見出し画像

2024/01/22

本当にただの個人的な日記。父親に捧げる日記。写真は今は亡き実家。

今日は授業がなかったので溜まっていた家事をやり(本当に家事ができないので今日も半分ぐらいしかやれていない)、そのあと仕事をしてから池袋のジュンク堂に行った。7階の参考書コーナーで英語指導用の参考書を物色して、いくつか目ぼしいものを手にとって会計のために下に降りる。ジュンク堂は3階が文芸や文庫のコーナーになっていて、上の階から下るときはいつも吸い込まれるようにしてエスカレーターから降りてしまう。今日も例に漏れず3階で一度降りて、新刊の棚を見ていると、サリンジャーのナインストーリーズの文庫があったので、今まで読んでこなかったしこれを機に読んでみるかと思い帯だけちらっと見てそのまま参考書を持っている左手に収めた。サリンジャーのとなりに『自分がおじいさんになること』という本もあって、ふと父のことを思い出してしまった。

父はコロナパンデミックの初期、2020年の4月にコロナに罹り、その後急激に肺炎が進行。3ヶ月にも渡って人工心肺による延命治療を続けたが、結局その年の7月に死んでしまった。ぼくはそれから今まで、この父の死という現実とずっと向き合わざるをえなかった。父が死んで4年半経った今でも、父のことを思い浮かべない日はない。

そのとき父は66歳だったので、そこから2年ぐらいは、60代から70代ぐらいの男性を街で見るたびに父のことを思い出して、胸が締め付けられるような感覚が消えなかった。それ以上に、明らかに背中が曲がって前傾姿勢で歩いている「おじいさん」たちを見るたびに、「父は『おじいさん』になるまで生きることができなかった」という事実が受け止められず、悲しみや寂しさ、悔しさがぐちゃぐちゃになった感情に胸を突かれて涙が堪えきれなくなることが度々あった。

最近はそういうことはなくなってきたけど、今日『自分がおじいさんになること』というタイトルを見てふと思い出してしまった。でも涙が堪えきれないというような感じではなくて、寂しいんだけど悲しくはない、みたいな不思議な感情だった。
父が死んでから2年後に、ぼくが中学校のころから住んでいた家でもあった、曽祖父〜祖父〜父と受け継がれてきた父の実家は、ネズミやハクビシンが棲みついてしまい維持が難しくなったため解体された。母は父のお墓の近くの土地に家を買い、しょっちゅう墓参りに行っている。
ぼくもそれに付いていって墓参りに行くことが多くなったので、少し気持ちに整理がついてきているのかもしれない。それでも父親を思い出す日々から抜け出せることはないと思うし、それでいいんだと思う。

二十歳を超えてお酒を飲むようになっても、父と2人でお酒を飲むということはほとんどなかった。なんだか恥ずかしかったから。今でもまだ恥ずかしくて飲めないと思う。恥ずかしさなく2人で飲めるようになるまで、最低でも5年、下手したら10年ぐらいはかかる気がする。もうちょっと生きててほしかったな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?