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人間失格

言わずもがな太宰治の代表作である。

太宰治の作品はいくらか読んだことがあるが、この『人間失格』だけは未だに読了していない。


はじめてその本を手に取ったのは、高校2年の夏だったかと思う。宿題にこの本の解釈と要約をするというものがあったのだ。


夏休みの宿題は基本的に終業式のあった日に終わらせ、時間のかかる読書感想文や自由研究なんかも遅くとも7月中に終わらせていた。我が家は皆そうであった。


小学校からの通例通り、この課題の早々に片してしまおうと終業式の後、そのまま図書館に寄り『人間失格』を借りてきたことを覚えている。


ゲームも漫画も禁止だった我が家において、読書は娯楽の1つだった。文豪の代表作ということもあって多少の期待もあったように思う。


だが、私はこの本を読み切ることができなかった。

何年も前の話だ。内容も殆ど覚えていない。ただ痛烈なほどの不快感、なんとも気持ち悪いという感情だけを覚えている。


男女関係を直接的に表現する内容が当時の私には受け入れられなかったのも一因だろう。

もう一つの要因はあの頃の私はまだ自分に期待ができていたことではないかと思う。


薄ぼんやりとした記憶ではあるが、恵まれた境遇の主人公の懺悔するような文章が、強烈な自己否定が受け入れられなかったのではないかと今更ながらに推測している。


夏休みの宿題は「『人間失格』についての解釈」を述べてある本を頼りに書き上げた。借りてきた本はすぐに図書館へ返却してしまった。




スマホアプリでかの文豪の作品を手軽に読めるようになった今、『人間失格』を除いた作品をいくらか読むようになった。


面白いと思った作品も私には合わないと思った作品もあった。だが、いずれの作品にも何某かのアンチテーゼや痛烈な皮肉があった。


社会の荒波に揉まれ、やがてそれに溺れ、近い人々にようやっと岸に引き上げてもらった私は、つまらないと思った作品でさえ何処かに共感していた。



かの文豪が生きた時代は2つの世界大戦とその終戦。実に生きにくかったであろう。況してや彼は時の政権の顔色を伺うようは作品を世に出さなかったのだから。

なんの文才もない私ですら、そう思いを馳せた。


現代社会は生きにくい。目まぐるしく変化に対応できなければ、あっという間においていかれてしまう。


そんな言葉が最早、ありきたりになってしまうほどに言われている昨今であるが、改めて考えるとこの国に停滞を許されるような時代はあったのだろうか。


近い時代では高度経済成長からバブル期は今より確かに生きやすかったのかもしれない。少なくとも当時の日本人はある程度の会社に勤めることができれば将来が約束されていると錯覚できたのだから。

だがしかし、そんな時代さえも馬車馬の如く働く日本人の長時間労働によって支えられていたのだと思うと私のように社会の荒波を超えられず溺れていった人間は相当数いたのではないだろうか。


その前を遡ると江戸時代だろうか。徳川による天下統一の時代と完全な分業体制は一種の停滞だったかもしれない。しかしその時代でさえも歴史を紐解けば、様々な文化の台頭や教育体制の整備など、天下分け目の関ヶ原から大政奉還までの間に大きく社会は変化している。


結局、生きやすい時代なんて存在しやしないのだ。


その時代毎に相応しい振る舞いを、教養を、思考を求められ、それに応えられなかったことを恥とするなら、人間失格の烙印を押される者が沢山存在し、これからも生まれていくのだろう。


私がこの名著で唯一覚えている一文。「恥の多い生涯を送ってきました」。

私はまさにその恥を演じている真っ最中だ。買ってでもするべきと言われた苦労に潰され立つどころか顔も上げられていない今日だ。


いつの日かこの拙い文章を読み返した時、今度こそあの名著を読み切ることができた時、果たして私は「人間」なのだろうか。はたまた「人間失格」なのであろうか。


どちらにせよ、溺れた私を岸に引き上げてくれた人に、また潰されても動けるようになるまで見守っていてくれた人に何か返せる存在でいられればよいなどと、それができないのであればせめて彼らの負担とならないようであればいい。


嘗て読み切ることのできなかった名著のタイトルが青空文庫のアプリに登録されているのを眺めながら、また今日も読み出すことができずにいる。

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