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この戦争は、どう始まったか -ヘルソン(1)

11月8日 ウクライナ・プラウダ:(7,175 文字)

ブズコビィ・パルクの戦い -隠されたヘルソン占領の歴史

3月1日は、へルソンにとって、ロシア軍侵略の最も悲劇的な日だ
ロシア軍が都市を包囲し、いくつかの方向からヘルソン市中枢部に侵入し始めた
その一つが、ヘルソン国際空港(チョルノバイフ飛行場から)からナフトビキフ通りのルートである

この道中、ブズコビィ・パルク《Бузковому парк》(ライラック・パーク)で領土防衛軍の兵士たちが侵略者を出迎えた
注:「ライラック」は花の名前

この出来事は、英雄的であり、同時に悲劇的でもあった
このとき、へルソンの住民、約40名が、戦力で圧倒的に勝るロシア軍との戦闘を繰り広げた
ウクライナ人は機関銃と火炎瓶で、侵略軍は装甲車で武装していた

3月2日、ブズコビィ・パルクの映像がネット上に流れ、へルソン市民に衝撃を与えた
大口径兵器の砲撃でなぎ倒された木々の中に、ウクライナ人の遺体があった
手足や頭部を失った遺体も少なくなかった

ロシア側はこの占領のエピソードを隠蔽し、この戦争の歴史から抹殺しようとした
しかし、そんなことはできなかった
5月、占領下にあったへルソン市民がブズコビィ・パルクに、3月1日に勇敢に戦い亡くなったへルソン領土防衛軍の戦士たちの記念碑を建てた
注:領土防衛軍については他の記事をご参考ください

この戦いは、長い間、何も知られていなかった
戦いの映像は、衝撃的な内容であったためか、あるいはへルソンでの血生臭い占領の痕跡を隠そうとする占領者が何かしたせいか、Youtubeから映像が削除されたからだ
なんとか生き延びた戦闘参加者たちも沈黙していた

しかし、私たちはその戦いに参加した一人の戦士を発見した
スタニスラフ・バザノフは、へルソンの領土防衛のために任務を続けている
現在、領土防衛軍第192へルソン大隊の中隊で上級戦闘衛生兵を務めている
この戦士のコールサインは「メディック」
ブズコビィ・パルクでの戦いを最初に口にしたのは、このメディックだ
彼は、へルソン市民とすべてのウクライナ人に、この英雄的な悲劇のエピソードを知って欲しいと願っている

以下は、彼の視線で語られるストーリーです

戦争が職業を変えた

2月26日、生まれて初めてマシンガンを手にしました
私はそれまで兵役についたことがありませんでした
25年間、アパートの建築・修繕に携わってきました
いつからか、なんとなくその仕事に飽きていました
戦争の少し前、「職業を根本的に変えてみたいなぁ... 」という思いが少しあったのです
誤解されたくないですが
そして、まず軍人になり、次に衛生兵になりました

戦争が始まって、他に選択肢はありませんでした
仕事を変える時がきました

戦争が始まった時、私はへルソン州のビロジェルスキー地区のポサド・ポクロフスキーに住んでいました
領土防衛軍での登録地はミコライウです
へルソンで戦争が始まったとき、ビロツェルカの領土防衛軍入隊事務所に行きました
注:スタニスラフ・バザノフさんの自宅から 10㎞ ほどの場所

ヘルソンとミコライウの中心部の距離は約50㎞ほど

ビロツェルカの住民が、へルソンを守る

2月25日、ビロツェルカの入隊事務所に行こうとする仲間たちと集まりました
そこで彼らと丸一日一緒にいました
 「家に帰れ。武器も軍服も無いくせに(戦わなくていい)」と仲間たちからは言われました

しかし、26日の朝、私の車で仲間たちと一緒にビロツェルカへ行きました
そこは大混乱だったと言えるでしょう
明確な組織がなく、誰も何をすればいいのか分からなかったのです
30〜40人ほど集まりましたが、昼になるともっと多くの人がやってきました

バスが来るというので、集合し、乗り込みました
バスがどこに行くのかも知りませんでした
乗った後、バスはクロピヴニツキー(ヘルソンから北に200㎞ほど離れた都市)に行くと言われました

クロピヴニツキーに行くと言われましたが、実際はへルソンに行きました
ヘルソンのパロヴォズナ通りまで行くと、武器がありました
(注:パロヴォズナ通りはヘルソン駅の裏通りで、領土防衛軍の事務所の一つがあった )
それで、領土防衛軍第194ベロジェスク大隊に入隊することになりました

注:第194ベロジェスク大隊は領土防衛軍第124旅団に属する大隊。通常時は50人の部隊編成。
第192へルソン大隊も同じ領土防衛軍第124旅団に属する。

https://bilozerka.info/najbilshij-bataljon-buv-sformovanij-z-bilozerciv/

へルソンでは、領土防衛軍は放置されていた

後で知ったことですが、へルソンの領土防衛軍は2月25日に退去命令を受けていたそうです
へルソンの住民全員が従ったわけではなく、市内に残った人もいました
しかし、私たち第194ベロジェスク大隊は、26日に到着したばかりだったのです

3月1日までクーリック通りの学校の寄宿舎にいました
第194ベロジェスク大隊のみんなと他の大隊の人たちとで、500〜600人くらいいたと思います
その時、へルソン市には、軍人は私たちの他には誰もいませんでした
(他の人の証言によると、開戦初期に北東に8km ほど離れたアントニフスキー橋でウクライナ軍第59機動歩兵旅団と第80空挺突撃旅団の兵士の部隊が戦っていたが、撤退することになった )

2月27日、私は寄宿舎の前面の守衛になりました
その頃、チョルノバイフカが占領され、ロシア軍がそこで1000~1500セットのウクライナ軍服を鹵獲したという噂が伝わってきました
それで、上官からは「駐屯地から制服を着た者が来たら誰でも撃て」と命令されました
「もし、私たちの仲間だったら?」と聞くと、「街中に仲間はいない」と言われました

チョルノバイフカ

何のために3月1日まで寄宿舎にいたのか、私にはわかりません
小さなテリトリーにみんな集まっていたのです
おそらくロシア側は街を破壊せずに占領したかったのでしょう
だから、寄宿舎には誰も来なかったのだと思います

私の部隊長は、ドミトリー・イシチェンコ准将に、陣地を確保して戦闘するか、撤退するかはっきりするよう繰り返し要請していました
街は抵抗するための準備が全くできていなかったのです
4日間で、いくつかの防衛線を自分たちでアレンジし、チェコのハリネズミを置くこともできたはずです
しかし、ヘルソン市当局は、この点に関して全く何もしなかったのです

注:ヘルソン市関係当局の不作為についてはかなり多くの疑惑と批判がある
当時のヘルソンSBU局長がロシアのスパイで、緊急連絡を妨害していたと言われている

43人の兵士でブズコヴィ・パルクに向かった

3月1日の朝、旅団長から陣地へ行くようにとの命令されたと部隊長に言われました
午前10時ごろに移動しました
私たちのバスは43人を乗せ、ブズコヴィ・パルク周辺に向かいました
シュメンスキー地区のロータリーまで行った別のバスもいたようです

みんな領土防衛軍第194ビロツェルカ大隊の兵士で、ほとんどがビロツェルカ地区の村人たちでした
中には、私の知り合いもいました
つまり、この人たちはみな普通のウクライナ人でした
領土防衛軍の参加者もいましたが、未経験の人もいました

15~20分で、すぐに到着しました
その後、公園と斜め向かい側の精油会社のゲート付近に分かれて30分ほど待ちました
戦闘そのものは20〜30分も続きませんでした
少なくとも、 「明確な」部分は…

ライラックパークの戦い

ロシア兵たちは、どうやら、私たちがいるのを知っていたようでした
最初に現れたのは、敵のBTR《БТР》でした

BTR《БТР》装甲兵員輸送車両

遠くからではなく、近づいてから攻撃してきました
続いてBMPが2両来て、公園の間際に停まりました

BMP《БМП》

それに、どこかに戦車がいたようです
エンジンの音で分かりましたが、姿は見えませんでした
その時驚いたのは、どの車両も大きなロシア国旗を付けていたことです

私たちは、迫撃砲の隊員と最大10人の敵歩兵がいると予想していたのです
そんな部隊なら私たちも対応できたでしょう
後で隊長からは、装甲車の数を見て、援軍が必要だと思ったそうです
負けるのが目に見えていたからです

最初は、比較的穏やかな時間が流れていました
私たちは待ち構えていました
まず、敵のスナイパーが私たちに攻撃を始めました
そして、敵の重機関銃(ウラジミール戦車用機関銃)の攻撃が始まりました
さらに、BMP 2両の攻撃も加わりました

RPG-18

私たちは「ムハ」グレネードランチャー(RPG-18)を2本持っていました
BMPに一発が命中しました
オレン・マカスキーが命中させたと言われています、その後、彼は戦死しました
BMPは煙を上げていましたが、5分後には再始動し、全ての銃火器での攻撃され続けました
近くの直径40センチほどのアカシアの木までが倒されたので、どうやら戦車からも攻撃されていたようです

主に公園の茂みの奥から攻撃していました
後で公開された映像で分かったのですが、公園で戦っていた人たちは、ほぼ至近距離、25メートルくらいから撃たれていました
迫撃砲でも撃たれていたんです
それに、公園内でAGS(自動手榴弾発射機)も使っていたようです
つまり、ロシア軍は可能な限りのものを使って攻撃していました

AGS

我々は、みんな火炎瓶を持っていました
私がチェックポイントから火炎瓶の箱を運びました
持っていくと、みんな1、2個の「カクテル」を持って行きました
でも、投げるのは非現実的で、誰も使いませんでした
火炎瓶は30m、頑張れば40mは投げられますが、ロシア人はもっと遠くにいて、150〜200メートルだったと思います
しかも、投げるために立ち上がることすらできませんでした

ロシア側にとって、この戦いは射撃練習のようなものだったでしょう
重たい機材を使って、のびのびとやってました
こちらが持っていたのはカラシニコフとF1グレネード20発くらいで、それすら、あの状況では使えなかったんです
唯一の救いは木々があったことでした
でも、すべて攻撃を防げたわけではありません
映像でご覧いただいたように、木も貫通したのです

私たち15人のグループは、ロシア軍から少し離れたところ、製油所のゲートの横にいたので、その分、損失が小さかったのだと思います
隣にいたのは男は、苗字はショルニクだったと思います
(記事公開後、友人たちが故人の名前を特定した)
オレグ・ショルニクは、戦闘開始時、真っ先に命を落とした一人でした
機関銃で撃たれました

13人の兵士がガソリンスタンドに撤退

すぐに、部隊長の退却指令が出ました
必死に、這ったまま後退しました
フェンスを乗り越えて製油所の敷地に入り、みんな集まって中に逃げこみました
13人で退却したんです
部隊の指揮官から、武器を埋め、軍服を脱いで私服になり、暗くなるのを待って製油所を出て、ビロツェルカ方面の街に向かうように命じられました
私たちはすでに、自分たちが占領下にあることを理解したのです
しかし、ビロツェルカにはまだロシア軍がいないという情報がありました

そして、武器を埋め、私は3番目にそこを出ました
製油所の敷地に隠れてました
2時間後、偶然ガサガサと音が聞こえ、部隊長が来るのに気づきました
それで、彼と一緒に、暗くなる前に、昼間のうちに危険を冒して外に出ることにしたのです

製油所にはすでにロシア軍の車両が入り込み、敷地の掃討作戦を始めていました
あちこちで銃声が聞こえ、重火器が使われていました
銃声と、その後のしばらくの静寂
掃討作戦は別の場所でも始まりました

ざっくりとした逃走経路

ヘルソン国際空港(4km以上離れている)を通って逃げました
どれほどラッキーだったかはわかりません
夕方にはビロツェルカに戻ってました(空港からさらに7km)
地形を熟知している部隊長のおかげで、無事に脱出することができました

ビロツェルカに2、3日滞在しました
そのとき、部隊長から「ミコライウに戻って、へルソンの人を探せ」と言われました
しかし、私はへルソンに戻りたかった
大隊の、仲間の生き残りがいたんです
それに、すでに占領されていたチョルノバイフカに家族がいたことも影響していると思います

ロシア人は死体の山を売る

そんな時、公園のあの映像を見たんです
あの映像で多くの犠牲者を認識しました
重い気持ちで見ました
そして、2つ目のビデオが出てきたときは、もっと大変な気持ちになりました
まだ死体が転がっていて、地元の人によると、犬がそれを食べ始めたというのです
この後、回を重ねるごとに、ロシア人に対する同情心が薄れていきました

そこで合計18人が亡くなったという情報があります
全体が43人くらいだったので、つまり大雑把に言えば二人に一人が死んでいたわけです
私はもっと多いのではと疑っています
部隊長と私が地質学者の墓地(市外にある)の裏に回るときも、製油所で銃撃戦が続いていたのです
そこでも死者がいたと思います
それが数に含まれているかどうか分かりません

私の小隊長は公園で戦死しました
彼自身はヘルソン州スタニスラフ(ビロツェルカから西に10㎞ほどの場所)出身です
数日後、ロシア人は彼の遺体を妻に売り渡しました
金額については、まだお話できません
衝撃的なのは金額のことではなく、死体を売るという事実です

注:組織的、計画的に行われている事を示唆する情報が確認されている

ロシア人が遺体を調べ、携帯電話を取り出し、親族と話したことは知っています
部隊長に電話があった時、私はその場にいたのです
(ロシア軍の)クラスノフ中佐だか大佐だかクラスネンコだかから電話があったようだ--
そして、遺体を引き取りたいという親族に売ろうとしていた

残りの仲間、私の部隊から、後に占領地を脱出した人を何人か知っています
製油所で集まった13人の、一緒にいた人たちです

私の友人は、あの戦いで負傷しました
ロシア人が歩き回り、負傷者を殺して歩いていると言っていました
それで、ロシアから医療援助が受けられるとは考えられなかった
彼はなんとかそこから這い出して、外に出て、ヘルソンの人々に助けられた

親切な医師が、診断書に「家庭内事故」と書いてくれました
当時、ロシア人は病院で銃弾や榴散弾で傷ついた人たちを探していたんです
VOG(グレネードランチャーの破片弾)で左脇腹を切り、爆発で右腕を折っていました
彼は、長い間イリザロフの装置をつけて歩いていたようです
ナドニプリャンスケ村にいたのですが、ロシア軍が村を掃討に来たので、彼は自分でそれを外したんです

イリザロフの装置

他にもまだ占領下にある人がいるかもしれませんが、名前は出せません
これは、彼らの安全に関わることです

部隊長が捕虜になっているビデオを見ました
ロシア国籍を取るように強要したのだと思います
彼のその後の運命はわかりません
(注:はっきりしないが、おそらく「ヘルソン市民がロシアのパスポートを取得する」と言うロシアが公開したプロパガンダ映像のことだと思われる)

私の部隊の指揮官は、キシリブカの出身で、キシリブカは長い間占領下にありました
そこで奥さんが脳梗塞で倒れたんです
戦争が彼女の健康を大きく損ねたんです
でも、彼女は生きていて、今はヴィニツィア州(モルドバに接するウクライナの中部)にいます

キシリブカ

部隊の指揮官から聞いたところでは、出発前に(注:ロシア軍に鹵獲されないように)すべての書類を焼却してしまったため、戦死者でも、いくらかの補償金も支払われないようなのです
実際、殺された仲間たちの名前がどこにも載っていないことが分かっています
このまま、彼らの家族が何の補償も受けられないとしたら、それはとても残念なことです

へルソンはロシアじゃありません!

ミコライウに着くと、そこには領土防衛軍第192へルソン大隊隊員が13人いました
私もそこに加わりました

私が所属していた第194ビロツェルカ大隊の最初のころにいた人たちには、まだ会ったことはありません
実は、バラバラになっているのです

ミコライウで、私たちが皆酔っぱらっていて、「頭にチェッカーをつけて」ブズコヴィー・パルクのロシア軍の装甲兵を機関銃で攻撃したというような噂を聞いたことがあります
このような噂は、ウクライナ軍の間でも広まっていました
誰かが、私たちに「行け」と命令したことの責任を免れようとしているように思えます
それで、私たちが酔っ払っているという話をでっち上げたんでしょう
しかし、そんなことはありませんでした

そんなこんなで、私は軍務を継続することにしました
あの戦いで戦争は終わっていないのです
どこかの家で黙っているわけにはいかない
それに、占領下にいる仲間を助けたい

ロシアがへルソン地方を併合しても、私には何の変化もありません
狂人の戯言です
ロシアであるはずがないのです
へルソンもクリミアも、その他のウクライナの土地も、ロシアにはなりません

私は、へルソン州は必ず解放されると確信しています
そうでなければ、どうしたらいいのか想像もつきません。
私はへルソン州に家を持っています
すでに破壊されていますが、廃墟になっていてもロシアに渡すつもりはない

ここが私の故郷なんです
私の家族はそこで育ちました
私の家族は西部に、私は今はハルキウ州にいます
でも、いつかは終わりが来るし、へルソン州に帰りたいんです
戦争が終わったら、家を建て直して住もうと思っています

へルソン解放後は、ブズコビィ・パルクでの戦いのような例もありますし、親ロシア的な感情が少なくなることを期待しています
私にとっては、あの戦いは歴史的な出来事です
生涯忘れることはありません

(つづく)

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