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もう少し振り返る

会社を辞めて、自分の新しい事業以外にもう一つ決意したのは、「地元の名士になる」ことだった。
「名士」というと「すぐれた名高い人物」のニュアンスまで含まれそうだが、僕が目指すのは、単に存在を知られるようになるというほどの意味だ。

今の場所にきょを構えて四半世紀、それまで近所づきあいといっても挨拶程度で、あとは当番制で回ってくる自治会班長を引き受けるくらいだった。
箱根やら浜名湖やら、車の往復だけで数時間かかる契約先に向かうのが定番のスケジュールで、本社のある静岡市清水区に顔を出す方が珍しいくらいな日常だった。それゆえ、地元の人と知り合いになる機会も意識もないままに過ごすことになる。

退職したその日から、仕事上の付き合いは一切絶とうと決めていた。理由まで明示しないが、最後の数か月間、つくづく嫌気を覚える出来事があったためとだけ記しておく。

その期間、たまたま神社の総代をつとめていた。引き受け手がなく、半ば強引にさせられたと言っていい。
3年の任期の中で、老朽化した側殿の修繕をする計画にたずさわった。ところが氏子うじこの積み立て金は充分でなく、各戸から寄付を募ることになる。これをきっかけに、ご近所の皆さんと顔を合わせる機会が増えるようになった。

ほとんど仕事オンリーで過ごした26年の付き合いを断つにあたり、新たな人脈づくりを、地元から始めようと思った。
そこにかっこいい理由など何もない。近ければ移動費(ガソリン代)がかからず、会う労力も最小限で済む。これからしばらくは、退職金といくばくかの貯えでしのいでいかなければならない。支出は極力抑えたいという、打算のみからだ。

退職したのが10月31日。
その3日後の11月3日、神社で七五三の行事があった。動画の練習がてらその様子を撮影して、DVDに焼いたものを関係者にプレゼントしようと思い立つ。人脈づくりの第一歩だ。
すでにMacと編集ソフトは購入していたものの、その時点ではまだカメラがない。iPhoneで動画を撮影した。

昔も今も、僕が実は内向的な人間であると言ったとして誰も信じないはずだ。外っツラからだけ見れば、僕ほど社交的な人間も珍しい。
ところが、実体としての僕は人づきあいが苦手である。それまでは仕事として、会社役員という肩書として、社交性を演じてきたに過ぎない。

何もしないで生きて行けるなら、部屋にこもり、好きな音楽を聴いて本を読んでいれば、ひと月やふた月外出しないでも、余裕で過ごせるだろう。
「家では一切しゃべりません」などと言おうものなら冗談と勘違いされ、笑われたりもする。僕自身は突き詰めた「孤独」の感性から生まれるグレン・グールドのピアノに、ひたすら共鳴してしまうタイプなのだが。

最初は演じていても、繰り返すうち社交性もまた、自分の特性の一つになっていく。
今となっては、ON(社交性)/OFF(孤独癖)というのとも少し違う、瞬時の切り替えが無意識に働くようになっている。雄弁も無言も、どちらであっても苦にならなくなった。

ところが意外なことに、商売を抜きにした新たな関係性づくりにおいて社交性は影を潜め、新しい出会いに対して苦手意識がまさっていたのだ。
自分で決めた七五三取材も、当日の朝まで行くか行かないか、ぎりぎりまで悩んでいた。

意を決し出向き、初めてのスマホ録画を敢行してみると、意外なことに気づく。
親御おやごさんや子供たちにインタビューするとき、僕は当人と直接向き合うのではなく、スマホの画面越しで被写体と会話をしている。
その場を共有する同じ対象であるはずなのに、そこには一度レンズを通した距離感が生まれていたのだ。その「距離」は絶妙で、生身の人間の目を見て話すよりも対話を容易にしたし、決めポーズを冷静に要求することもできた。
そうか。対象とは一定の距離感があったほうが取材しやすく、客観性も生まれるわけか。やってみなくちゃ分らない事って、やっぱりあるもんだ。

帰宅し、撮った動画を編集したうえテロップを加え、曲がりなりにも作品第1号が完成した。
11月3日「文化の日」。本来の「明治節」は、自分の新たな人生に向けた第一歩となった日である。
それは同時に、僕が60歳近くなるまで自分の人生に関わりなかったはずの、神社が取り持つ縁でもあった。
(明日に続く)

イラスト Atelier hanami@はなのす


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