん、と何かの臭いが鼻を刺す。眉をしかめ、蛇口に手を伸ばす。早くこの場所から遠ざかりたかった。何故か? それは……
 蛇口に手を触れ、締めなおす。
 けれど私はその時、見てしまった。流しの銀色の水受けに、夥しい赤色の絵の具が散っていること。綺麗好きなよしがいつも掃除を欠かさなかった流しがひどく汚れていること……私はぎゅっと目をつむった。
 目をつむったまま、後じさりをする。鼻腔をくすぐる臭気の正体に気が付きながら、それは怪我した時にいつも私の鼻腔を華やかな存在感で濡らしてゆく、決してそれに気が付いてはならないと私は自分に念じていた。気が付いてはならない。それはつまり、私の最愛のよしを裏切ることであった。
「……しょうちゃん?」
 ふいに、よしの声が聞こえた。

#眠れない夜に

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