見出し画像

ひたむきな美しさは儚さと危うさの間にある。

少女とは何か?正義でもない。不変でもない。宗派でもない。民主主義でもない。民族でもない。美である。それは人間であり、それは歴史であり、それは象徴であり、それは時間であり、それは生命であり、美であるからゆえに当然として、超然として、愕然として、公然として、必然として、むしろ偶然的に、不滅なのだ。
コミックLOより抜粋

少女。それは儚く、健康的な美しさを持ちながらもそれでいて期限が決まっていて、危うさも秘めているようなそんな思い出の中の存在だ。ここでいう期限というのはあくまで少女の期限、というだけで「女の期限」ではないことを理解して読んでほしい。

少女には、少女としての「死」が必ず決まっている。人は必ず大人になり、それまで自分が持っていた考えも、見た目も、必ずしも変わるという訳ではないが、どこか達観と諦観を覚え社会に組み込まれていく。
自分が少女として死んでいくような感覚を今でも覚えている。
例えば、周りの大人にいつまでそんな服を着ているの?いつまでフラフラしているの?などと聞かれるようなタイミングで、周りからは自分はもう少女に見えていないのか?と理解してしまう。理解してしまえばもう、自分が少女だと思うことは出来ない。外見でどれだけハリボテを作ろうとも、本当の自由を手にしていた一時の儚さは返ってこないのだ。
どれだけ「少女性」を演出しようが、本物の少女にはなれない悔しさを、大人になっても持ち続けている。

「少女性」というのは、何にもとらわれず自由に夢を追いかけ、純粋無垢に振る舞うさまに美しさを感じるような性質のものだと思っている。手を触れてはいけない。なにか神聖で身近で儚い。どこか女性的であるのに、自身を「女」とするのを嫌い、それを恐れる心証こそ彼女らの神聖さを助長している。
いわゆる男性が女性に求める「処女性」とはまた似て非なるものだ。

その「少女性」を羨ましくも、眩しくも思う。
確かに自分にもそんな時期があり、同じように過ごしていたはずなのに、もうそのような存在にはなれない。「少女性」を演出するような映画を見て、私はもう少女にはなれないのかと足踏みする。その考えこそ、今の大人になった自分を象徴しているようでとても煩わしい。

もっと自由で、刹那的で、不謹慎で、何にも縛られないような。
ひと夏の思い出とともに消え去る、少女達のような。
そんな存在になりたいと、そんな存在を作りたいと思うのは私がきっともう一生少女になれないからなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?