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バブルと虚業

土地バブル、金融バブル、ITバブル...まあいろいろあるが、たぶん実体は空虚なもの。無知な人間の戯言と思っていただければ。

別に経済学を専門に学んだ訳ではないが、昔からやたらと経済学関連の書籍を読んでいたように思う。
懐かしい話だが堺屋太一氏の「知価革命」からガルブレイスあたりの著作を読み漁っていたような気がする。今となっては何が書いてあったのかさっぱり記憶には無いのだけど。
これからの社会は物質的な価値に加えてインテリジェンスが価値を持つようになる…とか、そういった内容だったと思う。間違っていたらご容赦を。
捨ててはいないのでどこかにはあるだろうが、探してまで読む気にはなれない。1年以上前に入手した『人新世の「資本論」』も、まだ序文しか読んでいない。これを読了したら、また違ったことを思い浮かべるのかもしれないが、とりあえずいつものように思いついたことを書き綴る。
1980年代、日本国内はバブル景気に沸いていた。当時はそんなものかと思っていたのだけど、今考えると明らかにおかしい。土地バブルが金融に飛び火して膨れ上がっていったというのが個人的な感想である。わずかばかりの恩恵はあったにせよ、ほとんど自分とは関係のない話だった。
それでも経済が回っている間は皆、気にも留めなかったのだろう。いや、気づいていたけれども気づかない風を装っていたというのが正しいかもしれない。おそらく末期になってくると、もうババ抜き状態なのがわかってきて、自分のところで破綻しなければそれでいいという出資者も多かったのでは?
案の定、中身の伴わないものは弾けて、文字通り「泡」と消えた。
その余韻もあって、1990年代初頭まではまだなんとかなるんじゃないかという楽天的な見方もあったが、知っての通り「失われた30年」がそこから始まっているのである。人口におけるボリュームゾーンである「団塊ジュニア世代」が、その煽りを喰らい「ロスジェネ」と呼ばれているのは周知のこと。その世代がアラフィフを間近にしている今日、この国に未来はあるのだろうか?些か悲観的にならざるを得ない。
さて「泡」と消えたと表現したが、別にどこかに消えた訳ではないのだ。そこで使われていた貨幣の類はどこへ行ったのだろう?
確実に誰かの資産を増やし、市場に出回らない資金がどこかに眠っているはずなのだ。だいたい国債残高1000兆円超と言ってるのだから、その分の通貨はどこかに無ければ計算が合わない。
そのあたりは、まだ現実に通貨発行を伴っているから良いのだけど、近年のバブルは本当に実体が無い。土地やら美術品や骨董品は現物があるが、現代の通貨はただのデータである。株取引もデータ、投資もデータである。インターネットとシステムが無ければ成り立たない。ゆえにIT業界に資金が集まり、肥大化していく。一時期の狂乱も少し落ち着いたようだが、仮想通貨(現在は「暗号資産」というらしいが)騒ぎなど最たるものだろう。あれに乗じて現実の資産を増やした者もいたのだろうけど、それが実体経済に寄与しないのであれば虚業であろう。
貨幣とは交換を促進するためのツールであり、それ以上でもそれ以下でもない。現実の価値あるものに活かされてこそ意義あるものだろう。
個人資産を増やすのもいいだろうが、それは使われてこそ価値がある。
決して「金で金を買う」ような虚業に使うべきではないのだ。
所詮は持たざるものの戯言ではあるが。

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