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しんどさの先にあるもの

我が家はいま、思春期の娘と反抗期の息子と更年期に片足を突っ込み始めた私とのホルモンの闘いが繰り広げられている。

わかってはいても、子どもの心無いキツイ言葉につい感情的になってしまい、イライラをコントロールすることができない日々。

感情的に怒ってしまっては反省することを繰り返し、疲れきってしまうことがある。

頭をクールダウンさせるため、一人で静かなところに行きたいと家をでるものの、頭の中は「明日はお昼から出かけるから、子どものお昼ご飯を用意しなくちゃ。何にしよう」「もうすぐ夕方だから、夕飯考えなくちゃ」と、結局は子どもと食事のことを考えている。

お金を与えて「何か買って食べて」と言えばいいかもしれないが、コンビニでおにぎりとお菓子ばかり買うとわかっているから、やっぱり作ったものを食べさせたいと思ってしまうのだ。

どんなに罵倒されても、子どもと本気で喧嘩しても、子どもの食事のことを考えている自分がいることに気がつく。

帰りたくないなぁ、、と思いつつも、食事作りという母業が私を家へと帰らせる。料理が好きなわけではないし、むしろ面倒くさいけれど、食事作りという私のやるべきことが、家族と私をつなげる糸のようだ。

糸電話の糸のように、料理が私と家族の心をつなげているのだなぁと。

糸を辿った先には家族がいる。ホルモンバトルが繰り広げられている我が家だけど、私の帰るべき場所は台所であり、帰る場所があることに、しんどさと存在理由と感謝と様々な想いが複雑に交差する。

香りと同様に味覚は記憶を手繰り寄せる。いつか子どもが大人になったとき、食べた料理から母を思い出すことがあるだろう。サラリーマンが「おふくろの味なんですよ」と、通いつめる弁当屋のように、懐かしさだけでなく、心を支えるものになるだろうと思っている。

さて、帰って夕飯と明日の昼ご飯を作るとするか。

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