見出し画像

常識は人を固くする?

よく会話のなかで『常識やん!』と言われることがあるのですが、それってどうなの?と思うところがあり少し考えてみたいと思います。

常識は誰の何なのか?


そもそも常識とは一体誰の何なんでしょうか?
という事で、言葉の定義を調べてみました。

ある社会のある時期において、一般の人々がとくに反省することなく当然のこととして共通に認めている意見や判断のことであり、その社会の歴史のなかから自然に形成される。したがって識というとき、なんらかの立場や方法論を前提し、しかもそれを自覚して成立する判断であるところの学問的な知識と、しばしば対立させて使われる。
 ところで常識という語の原義は、通常の人間ならだれでもが共通にもっている感覚のことであり、この点、前述したある社会のある時期という限定を伴う普通の意味と多少異なっている。そしてとくにこの原義に近い考え方で常識に注目している哲学者としては、バークリーの主観的観念論やヒュームの懐疑論に反対した18世紀イギリスのトマス・リードがいる。すなわちリードは、通常の理解力のある人間ならだれでも、その人間の本性に基づいて当然自明なものとして認めるいくつかの根本原理(「常識の原理」)があると考え、諸科学の基礎としてこれらの原理をみいだそうとした。
 なお、リードを中心としたJ・ビーティ、J・O・オズワルドらの一派は常識学派とよばれ、ドイツ、フランスの啓蒙(けいもう)哲学に影響を与えた。また19世紀アメリカの哲学者パースによっても、常識をだれでもがもつ一種の本能のようなものと考える考え方が採用され、展開されている。
[清水義夫]

コトバンクより抜粋

時代の背景によって常識が変わるという事は経験から皆さんもご存じの通りだと思います。
加えて、自分の信じるものや生きてきた環境によっても常識の中身というのは変わる様なのです。
人によって前提としているものや、物事を捉える角度は違っていることが普通だと思います。
むしろ、全く同じであることが奇跡的な事であるからこそ、意見が一致したり共感した時に強い繋がりが生まれたりするわけですよね。
常識とは同じコミュニティーや前提が一致している時にその界隈での共通認識なので、前提が揃っていなければ常識という言葉は通用しない気がします。
ただし、共通認識というのは証明するのは難しく、その方が大切にしているもの、そうであって欲しいもの、と混同してしまうケースがあるように感じます。
これが私の『常識やん!』と言われたときに時々感じる違和感なんだと思います。
自分にとっては当たり前だったり重要な事でも相手のそれとは異なるということを押さえておかなければ、常識という言葉は時に暴力性の高いものになると思います。

挨拶をするような気持ちで暴力をふるっている可能性もある。

企業における常識とは?

経営に携わった事が無い私には何が経営における常識なのかは分かりませんが、私が大学生の頃から『企業の最大の目的は利益の最大化である』という事を経営学の授業では教えられてきましたし世の中的にも常識に近い事だったのかもしれません。
また社会人になってからは人財という言葉が聞かれるようになり、社員教育に力を入れてセミナーに参加させたり有給取得を含めた福利厚生の充実を謳う企業が増えました。
これは流行りというよりは、世の中の考え方が変わってきており追随しなければ企業が人を採用できなかったり、企業を持続する為には行わなくてはならない常識になりつつあります。
それ自体が正しいかどうかはこの際問題ではありませんし、経営者や会社が大切にしていることであれば何でもいいんじゃないかと思っています。

ただ企業側も、そして消費者側も、就活生も、一つ考えておかなければいけないのは今までの考えに固執し、それに反する新しい考えを反射的に拒んでしまう事があるという事です。
常識という言葉は、人の思考を止めてしまう傾向にあるようです。
それだけ強く思う事、悪い言い方をすれば思い込みや固執は人の頭を固くして、反対意見を受け入れられなる人間を創り出してしまうのかもしれません。

センメルヴェイス反射


センメルヴェイス反射という言葉があります。
1800年代、産後16%を超える妊婦が産褥熱という子宮からバイ菌が入り発症する病気で死亡している事に疑問を持ったセンメルヴェイスという医者がいました。
調査をしたところ、当時の産科は医学生が解剖などの仕事も掛け持ちしている事が分かりました。
そして、その一人が解剖中に誤ってメスで自分の手を切り、結果熱によって死亡したのです。
その結果からセンメルヴェイスは医学生に対して分娩前には手洗いを徹底するように指示しました。
すると、みるみる産褥熱による妊婦の死亡率は下がりました。
ここまではいい話です。
しかし病院の重鎮たちの判断は違いました。
手洗いの効果について疑問視し、手洗いを中止させたんだそうです。

『医者=病原体は持っていない』とうい考えからの判断だと思われます。
自分の中で確固たる信念があると、新しい事実が出てきたときに反応できないだけでなく、批判をして潰してしまう可能性があります。

柳の様な人間性


こういうことを言うと、じゃあ信念や自分の確固たる価値観など持たない方がいいのか?という事になってしまうのですが・・・
あくまで、そういった事が『邪魔することがある』ということなので、自分の思考がその時点でどうなっているか認識をすることが大切だと思います。

ましてや企業を経営しようとする人間が、信念も想いもない様では、一体誰が付いてくるのか?となります。
問題は、自分の知らない事、理解に苦しむ事への反応をどうするかだと思います。
私個人的には柳の木のイメージがいいなと思っています。
どれだけ強い風が吹いても、受け止めて流されてからまた元の位置に戻る。
決して反発しないし、かといって流されていくわけでもない。
自分を持ちながら異質のものを受け入れていく様子がいいな~と思っています。

こんなに大きくなっても、しなやかさを失わない柳。素敵。

そういった柔軟性を持つには、どういった事が必要なのでしょうか。
暫く思考を巡らせてみたいと思います。
続きは次の投稿にて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?