見出し画像

ロシア軍の将軍たち

この基準に基づいて表記します

11月23日 ウクライナプラウダ:(6,716 文字)

ハイブリッド戦争からアルマゲドンまで

ロシア軍のウクライナ侵攻の公の顔は、長い間、プーチンだった
2月24日の前夜、そして「特別軍事作戦」開始後の最初の数日間、クレムリンの宣伝機関が広めていたほとんど全ては、プーチン「総統」の言葉であった
まるでプーチン自身が戦争をしているかのように、プーチンだけに「世界の第二軍の勝利」の果実をすべて集めるために
しかし、「96時間のキーウ攻略」が失敗し、ロシア軍がドンバスで泥沼に嵌まり、ウクライナ軍がハルキウ地方の反撃に成功すると、「総統」は不人気な動員に頼らざるを得なくなった
公的な失敗の重荷が、クレムリンの親分には重くなり始めたのだ

結局、「戦争好き」な指導者というイメージを泥沼の中に残さないようにするため、モスクワはこの作戦の「栄光」を共有することにした
そしてロシアは、ウクライナ軍司令官にセルゲイ・スロヴィキン将軍を任命したと発表した

「難しい決断」について語り、ショイグ国防相とともに、へルソンからの退却の公的責任を負うことになったのはスロヴィキンであった
もちろん、その二つ名(いわゆる「ハルマゲドン」のあだ名)だけで話が終わるわけではない
いくらロシア国防省が公の発言だけを繰り返しても、いわゆる「特殊作戦」について責任を負い、指揮をする将軍たちの情報は定期的にメディアに漏れてくる
ロシア軍がどのように指揮され、どのように戦っているかという一連の情報を公開する

最初に、実際にウクライナでの軍事作戦に責任を負っている(負わされてきた)将軍たちとその関係性を説明しよう

セルゲイ・ショイグ上級大将

ハイブリッドコマンダー

正式には、ロシア連邦最高司令官ウラジーミル・プーチンの次に、ロシアの軍事指導体制で最初に登場するのが、セルゲイ・ショイグ国防相である

現在の軍事部門のトップであるこの男は、プーチン自身よりもずっと長くクレムリンにいる
しかし、政治家としての第一ステージは、軍とは何の関係もない
1991年、ショイグはモスクワの救助隊長となり、20年以上にわたって災害対策畑を歩んだ
まだ民主化への漠然とした希望があったエリツィン政権下のロシアで、ショイグは政治的な出世を遂げた

同時に、ロシアで最も人気のある大臣の1人となった
これが彼にとって最も重要なことかもしれない
そうして、プーチンの狭い友人たちの輪に加わり、実質的にロシア大統領の腹心の部下となったのである

2012年、当時の大統領、メドヴェージェフの推薦で正式な国防大臣に就任したが、100%、プーチンの采配である
人気者の「レスキュー」が国防省に現れたのは、ロシア軍に「新しい顔」を与えるというより、プーチンが疑いなく信頼できる個人的つながりのある「監督者」をその中に置きたいという願望からであった

注目すべきは、就任前のショイグには軍務経験がなかったことだ
プーチンの鶴の一声により一日で将軍になった

国防省では、主要メディア担当の役割をショイグが果たしている
そのため、ストレスフルなメディアの注目に慣れていないプロの軍人、ショイグの副官たちの手を自由にすることができる
英国情報機関によると、軍事の経験がないため、ショイグは陸軍で「合板元帥」とあだ名されていた
軍事専門家たちが、ロシア軍の真のトップは国防省第一副大臣兼ロシア連邦参謀総長のヴァレリー・ゲラシモフだと考えるのは当然だろう

ヴァレリー・ゲラシモフ上級大将

ゲラシモフは小隊長のときから参謀総長になるまで、ずっと陸軍でキャリアを積んでいる
ゲラシモフは軍事に関する著作でも知られている
ウクライナ軍最高司令官ヴァレリー・ザルジニーは、かつて「ゲラシモフに従って」軍事学を学び、このロシアの将軍が書いたものはすべて読んだと認めている

ロシアがクリミアに侵攻を始める一年前の2013年2月、ロシア連邦参謀総長ゲラシモフは、ある演説の中で現代のハイブリッド戦争の手法を説明した
その後、この戦略は「ゲラシモフ・ドクトリン」と呼ばれるようになった
彼は、軍事行動とともに、政治的、民族的、情報的、経済的なレバーを使うという考えを推し進めた

クレムリンの軍事的任務の遂行ロシア連邦参謀総長が主導的な役割を果たしている事がシリアでの作戦で明らかになった
その直接のプランニングをしたのがゲラシモフだと言われている

しかし、2022年2月においては、ゲラシモフの存在は全く宣伝されなかった
プーチンもショイグも、放送の中でゲラシモフに個人的な指示を与えず、いわゆる「特別軍事作戦」における彼の役割分担が宣伝されることもなかった
しかし、事態が進むにつれ、プーチンのウクライナに関する狂気じみた夢を実行に移さなければならないのは、まさにこの参謀総長であることが明らかになった

「シリアの虐殺者」とドンバスの戦い

プーチンが「DPR」「LPR」の独立を承認した2月21日直後の2022年2月24日、ウクライナに対して本格的な侵攻が開始された

これも「ハイブリッド戦争」の理論的延長上のことであり、以前から計画されていたことを示している
しかし、その最初の行動の後、短期的な軍事作戦というクレムリンの夢を、ウクライナ国民とウクライナ軍がぶち壊した
キーウ、スーミ、チェルニヒウ地方からロシア軍が追放され、ロシア軍の戦略的計画の問題が指摘され、事態の緊急調整をせざるを得なくなった

アレクサンドル・ドボルニコフ上級大将

この時、クレムリンと露軍参謀本部は、「作戦」を一つの指揮系統に集中させる最初の試みを行った
そして4月、南部軍管区長のアレクサンドル・ドボルニコフがウクライナでの戦闘作戦指揮官に就任した

いわゆる「特別軍事作戦」がまだロシア社会で広く支持を得ていたため、(注:特別軍事作戦の成功という花をプーチンが得るため、)このことは公に報道されることはなかった
プーチンは、どの将官も、人気のある「戦争の英雄」にしたくなかったのだ

実際、多くの研究者たちは、まさにこの人選は、プーチンが誰か一人の将軍に影響力を与えたくなかったという事実を示していると指摘している
プーチンは、ロシア軍内で非の打ちどころのない評判からはるかに遠い、怪しげな人物を選んだというのである


ドボルニコフが世間に知られるようになったのは、2015年から2016年にかけてのロシアのシリアでの作戦で、民間インフラへの混沌とした空爆が記憶に残っている
そのため、「シリアの虐殺者」というあだ名まで付けられた

ところで、ロシアの戦闘将兵はほとんど全員がシリアに放り込まれている
そこでは、ロシア兵たちが戦争ルールを遵守し民間人を大事にしていたとはとても言い難い
そのため、メディアによるロシア将校の語り口は、似ていることが少なくない

ドボルニコフがウクライナに赴任したのは、クラマトルスクの駅が恐ろしいロケット攻撃を受け、メディアが「ドンバスの戦い」と名付けた特別軍事作戦の「第2段階」が始まった時期と重なった
(注:キーウからの撤退を「特別軍事作戦の第1段階が終了した」とロシア軍は発表した。)

一方、ロシアの政治家や軍部の「早期勝利」というポジティブな発言は、前線の実情とはかけ離れていた
ドンバスでロシア軍が激戦の中で前進し、大規模な攻撃で大きな損失を出したことは、明らかにプーチンの望みとは一致していなかった
多くの空挺部隊と、2008年にジョージアとの戦争に参加した、最も戦闘力の高い第58軍に大損害を出していた

注:第58軍は2008年ジョージア侵攻、2014年のウクライナでのドンバス紛争に参加している。
「特別軍事作戦」開始時の指揮官はミハイロ・ズスコ中将。
ズスコ中将は犠牲を出し過ぎて逮捕されたと報じたメディアもあったが、2022年10月に戦闘指揮を執り、訓練を受けていない多くの動員兵を前線に送り出しているという報告もある。

結局、これらの要因が重なり、ドボルニコフは解雇されることになった

国防省副大臣と「Z」「V」「O」の兵士たち

ゲンナジー・ズヒコ大将

6月上旬、紛争情報チームの調査員から、国防副大臣のドボルニコフが交代したことが報告された

彼らの情報によると、ウクライナにおけるロシア軍の指揮は、ゲンナジー・ズヒコ大将に任されていたそうだ( ISWの研究者によっても確認されたと6月下旬に報じられた)

軍事専門家たちは、この決定は一時的なものだろうと予想していた
ズヒコは、国防省で軍事・政治方面の責任者だった
一言で言えば、典型的な副官タイプであり、将軍たちと共通言語を見出すことができても、長期的な権力維持は到底無理だっただろう

この局面でズヒコが単独で作戦を指揮するのは、クレムリンの計画にはなかったことだ
このときのロシアの「作戦休止」が、比較的かつ局所的な成功の後の発表だったという事実からも裏付けられている

そのような中、ショイグがウクライナを公開視察した

この訪問により、指揮官たちの姓名、軍指導部の構造が確認されることになった
その時、専門家はウクライナで活動している4つの軍団を明確に把握できたのだ
「西」、「東」、「南」、「中央」である
そのため、ロシア軍の西部軍管区、東部軍管区、南部軍管区、中央部軍管区の各軍管区の司令官が指揮をとっていることが分かった
研究者たちの中には、各部隊の軍用車両のマークは所属を表す「Z」(「West」)、「V」(「East」)、「O」(「Center」)であると考えている者もいる

西部グループ( Z、West )

アンドレイ・シチェヴォイ中将

7月に「西」グループを訪問したショイグは、その司令官であるアンドレイ・シチェヴォイ中将に命令を下した

これまで、アンドレイ・シチェヴォイ中将は、ロシア軍南部軍管区の本拠地であるロストフから、侵攻に直接関与している南部軍管区第8衛兵連合軍を統括していた
ハルキウ襲撃を主導し、ロケット弾によるクラスター砲撃を行った当時の西部軍管区長、アレクサンダー・ズラブリョフ大将の後任として、アンドレイ・シチェヴォイ中将は西グループのトップに就任したのだ

しかし、その後の経過を見ると、クレムリンはハルキウ地方の失敗の責任をシチェヴォイになすりつけることにしたようだ
(注:ウクライナ軍がアンドレイ・シチェヴォイ中将を捕虜とし、秘密裏に捕虜交換に使ったという噂もある。)

こうして、9月には、新たにロマン・ベルドニコフ中将が「西」グループの責任者に任命された

ロマン・ベルドニコフ中将

アルタイ地方出身のロマン・ベルドニコフ中将は、1991年にキーウのスボロフ・スクールを卒業し、ロシア軍でのキャリアをスタートさせた
2018年からは、トランスバイカル地方のチタに駐留する東部軍管区第29統合軍を率いている

注:ちなみに、3月11日、ウクライナは東部軍管区第29統合軍のアンドリー・コレスコフ少将を清算したと報告している

東部グループ( V、Vostork、East )

ルスタム・ムラドフ中将

7月には、当時の南部軍管区副司令官であるルスタム・ムラドフ中将が「Vostork」(東部グループ)を率いていることが明らかになった
ルスタム・ムラドフ中将は10月7日にロシア連邦東部軍管区司令官となる
ムラドフの前任の「Vostork」グループの指揮官は、オレクサンドル・チュイコ大佐である
オレクサンドル・チュイコ大将の指導の下、極東の軍隊、特にブリヤートの部隊が、キーウ近郊で多数の犠牲を出している

オレクサンドル・チャイコ大将

「中央」グループ( O、Center )

オレクサンドル・ラピン大将

7月に指揮官が解任されなかったのは、「センター」グループだけだった
指揮を執っていたのは、悪名高いオレクサンドル・ラピン大将である

ロシアのウクライナ侵攻後、メディアで最初にラピンのことが取り上げたのは、ロシア国防省のズベズダTVチャンネルだった
「チェルニヒウ地域の入植地解放の際に勇気と英雄的行為を示した」軍人を「最前線で表彰した」と報道している

その模様は3月29日に放送され、その後数日のうちにロシア軍はウクライナ北部(キーウ近郊)から完全に軍を撤退させた
ラピンの表彰者の中には、息子であるデニス・ラピン中佐の姿もあった

当時、ラピン・シニアがその地位を維持できたのは、彼の指揮下にあった部隊がリシチャンスクの戦いに参加し、その攻略によってラピンに「ロシアの英雄」の称号が与えられたからである
また、このラピンが、メディア・パーソナリティーになろうとしたことも記憶に新しい
部隊の装備につける「O」マークの伝説を積極的に考案し、誰にでも打ち勝つ「勇敢な《Отважних》」戦士がいるという説明をしている

皮肉なことに、リシチャンスクの攻防はラピンの7月の指揮権維持に貢献し、秋にはラピンのポストを奪うことになった

チェチェンの指導者ラムザン・カディロフと、PMC「ワグネル」代表のエフゲニー・プリゴジン(その役割については、以下の出版物で述べる)が、ラピンをリマンからの「裏切り的な撤退」を非難した
カディロフば、ラピンは6月にリシチャンスクを占領して「ロシアの英雄」とされたが、「ラピンはその場にさえいなかった」と非難した

このようなメディアの 「加熱」報道を受け、参謀本部はラピンを解任した

ISWによると、10月下旬にラピンの後任として、ウクライナ侵攻時にマリウポリとアゾフスタルの襲撃を指揮したアンドレイ・モルドヴィチェフが就任したとされている
しかし、ウクライナ軍参謀本部は、3月18日にモルドヴィチェフをチョルノバイフカ周辺で殺害したと報告していた

現時点(2022年11月末)で、どちらの情報が事実なのかは確認できていない

ロシア軍にとっての 「ハルマゲドン」

セルゲイ・スロヴィキン上級大将

7月にショイグが訪問したもう一人の司令官は、ロシア航空宇宙軍司令官のセルゲイ・スロヴィキンである
国防相に指示を出したのがスロヴィキンであることから、アレクサンドル・ドボルニコフが「南」グループの指導者から外れたと推測された
ロシア国防省によると、スロヴィキンはその後、ヒルスキーとゾロテの攻略の指揮を任され、ウクライナ軍にとってセベロドネツクとリシヤンスクの長期にわたる防衛が複雑化した

スロヴィキンの伝記は、すべての将軍の中で最も華やかなものの一つであろう
彼のキャリアで最も重要なエピソードは、1991年のクーデターに関するものである
当時24歳のスロヴィキン大尉は、タマン師団の大隊を指揮し、デモ隊のバリケードを突き破ろうとした
軍の行動の結果、3人のロシア市民が犠牲になった
その後、死んだ抗議者たちはソ連の英雄とされた
スロヴィキンは、この件で数カ月間刑務所に入ったこともあったが、捜査当局は結局、「指導者の指示に従った」として罪には問われなかった

また、これまで、スロヴィキンは、主に部下の不正に関わるさまざまなスキャンダルを繰り返してきた
ピストルの違法販売で1年間の執行猶予がついたこともある
さらに、2004年には、自分の将軍室での「激しい会話」の後、直属の副官が拳銃自殺している
この事件以来、スロヴィキンは「ハルマゲドン」というニックネームを持つようになった
ロシアのプロパガンダは、スロヴィキンがそのような特性を得たのは、彼の「厳しい性格」と「管理スタイル」のためだと盛んに喧伝している

注:スロヴィキンのスキャンダラスな経歴については、露政府系シンクタンクの専門家も同様の指摘している。
更には、ロシア航空宇宙軍の機能不全はスロヴィキンの「横領」に起因しているのではないかとまで示唆している。

10月、スロヴィキンが「南」グループの指揮官から、ウクライナのロシア連合軍全軍の指揮官に昇進したのは、明らかに命令への従順さが重要視された結果である
ハルキウ地方での反攻、へルソンからの撤退、不人気な動員など、クレムリンがプーチンと結び付けたくない「難しい決断」にまつわるすべてのネガティブなイメージを払拭するには、スロヴィキンのイメージが適しているのである
注:スロヴィキンは嫌われ役として選ばれたのだ

現在、プーチンのメディアは、スロヴィキンを型破りな手段もためらわない、「軍を大切にする」将軍に仕立て上げようとしている
しかし、これまでのところ、スロヴィキンの演説は、慎重な戦略家やカリスマ的指揮官というよりも、映画や漫画に出てくる泥棒を連想させる

プーチンやその側近がスロヴィキンを選んだのは、成功した場合には本当の意味でプーチンの脅威とならず、むしろ、失敗した場合にでもスケープゴートとして最適な人物だったからなのである
(終わり)

最後まで読んでいただいてありがとうございます😊
どうか「スキ」「ツイート」「シェア」をお願いします!
できましたら、感想をコメントで一言いただけると、ものすごく励みになります😣!😣!

サポートしようと思って下さった方、お気持ち本当にありがとうございます😣! お時間の許す限り、多くの記事を読んでいただければ幸いです😣