陽炎に極楽蝶
たらりと垂れる太陽の雫は夏の色。けれどそれも絶頂を過ぎ、もうすぐにも死期が来る。
蝉の鳴き声わんさかと。降り注いでは鼓膜を聾し、白昼の町にあふれるは不具者ばかり。蝉どもさえいなければ聞こえる耳を無駄にさらし、ただ陽に焦がす。
緑陰。ふさがれた鼓膜はないにひとしく、ならば地は静寂と言ってもよいのではないか。婦人がひとり、日傘をさして、手持ち無沙汰にくるくると回す。
紫の絞りの単衣に、やわらかなレースの白手袋。足元には目を射抜く照り返し、足袋の白。紅色の鼻緒がきゅっと草履をいましめて、装いはまるで夏の蝶。
蝶もとい婦人は暑気にあてられ、木陰へと逃げてきたのだろうか。艶めく肌にきらきらと伝う汗に魅了され、男はとうとう声を上げた。
「どちらから参られました」
知らず声は上ずり、男は後悔したがもう引っ込みもつかない。丈高い草の海におぼれ、午睡だか気絶だかしていたのを、おもむろに身を起こし、大樹に寄り添う婦人を見上げた。
婦人はと言えば、思わぬところから出現した男に驚きを隠せず、目を見開いた。緑陰のもたらす淡い霧のような色彩がその双眸をいろどって、男の胸に切ないときめきをもたらした。
「あなたこそ、そんなところで」
吐息のようにもたらされた言葉に男は微笑み、
「絵を描いていたのです」
空想の胸のうちを吐露していた。
男は昔から絵描きになるのが夢だったが、家が貧しく、絵筆も紙も得られず、結局一度もまともに絵を描いたことがないのだった。
幼いころ、木の枝で土に描く絵のはかなさを嫌って、それからは頭蓋の空想のなかだけで絵を描いた。空想者の例にならって、男の想像のうえでは素晴らしい傑作がいくつも完成し、外の陽を見ることこそなかったが内側から男を潤してやまなかった。
「まぁどんな絵ですの」
男が絵筆さえ持たぬことに気づいているのかいないのか、婦人は芯から興味をそそられたようにそう問うた。
「極楽の絵です」
男はとっさにそう答え、みずからの予期せぬ言動に驚きながらも、そうだったのか、そう思った。
俺が魂を費やしながらコツコツと描いてきたものは、極楽だったのだ。得心すると、なるほどと全てが腑に落ちた。
「極楽の」
婦人は真剣に頷いてから、ふと表情をくもらせた。
「どんなところですの、極楽って」
「極楽は極楽です」
「ねぇそこも暑いのかしら」
物憂げにつぶやいた唇の紅が際立ち、その横をつうっと汗の雫が伝ってゆく。もの苦しいような胸の痒みを覚え、男は胸をおさえる。
「極楽にはきっと女はいないのでしょうね」
「何故そんなことを言うのです」
「分かるわ。だってあなた極楽だもの」
婦人の指先が気がつけば単衣の襟に伸び、苦しげに合わせをくつろげた。あらわれた乳白色の肌に男はかすかなめまいを感じ、ごく近くに感じていたはずの極楽の気配を見失った。
ゆるゆると婦人の白い指が踊り、するすると帯がほどけゆく。紫の縮緬は包装紙としての役目をあっけなく終え、男の眼前に、なまなまと輝く女体があらわれた。
陶器のようになめらかな、疵ひとつない体だった。
「あたし、極楽って大嫌い」
「だからこんなことをするのですか」
「ええそうよ」
レースの手袋と、足袋に草履。婦人が身につける衣装の名残りはそれだけで、灼熱の陽に灼かれてしまいそうで、男はしかたなく手を伸ばした。身を挺して、婦人の身を守ろうとしたのである。もちろん、嘘。
草いきれに埋もれながら、ふたりは獣のように交わった。声音はすべて蝉時雨に食い散らかされ、ふたりの体は草の海に呑まれていたので、彼らの情交を知るものはいない。
「あなた、極楽を知っていて?」
ふと、婦人がささやいた。
「ねぇあれは地獄ね」
男の首を掻き抱いて、言う。
「極楽って地獄なのね」
抱きしめた体があまりにも熱くとろけるので、やわやわと男と混じり合い、だからだろうか、男も今は彼女の言葉になんの疑念も持たなくなってしまった。
「大地獄」
「小地獄」
二人でささやきあいながら、灼熱の陽のした睦み合う。
彼女の訪れた極楽は極彩色、なんの不自由もなく砂糖菓子のような日々、壊れ物のように扱われ、生まれた赤子は死に、残ったへその緒を……いっそ離縁してくれたら。
「何故、別れないのです」
「子供が欲しいんですって。でも、あのひともう駄目なの。従軍のときの怪我でね、ああ可哀想に……」
「可哀想なのはあなたです」
「馬鹿ねぇあなたよ」
「種馬にされて?」
「種馬にされて」
満足そうに婦人はうなずき、情緒をかげらせてけたたましく笑った。
美しい眉をまぶたを睫毛を頬を唇を、男は想像上の筆で入念になぞった。
なるほど婦人は極楽を知っているようだった。つまりもう死んでいるのだ。
はるかなる彼岸からこの世へ足を伸ばし、哀れな夫のためにせっせと子作りを励む……きっと、男も死んでいる。何故なら、目前に極楽を臨むから。
極楽は駘蕩と流れ落ち、男の胸を伝って、さらには心の臓まで染みわたった。
快楽は婦人の身体を芯まで溶かし、暑熱のなか、男の汗と混じり、精と混じり、やがては一滴の絵の具となり溶け落ちた。
その雫を額に浴びて、男は目を開く。
性の恍惚も苦しみに似た幸福ももうどこにもなく、短い午睡の汗だけが全身に滲んでいた。婦人の姿はどこにもない。
……夢だったのだろうか。
陽炎の底、婦人の姿を探して、男は呆然とする。
夢想の世界、あんなにも握りしめていた絵筆がもうないことに気がついた。くゆるのは絶望? いや……
男は浴衣の襟をくつろげて、ふとそこに懐かしい白を見る。陶器のようになめらかな肌は色濃く匂い、あたかも真夏の蝶を思わせる。
合わせを開けば、平らかな胸。指を這わせれば、その皮膚の上にも繋ぎ目。爪を立てて、肉をえぐる……
「……ああ」
婦人の微笑。
今まさに眠りから覚めたように目を開けて、
「ここは何処かしら」
「地獄ですよ」
「嘘よ。ここは極楽」
男は婦人の耳に口を寄せてささやいて、意味のない会話をはずませる。
蝉時雨。
……蝉時雨。
あんまり外気にさらすから、男の内臓は、そこに生えた小さな婦人の首ごと干からびてしまうのではないだろうか。
蝉時雨。
蝉時雨……
了